灯台下暗し
※11月上旬
※11月22日は長野県りんごの日でした。
*
朝晩の冷え込みが冬のそれの気配を含みはじめ、紅葉がもうすぐ見頃を迎えるだろうという頃、ハルの実家からひとつの荷物が届いた。ハルが仕事で家にいない時間に宅配便で届いたらしく、受け取ったアキは「ハルさん宛てだったし開けていいかわからなかったから」と封はそのままにしてハルの帰宅を待っていたそうだ。
「荷物送るなんて一言も言ってなかったけどなぁ……」
独り言を小さく呟きながらリビングに置かれた荷物の側にしゃがみこむ。伝票の内容物表記には食品と書かれていた。試しに箱を持ち上げてみると、サイズの割には重量がある。よく見ると、段ボールを留めるガムテープも二重で貼られていて、なるほどこれは重いはずだ、とひとりで勝手に納得する。
「なんだろ、野菜とかかな」
それなら一人暮らしではかなり余りそうだしな、とハルは故郷での暮らしをぼんやり思い浮かべた。
長野県の中でも北陸新幹線沿線の、相対的には都市と言えるところで生まれ育ったハルではあるが、農業県ということだけあってか、ご近所さんから農産物をいただくイベントには事欠かない。加えてハルの家は母子家庭という事情もあったので、おそらく周囲の人も気を遣ってくれていたのだろう、季節が変わるたびにそのとき穫れたものをおすそ分けしていただくことが多かった。母が勤め先の人からもらってくることもあれば、玄関の前に突然段ボールに詰まった野菜を置かれていることもあったが、無記名で段ボールだけがどんと置かれていようと、中身で誰からなのかが分かるし、恐怖感もないから不思議なものだと思う。
おすそ分けをいただくことも付き合い方のひとつだと母はよく言っていた。もらっている以上お礼は別のものやことでしていたけれども、おすそ分けをする側の動機は「余ってて捨てるしかないからあげる」だけなので、もらう代わりに見返りを求められるなんてことはない。だから、ありがたくもらうだけで近所付き合いがひとつ成立する。その縁を母から切ることはおそらくないので、今も縁が続いているのなら、量こそ加減されても農産物を頂いているのだろう。そして、中身は多分そのおこぼれである。
手近にあったはさみでテープを切り蓋を開けると、緩衝材代わりの丸めた新聞紙の隙間から、特徴的な香りが漂ってきた。この香りは覚えがある。
「りんごだ」
ハルは新聞紙を取り出していく。その下から出てきたのは、りんごが十個と、じゃがいもに大根と、写真サイズくらいの封筒がひとつ。封筒の中に入っていた便箋を確認すると、そこには母らしいな、と思うことが書かれていた。
その便箋を畳んで再び封筒にしまうと、ハルは夕食の準備のためにキッチンにいたアキを手招きした。
「あ、荷物開けたんだ。中身なんだったの?」
段ボールが開いていることに気づいたアキに訊かれたので、ハルはそれに忠実に答えた。
「野菜とりんごの差し入れ。あとお母さんからアキに手紙」
「えっ」
はい、と封筒を差し出すと、アキがわかりやすく固まった。まさか自分宛の手紙が入っているとは想像もしていなかったのだろう。それが可笑しくて、ハルは小さく吹きだした。
「大丈夫だよ、そんな身構えなくても。堅苦しいことなんかひとつも書いてないから」
「ハルさん先に読んだの? おれ宛てなのに」
「だって封筒に宛名なかったんだもん。でもほんと、大丈夫だから」
そこまで言うとアキはようやく封筒を受け取り、おそるおそるという様子で中を見た。
-*-*-*-
拝啓 尊さん
こんにちは。秋も深まってきましたね。
そちらは変わらずやっているでしょうか。
遅くなりましたが、先日はうちに遊びに来てくれてありがとう。
娘だけで放っておくといつまでも帰ってこないので、
定期的に引き連れてきてくれると嬉しいです。
今回はそのお礼ではないですが、せっかく長野に来てくれたので
長野県の秋の味覚、りんごを送りました。
でもただ送るだけでもつまらないので、
ちょっとしたクイズを提供したいと思います。
この箱には、長野県生まれの三種類のりんごが入っています。
どれがどれだか、当ててみてください。
正解はうちの娘に聞けば分かります。
一緒に入れている野菜はご近所さんからもらったものです。
そちらは野菜が高いと聞きますし、お役に立てば幸いです。
敬具
〈リスト〉
秋映
シナノスイート
シナノゴールド
春風
-*-*-*-
「えぇ……」
手紙を読み終えたアキは、困惑していると顔に書いた表情をしていた。変な顔、とからかうと、うるさいな、と不貞腐れられた。
「え、てかハルさん品種分かるの?」
「うん。この三種類なら見た目も味も全然違うし」
そう言いながらハルが段ボールの中のりんごに目線を向けると、それを追うようにアキも箱の中を覗き込んだ。
「あ、ほんとだ、まず色が違うのがひとつある。これ青りんごってこと? 青りんごって熟してないやつって感じするけど」
段ボールから色が違う、つまり赤くないりんごを取り出したアキがそんなことを言った。そのりんごは緑がかった黄色で、たしかにそれは青りんごの部類に入るものだ。
青いとまだ熟していないというのはそれはバナナでは、とツッコミを入れたかったハルだったが、それは飲み込んで青りんごについて説明した。
「青りんごって未熟なのを穫るから青いんじゃなくて、熟しても赤くならない品種ってだけだからね」
「そんなのあるの? 熟す前のやつ穫ってるんだと思ってた」
「熟す前のは流石に食べられないよ。……え、待って」
アキの一連のリアクションから、ハルはひとつの可能性に気がづいた。
「アキ、もしかして青りんご食べたことない?」
そしてその可能性は事実へと姿を変える。
「うん」
「東京なのに青りんごないんだ……」
東京のりんご事情を知らなかったハルは素で驚いた。
だって東京はなんでも揃う街なのに。青りんごの一つや二つや三つくらいあってもおかしくはない。
信じ難い、と口にこそ出さなかったハルだったが、そう思っていたことはアキにも筒抜けで、アキがため息と共に説明を加えた。
「そりゃフルーツ専門店とか行けばこういうのだってあると思うけど、そこら辺のスーパーで扱ってるりんごは赤いのだけだし、大抵は種類も選べないよ」
「え、そうなの? 普通に三種類くらい並んでると思ってた」
地元、長野県のスーパーでは、秋口になると常に三種類ほどのりんごが並んでおり、一番品種が充実する十月頃には六種類くらい並んでいることもある。
「いや全国第二位のりんご産地と一緒にしないでね? ないからね?」
「え、でも産地の利の話なら、自販機がないとか駅でのりんご販売がないとかそのレベルの話になるけど」
新幹線が停車する駅を擁する都市であろうと、駅でのりんご販売は普通にある。季節になると私鉄駅の改札前に地元産のりんごが並び、駅員にお金を払うことで購入できる。自販機はさすがに車を走らせないと辿り着けないような場所にはあるものの、それでも市街地から三十分ほど走れば着く。
「ちょっと待って自販機って何。駅での販売は想像つくけど」
まさか飲み物の自販機みたく、お金入れたらりんごが上から落ちてくるの? りんご傷つくよ? と混乱するアキに、ハルは違うよ、と訂正を入れた。
「扉を透明にして中が見えるようにした鍵付きロッカーの中にりんごとか売り物が入ってて、番号と値段が貼ってあるの。で、隣に券売機みたいな機械が置いてあって、ほしいものが入ってる場所の番号入れてお金払うとそこの鍵が出てきて、あとは鍵を開ければ商品が手に入るっていうシステム」
言ってしまえば無人販売所のセキュリティ強化版であるが、多少の手間がかかる分買う方も割と楽しくなるので、つい行ってしまうのだ。
「はー、そんなのあるんだ。なんか工夫がすごいね」
「でしょ」
さて、とハルはわざとらしく咳払いをひとつして、話を本題に戻した。
「じゃあこの黄色いのはどの品種でしょう。ヒントは色です」
「色? ……ってことはシナノゴールド?」
シナノゴールドは、この三つの中で唯一名前に色情報が含まれている品種だ。
「正解」
「やった」
答えを告げると、アキが小さくガッツポーズをした。
「あと二つも違うっちゃ違うけど……」
残り二品種である赤いりんごをそれぞれ箱から取り出しながら、アキが言った。ひとつはりんごと聞いたらまずはこれを想像するだろう、という程度の赤色のもので特に模様は入っていない。もう一つはかなり濃い、光の加減次第では黒にも見える赤色で、薄く斑点が入っている。
「ハルさん、もう見た目に名前のヒントはない?」
「まぁないね。どっちも秋には映えるだろうし、見た目じゃ甘さはわからないし」
「名前から考えると、食べてみてより甘い方がシナノスイートだとは思うけど……」
「うん、その予想の方向は正解」
「でも、おれに違いなんて分かるのかな。りんごの品種の違いなんて、生まれてこの方一度も気にしたことないよ。実家でもりんご食べる機会あんまなかったし」
「大丈夫、秋映とスイートは味も食感も面白いくらい違うから」
そこでハルは、夕食後のデザートにひとつずつ剥いて食べ比べをしてみよう、と提案した。ひとりでは二つも剥くとたとえ種類が違おうが量が多くて飽きてしまうし、分けて食べるにしても切ったものを長く置いておくのは気がひける。でも二人なら食べきるにもひとり一個がノルマなので、デザートとしてもどうにか食べられる範囲内だ。
その提案に、アキは即座に「やりたい」と同意した。
「違いが分かるか不安だけど」
「この二つは本当に違いが分かりやすいから安心して」
じゃあ夕食後に、と約束を取り付けて、アキが夕食の準備にキッチンへと戻るのを見届けて、ハルも風呂支度をするためにリビングを後にした。
*
そして夕食後。りんごを切る係はハルが担い、見た目の違いを残せるように、皮を剥かずにくし切りにした。
「塩水につけるとかしてないので、サクッと食べないと変色します」
そう宣言してダイニングテーブルの真ん中にりんごを載せた皿を置くと、アキがおかしそうに言った。
「最低限で済ませるところがハルさんらしい」
ありがとう、じゃあこっちからいただきます、とアキは赤色の濃い方を選んだので、ハルはもう一種類の方をひとつ食べた。
品種としては、ハルが今食べている方がシナノスイートで、アキが先に選んだ方が秋映である。シナノスイートは甘さが目立つ品種で食感も柔らかく、秋映はスイートに比べると食感が固めで酸味が効いた品種である。
果物全般で言えることだが、ハルは甘みがずば抜けているものよりも、甘さの中に少し酸味があるものが好きなので、りんごでは秋映や、同じく酸味が効いていて早生品種であるシナノドルチェをよく食べていた。だがそれも実家にいるときの話で、一人暮らしの時にはりんごを買って剥いて食べるということすらしていなかったし、アキと暮らし始めてからの三年半ほども、アキがりんごを食べる習慣がないのか、一度も食卓に出てきたことがない。
(向こうのりんご食べるなんていつぶりだろうなぁ)
そんなことをぼんやり考えながら咀嚼していると、テーブルの向こうから感嘆の声が聞こえた。
「え、おいしい! なにこれ!」
アキの表情にもめいっぱいに『おいしい』と書いてある。ただ、そんなに驚くことか? とハルは疑問に思った。
「なにこれってりんごだけど……」
むしろそれ以外に何があるのか、と疑問をそのまま口に載せると、アキが勢いのままに言った。
「だってこんなシャキシャキしててみずみずしいりんごなんて知らない!」
「は?」
今度はハルが驚く番だ。品種によって水分量や食感に差はあれども、りんごは基本シャキシャキしている果物だ。そうじゃないりんごってなんだ? とハルが混乱している傍らで、彼は言葉を続けた。
「なんかりんごってもっと味がぼんやりしてて、食感もちょっともそもそしてて、たしかに甘いしまずいわけじゃないけど、こんなおいしい! ってなるものじゃないのしか食べたことなかった」
それは長野県育ちとしては、到底信じられない認識だった。そんなりんごしか食べたことがないなんて、一体東京のりんご事情はどうなっているんだ。
「……
驚きと呆れと苛立ちを混ぜて足して三で割ったような気持ちになりながら、ハルはそう呟いた。すると、アキが首を傾げた。
「呆けたりんごって?」
「りんごの風味が落ちたことをりんごが呆けたって言うんだよ、長野では」
方言は、何も聞き取りが難解な言葉だけではない。一般的なありふれた言葉でも、ローカルルールのもとで運用されればそれは方言になる。
種明かしをすると、アキはへー、と頷いた後、「その言い方面白いね」と言った。
「面白い? なんで」
「味が落ちても食感が変わっても、りんごの香りや味がまるでなくなってるわけではないじゃない? 『呆ける』って言い方は、それをうまく表現してる気がして」
味の輪郭が曖昧になるから『呆ける』。確かにただ「味が落ちた」と言ってしまうよりは味の変化のイメージがつきやすい言葉なのかもしれない。
「言われてみれば……」
今まではそんな風に考えたこともなかったけれど、アキの意見を聞いて、一理あるかも、とハルは思った。
「味が落ちたって直截に表現するよりはなんか可愛らしいし。呆けたって言われると許しちゃう、おれは」
「ごめんそれは分かんない」
「なんだ、残念」
*
「そのりんごはどんな味だと思った?」
各々が最初に摘まんだ一切れを食べ終えたタイミングで、本題であるりんごの味の感想を聞いてみると、彼は困惑した声色で「えぇ……」と呟いた。
「そんな困るほど難しいこと聞いてないと思うんだけど、今の」
「りんごの本場出身の人相手にそれを言うのは恐れ多いしやだ」
不貞腐れた子どものような顔をしてそんなことを言うので、ハルは思わず吹き出してしまった。なんで笑うんだ、という恨みがましい目線が向かいから飛んできたが、そんなことは気にしない。
「直感でいいよ、食レポしてほしいんじゃないんだし」
求めているもののハードルは高くない、と示してやると、アキは渋々といった様子で感想を述べた。
「……甘くておいしいのは大前提なんだけど、りんごジュースとかアップルパイの中身ほど甘くはない、って思った。爽やかな味というか」
お、とハルは感心した。
「いい線いってるよ、ちゃんとこの品種の特徴分かってる」
「え、ほんと?」
そう伝えると、アキの表情が明るくなった。よほど自信がなかったらしい。
「ほんとほんと。次こっち食べてみ」
ハルは先ほど自分が食べていた方のりんご、シナノスイートを指さして言った。そして自分は秋映をひとつ摘まんで口へ放り込む。うん、やはり自分はこっちの方が好きだ。
「え、味が全然違う!」
アキが再び感嘆の声でそう言った。一口かじっただけでさっき食べた方と味の違いが分かったことに驚いたらしい。
「こんなに変わるんだね、すごい」
「でしょ。さて、どっちがどっちでしょう」
「今食べた方は甘いし、ちょっと柔らかい? のかな。より甘いのを選ぶのならこっちになるから、これがシナノスイート?」
「そう、正解。アキが先に食べてた方が秋映でした」
これにて母からの出題は全問終了。したがって、あとはおいしくいただくだけである。
「ちなみにアキはどっちが好き?」
「この二つなら、おれはシナノスイートの方が好きかも。味もそうだけど、食感がやわらかくて」
「じゃあ残りのスイート全部食べる? 私は秋映派だから、秋映もらえればそれでいいし」
「えっやだそれはもったいない。せっかくの食べ比べだから両方楽しみたい」
「何それ」
ふふ、と二人で小さく笑う。アキの申し入れ通り、残りのりんごは両方を半分ずつで食べ切ることにした。
*
「ご馳走様。おいしかったー」
「お粗末様でした」
「ここまできたらシナノゴールドの味も気になるなぁ。……たぶんもう入らないけど」
空の皿を目の前にして、アキが苦笑しながらそう言った。確かにお腹具合はもうかなり満腹に近いし、今からもうひとつを剥いて食べる気にはならない。ただ、味が気になるというその気持ちは分からなくもない。
「それじゃ明日の朝にゴールド食べようよ。一晩寝たくらいじゃ今日食べたふたつの味も忘れないでしょ」
だから、代わりにこう提案すると、やっぱりアキはその提案に乗ってくれた。
「それいいね! じゃあ明日の朝はパンにしよう」
「うん。お願いします」
朝ごはんの準備もしたいし片づけはおれがやるよ、とアキが申し出てくれたので、ハルはその言葉に甘えて、リビングのソファに移動した。そこから何をするでもなく十分ほどだらけていると、片づけと仕込みを終えたらしいアキがマグカップを二つ携えてやってきて、ハルの隣に座った。
「はい」
「ありがとう。いただきます」
差し出されたマグカップを受け取り、礼を言う。中身は温かいほうじ茶だった。
家事もあらかた片付けた後の、ほんとうの一日の終わりに飲み物を片手にソファに座り、二人で他愛のない話をすることが、いつからかこの家での習慣になっていた。飲み物のセレクトは準備する側の気まぐれで、たまにアルコールが入ることもある。
今日の話題は、先ほど利きりんごをしたこともあって、やはりりんごになった。
「産地いいなぁ、こんなおいしいりんごがスーパーで普通に買えるなんて」
「だって呆けたりんごは誰も食べないってみんな知ってるから、流通になんて乗らないし。市場に出したところで売れないか、店の悪評が流れるかだけなんじゃないかなぁ」
でもその『当たり前』って贅沢だったのか、と独り言のつもりで続けると、それを聞いていたアキが笑った。
「『当たり前』は側から見れば贅沢だよ、なんでも」
「なんでも?」
全ての当たり前は贅沢だ、ということなのかと言外に訊き返すハルに、アキはそうだよ、と答えた。
「たとえば東京の電車事情は、長野の感覚からすれば贅沢だって思うでしょう?」
「うん。時刻表確認しないで駅に行っても電車が来るのが信じられない」
今でこそハルも馴染んでいるけれど、昔は修学旅行や就活なんかで上京するたびに、首都圏の電車事情、たとえばその本数の多さ、車両編成、駅にごった返す人々、IC専用自動改札などに慄いていたものである。なぜなら地元は、時刻表を確認してから予定を組み家を出て、切符を買って駅員さんに改札でスタンプをもらって電車に乗り、五両編成ですら「今回は編成長いな」などと思うような世界だったから。
「でもおれみたいな、ここで生まれ育った人間からすれば、それだけ電車があって、どんな電車もICカードで乗れるこの環境がないことを考えられない。実際、過密ダイヤもICカード乗車券も横いっぱいにいくつも並んだ自動改札も、東京や首都圏に暮らす大人数をなるべく短時間で捌ききるために必要だからあるだけで。だから頭の中に、これが贅沢だとか思う隙間もないの」
【贅沢】という言葉を辞書で引くと、【必要な程度を超えて物事に対して金銭や物を使い、惜しまないこと】とある。が、『当たり前』は、客観的に見たら過剰かもしれなくても、当事者の物差しをあてると必要な程度に収まってしまう。だから贅沢だとは感じなくなる。
「長野のりんごが美味しいのもスーパーで品種を選んで買えるのも、当事者が贅沢なんて思う隙間はなくて当然なんだよ。そこにそういう環境があって、それがあることが前提の文化が形成されれば、贅沢だと思えるようなすべての要素が全部『必要な程度』に収束するから」
なんとなくアキの言いたいことが分かった気がする。そう感じたハルは、答え合わせのつもりで、話の着地点と思われる部分を口に出してみた。
「だからそこから離れて文化が変わって、側から見たときには、当たり前だったものが贅沢に映る……ってこと?」
すると、アキは笑って「その通り」と言った。どうやら合っていたようだ。
「おれが言いたかったのはだいたいそんな感じ」
伝わってよかった、と安堵するアキの傍らで、ハルはその話にそこはかとない寂寥感を覚えた。
だって、離れないとその贅沢に気がつけないなんて。贅沢が身近にある時から大事にできた方が、今より幸せだと感じることが増えるかもしれないのに。
「……なんか、寂しいね、それ」
それをそのまま言葉にすると、アキは「うん」と頷いた。単なる相槌ではなく、同意の首肯だというのが彼の声色から伝わる。
「もっと言うと、『当たり前』は人の視野も狭くする。そこにある奇跡も努力も全部隠して、綻びにフォーカスさせる」
例えば、ごくたまに呆けたりんごに当たってちょっと嫌な気分になったり、電車に数分の遅延が発生しただけで鉄道会社に不満をぶつけたり。贅沢が身近にありふれて『当たり前』に昇格し、それを基準に物差しが補正されてしまうと、ひとは足りない面や悪い面ばかりを見つけて、さらに過剰に要求する。本当はそこにあるだけですごいことなのに、そのすごさには目もくれない。
「救いがないじゃん」
ハルは吐き捨てるかのようにそう零した。だって、あんまりにもいたたまれなくてつらくて切ない。アキはすこし困ったように笑って言った。
「うん、救われない」
だけど、と彼は続ける。
「『当たり前』って思えるくらい近くに奇跡が在り続けること自体は、すごく美しいことで。たとえば今のこの状況も」
遠く離れたところで生まれて、育った環境も全く違う他人同士が出会って、意気投合して、同じ屋根の下で暮らすまでに至ったこと。今そんな相手とのんきにお茶を飲んで話していること。この後同じ布団に潜って、また明日と言いながら眠りに就くこと。
「その美しさを忘れなければ、奇跡に慣れて、『当たり前』だと思って享受したとしても、奇跡自体は見失わないでいられる。見失わなければ、拗れて縺れて絡まっても、何度だってそれを解いて仕切り直して再スタート出来る。そういうものを積み重ねた『当たり前』なら寂しくなんかならないし、素敵な景色が見れるんじゃないかなって。おれはそう信じてる」
……なんだか今、ものすごくとんでもないことを言われた気がする。結婚を決めたあの時よりももっとすごい、何かを。
ハルはどうにか何か返事をしなければと思ったが、当然何も出てこなかった。だって、あまりに衝撃が大きすぎたから。
「………………」
「……ハルさん?」
アキは黙ってしまったハルを不思議がっていた。どうやら自分が放った言葉がどうハルに届いたかをあまり分かっていないようだ。この人のこういうところがずるい、とつくづく思う。
だって今の言葉って、いわゆる誓いの言葉で交わす契約そのものだ。しかも彼の中からそのまま出てきた言葉だからか、定型文で交わすそれよりももっと深いところまで抉られたような、そんな気さえする。
抉られているはずなのに。どうしよう、嬉しい。
ハルはマグカップをテーブルに置き、思い切りアキに飛びついた。
「うわっ」
突然のことに戸惑いながらも、アキはそれでも不安なくちゃんとハルを受け止めた。そのあたりはさすが成人男性といったところだろうか。
「えっなに、どうしたの突然」
普段のハルなら絶対にこんなことはしない。アキもそれを分かっているから、それは本気の質問だった。仮にも妻の肩書を持っている自分が夫の肩書を持つ相手に抱きついているのに、微塵も甘くならないのがものすごく自分たちらしい。
「アキと結婚できてよかったなって、今すごく思ったから」
「……それは嬉しいけど、この会話のどこで?」
結構現実味のある容赦ないことしか言ってないのに、と本気で困るアキが面白かったので、ハルはからかうことにした。
「教えない」
「えぇ……。おれやっぱハルさんのこと時々分かんない……」
アキは全く思惑が読めないハルの言動に戸惑いながら、それでも飛びついたハルの背に腕を回してくれた。そのままただ体温を分け合って、笑った。
「ふ、はは、なにこの状況」
「いや最初に仕掛けたのハルさんだから! その疑問はこっちの台詞!」
「だってアキがすごいこと言うから」
「おれそんな大それたこと言った?」
どうやらまだ彼はピンときていないらしい。
……決めた、何でこんなに嬉しくなったかは絶対に教えない。
「よーし、片付けて寝よう。明日はゴールド食べるって約束、忘れないでね」
「ねえ待ってわかりやすく話を畳まないで? 気になるんだけど?」
「自分で気がつかないのが悪い」
そう言い置いて、ハルはさっきテーブルに置いた自分のマグカップを手に取り、ついでに随分前から空になっていたアキのそれもぶん取ってソファから立ち上がった。
「あ、ありがとう。……ってだから!」
「教えないったら教えないー」
なおも食い下がるアキをあしらいながら、ハルは笑った。
「ねえ、アキ」
「何?」
「私も信じる。寂しくない『当たり前』がいつか訪れること」
だから、何度でも結び直そう。この贅沢な『当たり前』を。
(fin)
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