年を重ねて、時を超えて
*
「ハルさん起きて、朝」
「うー、……はい」
相変わらず朝が早い同居人に起こされて、返事をする。ただ、普段起きる時間よりは三時間ほど遅いため、ハル自身も比較的辛さを感じていない起床でもあった。
「あれ、今日素直に起きたね。昨日遅かったのに」
感心したと言わんばかりにアキが言うので、ハルは少しむっとした顔をしてこう返した。
「さすがにこの時間だし、この後予定あるのに二度寝できるほど肝は据わってない」
すると、アキは「知ってるよ」と軽く笑った。
このやりとりはただの冗談だと、軽く笑いとばすためのものだと、二人の間で共通認識ができている。それが嬉しいと思った。
「あけましておめでとう。今年もよろしくお願いします」
「……あけましておめでとう、ございます」
「なんでちょっとぎこちないの」
「なんか、慣れなくて」
「慣れないって、何に」
「一緒に暮らしてる人がこんなにのんびり休んでることに」
「……年末年始も働きに出てたの?」
アキが言っているのは、ハル本人のことではない。そして、ここ数年の話ではなく、もっと前のことについてだ。
「まぁ、その時だけの短期バイトとかもあるし、そういうのって割もいいし。お金は少しでも多くあった方がいいことも、それが私のためでもあるってことも分かってたから、休みに一緒にいてほしいなんて言えなかった」
「そっか」
アキはそれ以上、何も言わなかった。
「よし、じゃあ準備しよう」
ベッドから抜け出してハルが言うと、アキも頷いて寝室を後にした。
*
元日。国民の休日。でも、ハルの母親はそんな日でも働いていた。お正月飾りも、おせち料理も、お雑煮も、お年玉もなかった。それが普通だった。みんなが楽しそうに冬休みの思い出を語っているのを聞きながら、どこの世界の話だろう、と思っていた。
おそらく普通は家族とのんびり過ごす日でもひとりきり。寂しくなかったわけではない。でも、寂しいとも言えなかった。
*
「よし、できた!」
彼が高らかに終了宣言をしたのは、ダイニングテーブルのセッティングだった。中央におせち料理を詰めた重箱と、お屠蘇用の酒器。ランチョンマットに見立てた和紙の上には取り皿や箸と、漆塗りの蓋つき汁椀。このセットはハルとアキと、あと一人の三人分用意されている。ちょうどそのとき、ハルのスマホが鳴った。メールが届いたことを知らせる音色だ。
「もうすぐ着くって。迎えに行ってくるね」
「うん。行ってらっしゃい、気を付けてね」
アキの見送りを受けて、ハルは最寄り駅に向かった。
今日は、母がこの家に来訪するのだ。
「この家に呼ぶのは初めてなのか、そういえば」
ハルは就職と同時に地方にある実家を離れた。地方から出てくる最初の引っ越しは母にも手伝ってもらったし、何度か遊びに来たこともある。しかし、ハルがワーカーホリックになるにつれて、母も遊びに行くとは言わなくなり、自分も呼ぼうとはしなくなった(代わりに年末年始やお盆の連休には帰省するようにはしていたが)。今の家に引っ越してからもそれは相変わらずだったので、母が来るのは数年振りで、引っ越してからは初めてだ。
「……なんか、変な感じだなぁ」
いつまでも母の前ではハルは子どもなのに、一人前に大人みたいなことをしている自分が少しおかしくて、普段よりずいぶん静かな大通りを歩きながら呟いた。
*
事はちょうどひと月前、年末年始の休みはどうするのか、とハルが母から電話をもらった時に遡る。アキは仕事が立て込んでいて仕事部屋に籠りきりで、一人で晩酌を楽しみながらテレビを見ていた時だった。
「いつもどおりそっちに帰ろうかと思ってたんだけど。もしかして、なにか旅行の予定とかある?」
長期休暇には毎回実家に帰省しているが、特別親しい友人が地元にいるというわけではないハルなので、母が家にいないのであれば、地元に帰る意味はない。
『旅行の予定はないんだけど、これから旅行の予定を作る』
「は?」
どういうことだ。
『前お盆に帰ってきたときに、引っ越したって言ってたじゃない? だから新居を見てみたくて』
「それはつまり」
『久しぶりにそっちに遊びに行っていい?』
「……わかった、ちょっと待ってて。一旦切るね」
これはさすがにハルひとりで決めていい案件ではない。携帯を持って、ハルはアキの仕事部屋に向かった。
「アキ、ちょっとだけいい?」
ノックしてから部屋の主に向かってそう問いかけると、程なくしてドアが開いた。部屋の主は心なしか顔がやつれているように見える。
「キリがつくまでちょっと待っててもらっていい?」
と、彼が休憩用のソファを指さしたので、ハルはそれに従ってそこに座った。
アキの仕事のことを、ハルはよく知らない。おそらくそれは逆も然りで、アキもハルの仕事のことはよくわからない、と言うだろう。だから、待ってて、と言われたら邪魔にならないようにただ無言で待つだけである。
それから二十分ほど経っただろうか。アキが、座っていたデスクチェアごとこちらに向いた。
「ごめん、お待たせ。どうしたの?」
「いや、私も忙しい時にごめん。年末年始のことなんだけど」
そう切り出すと、アキは何かを悟ったようにあー、もうそんな時期かぁ、と呟いた。
「ハルさん今年も帰る?」
一緒に暮らし始めてからの年末年始も必ず帰省していたので、今年もいなくなるよ、という報告だと思ったのだろう。だが今回はそうではない。
「それが、母が家に遊びに来たいと申しておりまして」
「えっ」
本題を告げると、アキが固まってしまった。そうだよね、予想外だよね。困るよね。
「ごめん、困るよね、断って」
おくね、とハルが続ける前に、アキが叫んだ。
「いやいや! 困りません! 大丈夫ですうぇるかむ!」
その勢いがあまりによすぎて、ハルはむしろ不安になった。勢いだけで物事を決定している可能性を感じたためだ。
「え、待って疲れたからって自棄になってない?」
「多分冷静!」
「ほんとか!?」
アキのテンションは冷静だと言う割には高すぎる。これ絶対勢い含まれてる。
このまま話を進めるのは危険だと判断し、ハルは
「いったん落ち着いて、お茶持ってくるね」
と言って部屋を後にした。
*
お気に入りの緑茶を二人分淹れて部屋に戻ると、アキもいつも通りのテンションに戻っているらしかった。
「はい」
「ありがと、ハルさん」
アキにマグカップを渡し、二人でソファに並んで座った。
「……で、ほんとにいいの? 家にお母さん呼んでも」
「うん。会ってみたいし」
アキはさらっと言ってのけた。これは親が来る、の意味を分かっているのかいないのか、どっちと取るべきなのだろうか。
「それに、ハルさんの健康を預かる身としては色々聞いておきたいこともあるし」
「色々って、何を」
「ハルさんに人参を食べさせるためにはどうすればいいのか、とか」
ハルは子どものころから人参が嫌いで、大人になって好き嫌いが治っていく中でも人参だけは治らなかった。だから、なるべく食卓に登場させてほしくない、とアキに頼んでいるのである。
「そんなこと?」
「大事なことだよ、食生活の話は」
「……結婚は、とか余計なこと言われるかもしれないよ?」
いい年の男女が一つ屋根の下で暮らしているのだ、きっとそういうことが前提の関係だと思われるのだろうし、そうなればこの部分に触れられないわけがない。
一緒に暮らし始めて四年目になるが、実はまだ、ハルはアキと結婚の話をしたことがない。
すると、アキはさらりと爆弾を落とした。
「じゃあいっそ結婚します、って報告しちゃえば?」
「は?」
「だから、私たち結婚しますので、って」
待て待て待て。真顔で何を言っているんだ。
「え、ちょっと待って。結婚するの?」
聞き間違いではないかと思って確認すると、彼は真剣な顔をしたままこう言った。
「おれはもうそろそろしてもいいかなって思ってた。やっとこっちの仕事だけでもどうにか食っていけそうな見通しも立ったし。それとも、ハルさんはしたくない? 結婚」
「したくないわけじゃないけど……」
むしろアキが相手ならしたいとさえ思っていた。それにしても、だ。
「急すぎるし、そもそも、そんなついでみたいなプロポーズ初めて聞いた」
「あ、やり直し? 指輪用意してレストラン行くみたいなベタなことした方がよかった?」
「アキっぽくないからそれはいい。そこにお金遣わせるのももったいないし」
「ハルさんならそう言うと思った」
いつかもこんな会話をしたような気がする。って、そんなことより。
「……結婚、してくれるの?」
「うん」
「いいの?」
自分で言うのもなんだが、妻にするにはかわいげも生活スキルもなにもないし、歳だってそれなりに重ねているのだ。本当にこんな自分でいいのか。
「いいよ。というかハルさんじゃなきゃ結婚したくないし、ハルさんをこのまま一人にしておくのも野垂れ死にそうで怖いし」
実際に危ういところを助けてもらった前科があるので、後半については何も言い返せない。
「家事とか、何ひとつとしてお役に立てませんが……?」
「それはおれが得意だから別にいいじゃん。適材適所ってやつ」
「そうしたら、私のこの家での適所って何? 稼いでくること?」
ハルの頭では、アキの仕事が不調でも二人が暮らせるように稼いでくること、くらいしか思い浮かばない。フリーランスは何が起こるか分からないから、その点ではサラリーマンである自分は多少役に立てるだろう。……多分。
そう思って訊くと、アキは違うよ、と笑った。
「アンカーだよ。おれが自堕落な生活をしないようにするための見張り、みたいな?」
「どういうこと?」
「人によると思うけど、おれ、自分だけのために家事やれって言われたらやらないんだよね。誰かのためって大義名分がないとすぐダメになるの。仕事も在宅でできちゃうから睡眠とか生活リズムも適当になると思う」
「はあ……」
アキに限ってそんなことはない気がしたが、その自己申告が間違いだと証明できる何かをハルは持っていないため、相槌を打つほかない。
「だから、おれが社会的かつ健康で文化的な生活をするためにハルさんが必要。これじゃダメ?」
「それだとアキの負担大きくない?」
「どうしても無理! しんどい! と思ったら救援を要請するから、その時は助けてくれたらうれしいかな。でも今までだってそれで無理なく暮らせてるんだから、結婚したからって無理に生活習慣変える必要なんてないよ」
「……そっか」
言いくるめられている気もしないでもなかったが、たぶんこれは流されてもいいやつだろう。ハルは頷いた。
「あ、で、本題」
「そうだった、ハルさんのお母さんが来るんだったね」
アキの発言によりすっかり忘れ去られていたが、もともとは『母をこの家に呼んでもいいか』が議題だった。
「そうしたら、お正月に合わせて来ていただいて、みんなでおせちとお雑煮囲むとかどう? おれ作るし」
「え、アキおせちまで作れるの?」
この同居人の家事スキルはいったいどのレベルまで実装されているのだろうか。
「おせち料理って、作るのが難しいものって実はそんなにないんだよね。手間はめちゃくちゃかかるけど」
「手間がかかるって、つまり難しいんじゃないの?」
「じゃあハルさんにも手伝ってもらおうっと」
「アキ、人の話聞いてた?」
ハルだって調理実習で料理を作ったつもりが炭になったとか、そのレベルで料理ができない人、というわけではないが、手間暇かけた料理、というのは作った経験がない。それはアキも知っているはずだ。しかし、アキは変わらず楽しそうに言う。
「大丈夫だって」
「何が大丈夫なのか分からない」
「じゃあまあ、そういうことでお母さまに連絡お願いします」
「話を聞け!」
……ということで、元日に母を家に呼び、アキの紹介もすることになったのだった。
*
改札の手前で待つことに決めて改札の向こうを眺める。さすがに正月の、朝とも昼とも言えない微妙な時間なので、通勤で使っているときとは全然様子が違う。電車が入線する音が聞こえると、程なくして、さっきまで無音だった改札口に向かって人がちらほら流れてきた。
「……あ、来た」
人の流れの中に母を見つける。母もすぐこちらに気が付いたようだった。
「久しぶり。元気だった?」
「おかげさまでそれなりに。あ、荷物持つよ」
「あ、そう? 悪いわね、よろしく」
お決まりの挨拶を交わしながら、ハルは母の荷物を預かり、文面を用意していたメールを送って、家の方向へと歩き始めた。いつもよりゆっくり歩くことを心がけながら。
「しかし、こっちはこんなにあったかいのね」
歩きながら、母が言う。二人の地元はいわゆる寒冷地で、そんなところで暮らしている人間が冬にこっちへ来たら、大抵そう思うだろう。
「よっぽどのことがない限り水道凍らないからね、この辺じゃ」
水道どころか道だって凍らないし、雪が一センチ積もれば大騒ぎだ。現に、こっちに出てくるときに一緒に持ってきた冬用ブーツ(雪道アイスバーンに強い)は滅多に出動しない。二年ほど前の大雪の日(ハルの感覚では大雪でも何でもなかったが)にそれを履いて出勤したら同僚には大変驚かれ、雪に慣れているからと滑らない歩き方を教える羽目になったのもいい思い出である。
「しかし、びっくりしたじゃない。今まで何も言わなかったのに、突然『結婚したい人がいて、もう一緒に暮らしてる』だなんて。そういうのは少しずつ情報開示してくれないと。びっくりして心臓止まるかと思ったわ」
そう言われて、ハルはう、と言葉に詰まった。
「……だって、言うタイミングが分からなくて」
苦し紛れに言い訳すると、母にタイミングなんかいくらでもあるでしょうよ! と言われてしまった。さすがにいくらでもはないと思う。
「でも、結婚を考えるような年齢になったのね、亜依も。私も、この時期に臨時バイトとかしないでのんびり休めるようになるわけだわ」
「……お母さんにばっかり苦労かけさせて、ごめん」
ハルはいわゆる母子家庭で育った。遺伝子上父親である人間はハルが生まれる前に音信不通になったらしく、母は母で親や親戚とは折り合いが悪く、半ば意地になりながら自力で育てる選択をしたそうだ。そのため経済事情は厳しく、母は正社員として働きながら、そちらが休みの時にバイトをする、という生活をしていた。副業禁止でない会社だったことが救いになっていたのか、副業禁止ではないから休みも働くという選択をしたのかまではハルには分からないことだが。
ハル自身もなるべく自分への教育コストが軽く済むように、好成績を維持し高校や大学では授業料免除を受け、バイトもして家計の足しになるように努力はしたが、「勉強が先!」と母に言われ、また学生がバイトで稼げる額もたかが知れているので、あまり助けてあげられなかったのも事実だ。
「謝らないで、あんたもバイトとか勉強とか頑張ってくれたから頑張れたのよ。それに今ちゃんと独り立ちして、それなりの暮らしが送れているならそれに越したこともないし。こういう苦労は強い意志で断ち切らないと切れないものなんだから」
「……ありがとう」
*
「ただいまー」
「お邪魔します」
「おかえりなさい」
二人が家につくと、アキが玄関で出迎えてくれた。駅を出る時にアキにメールしておいたので、頃合いを見て待っていてくれたのだろう。
「はじめまして。亜依さんとおつきあいをさせていただいている、秋津と申します」
アキが母に向かって深く一礼する。
「秋津さん」
「はい。とりあえず中にどうぞ、お食事も準備してあるので」
アキは立ち話もなんだから、と思ってそう言ったのだろうが、母は「ちょっと待って」とそれを止めた。
「お母さん?」
どうしたのかと思って訊いてみると、母はハルが予想しなかった一言を放った。
「秋津さん、お仕事は何を?」
「お母さん!?」
出会ったばかりの相手に玄関先でそんなこと聞く!? せめて部屋に上がってからでもよくない!? とハルは思ったが、アキは特に慌てる様子もなく普通に答えた。
「自営業です。ウェブ開発系のことを在宅で」
「個人でお仕事をなさってるのね、最近の若い人はすごいわぁ」
「最近やっと事業の見通しが立った程度ですから、まだまだですよ」
二人が会話を進める横で、ハルは一人混乱していた。母が何を思って今この話を振ったのかがまるで分からない。
「お母さん、とりあえず上がって? その話も中ですればいいじゃん」
ハルが促すと、母は小さく
「……よかった」
と呟いた。
「え?」
何が「よかった」だったのだろうか、と訊き返すと、母が深く腰を折って頭を下げた。
「えっ?」
さすがにこれにはアキも動揺している。
「娘を、よろしくお願いします」
「……え?」
混乱と動揺を隠せないハルとアキをよそに、姿勢を直した母は語る。
「私は亜依が、娘が一緒に暮らしたい、生きていきたいと思える人であれば、もとから結婚に反対する気はなかったんだけど。……それ以上に、あなたのおかげで娘の中での『家』の認識が変わったんだとさっきわかったから、心残りはありません」
……私の、『家』に対する認識?
「え、認識って何? てかいつ分かったの?」
ハルが訊くと、母はハルの方に向き直った。
「とりあえず上がれば? って言ったでしょ、さっき」
言った。確かに言ったが、それが何だというのか。
「前の家に遊びに行ってたときは、『上がれば?』って言ったことなかったのよ、あんた。『入れば?』って言ったことはあったけどね」
ハルにはその違いにそれほど大きな意味があるとは思えないのだが、アキは「あー」と何かに納得したように呟いた。
「え、アキ分かるの?」
「まあなんとなくね。……ごめんなさい、春風さん」
「謝らなくていいのよ、いずれ通る道だと思ってたし。それに、こんないい息子ができるなんてむしろ願ったり叶ったりだわ」
ハルはひとりだけ置いてけぼりを食らっている。
「ねえ、どういうこと?」
種明かしをしてもらおうと訊いてみるも、母は「教えない」とバッサリ斬った。
「あとで秋津さんから聞きなさい」
「え、春風さん、僕に言わせるんですか?」
苦笑しながらアキが言う。
「『お義母さん』でいいわよ。この程度の意趣返しくらい許してちょうだい、これでも大事に育てた一人娘なんだから」
「意地悪な人ですね。分かりましたよ、『お義母さん』」
「じゃあお邪魔するわね~」
「どうぞどうぞ」
完全にハルを置き去りにして部屋に入っていく二人に、ハルはただただ混乱していた。
「ええ??」
*
「あらすごい。これぜんぶ秋津さんが?」
ダイニングテーブルの上に並ぶお重に詰まったおせちを見て、母が感嘆の声を漏らした。
「全部じゃないですよ、亜依さんにも手伝ってもらったので」
アキはそう言いながらキッチンへ回った。雑煮を作るためだ。
「そうなの?」
母がこれでもかと驚いた顔をしてハルの方を向く。「あんたこんなものどこで覚えたの」とでも言いたそうな顔だが、残念ながら覚えたわけではない。
「煮干しの腸取りと野菜の皮むき、さつまいもの裏ごしだけですがね」
つまり、家庭科の調理実習でやるレベルの本当に基本の部分だけ。
「つまりそれ以外は秋津さんなのね」
「どうせ私は大したものは作れませんよーだ」
そんな会話がキッチンにも聞こえたらしい。アキがくすくす笑いながら言った。
「ほらハルさん拗ねてないで、お椀こっちに持ってきて」
「はーい。お母さん、お餅いくつ食べる?」
「ひとつがいいわ」
「了解」
汁椀を三つトレイに載せて運ぶ。この中にはもう下準備をした具材が入っていて、あとはすまし汁で煮たお餅を入れれば雑煮が出来上がる。
「ハルさんもひとつ?」
「うん」
「じゃあ全部で四つか」
アキが餅を四つ、すまし汁の入った鍋に投入した。昆布だしのいい香りがする。
「楽しみだなー、秋津家流のお雑煮」
最初は母も来るのでハルが実家で食べていた雑煮にしようか、という話だったのだが、作る人が作りやすい方で、ということで、アキの流儀で準備してもらうことになった。
「でもハルさんちもすまし汁で煮るタイプだったんでしょ? 大して変わらないと思うよ」
「そうだけど、うちは丸餅だった」
今目の前の鍋に投入されているのは角餅である。
「餅の形なんて味にそう影響しないじゃん」
「気分が違うからいいの」
「じゃあ人参を花形に切ったら気分変わって食べてくれる?」
「それは別」
「難しいなぁ」
*
出来上がった雑煮を配膳し、アキ、ハル、母の順に屠蘇を頂いて席に着く。
「では、これから、も? よろしくお願いしますということで」
アキがそこで言葉を区切る。それを合図に、三人で手を合わせた。
「いただきます」
重箱に綺麗に詰めたおせちを複数人で囲むのは、おそらくハルの人生史上初めての出来事である。どこか気持ちがふわふわとして、落ち着かない。でも、居心地のいい落ち着かなさだ。
「おいしい!」
黒豆をつまんでいた母が言った。もちろんアキが炊いたものである。
「お口に合いましたようで何よりです」
アキがほっとしたように笑った。
「すごいわねぇ、私も娘もこんな凝った料理は作ろうとは思わない人だから」
「在宅仕事なので、気晴らしに料理することが多くて。気が付いたらこういうのを用意するのもあんまり苦じゃなくなってましたね」
「秋津さんが娘を見つけてくれてよかったわ。ほっとくとこの子すぐインスタントとかに走るから、親としてはそろそろ心配だったのよ、身体が」
「それはなんとなく分かります。そもそも『誰かが健康管理しなきゃこの人そのうち倒れるぞ』っていうのが、僕が亜依さんのことを気にするようになったきっかけでしたからね」
「面倒見がいいのね、秋津さんは」
「そうでもないと思いますよ?」
アキと母のそんな会話を聞きながら、ハルは思ったことをそのまま声に載せた。
「……なんか、不思議な感じがする」
その呟きは二人の耳にも届いたらしく、意識がこちらへ向いたのが分かった。二人とも、訊き返すこともなく黙っているので、おそらくハルの言葉の続きを待っている。
「アキとお母さんは今日が初対面なのに、もう『昔から知り合いでした』みたいな空気になってるし。それ以外にも、なんか、お正月ってこんなに緩い雰囲気だったんだなぁ、変な感じだなぁ、って思って」
幼少期のハルが今のハルのこの境遇を見たら、一体どう思うだろう。違う世界の話だと思っていたことは自分も望んでいいものなのだと、手に入れられるものだと、信じられるのだろうか。
「……ハルさん」
「なんか、うまく言葉にできないけど。嬉しくて、でもどこか落ち着かないから、不思議だなって」
「ハルさん、泣いてる」
「え」
自分の頬が濡れていることには、アキに言われるまで気が付かなかった。
「え、どうして」
悲しいわけでも、寂しいわけでもないのに。
「……タオル、取ってきますね」
ハルが『自分が泣いていること』に戸惑っている間に、何かを察したらしい様子でアキが席を外した。母とハルの二人きりになった部屋で、先に口を開いたのは母だった。
「亜依」
「……はい」
「ごめんね」
その言葉を聞いて、ハルは小さく首を横に振った。何に対しての謝罪なのかが分かってしまったから。
「お母さんは悪くない……」
絞り出した一言は、蚊の鳴くような声にしかならなかった。
「これは小さい頃の亜依への謝罪。寂しい思いさせているのも分かっていたのに、『寂しい』って顔に出していたのに、何も言ってこなかったからって、亜依に全部押し付けて」
それは違う。押し付けられたのは、むしろ母の方なのではないか。
「でも、それは私を育てるためでしょ? お母さん一人なら、あんなに働かなくたってよかったんじゃないの?」
自分がいることが、母の負担を増やしていたのは事実だ。子どもの頃だって薄々感じていたけれど、自分で生計を立てるようになって痛いほどに思い知らされた。人一人生きるだけでも、かなりお金がかかるのだ。それなのに、母の場合は一人の稼ぎで二人を生かす必要があった。
ハルがそうやって考えていることは、多分母も分かっているだろう。それでも母は「私が悪い」ときっぱり言った。
「たとえ子どもの将来のため、なんて大義名分があっても、それは子どもに寂しい思いをさせていいという免罪符じゃない。まして、自分の子どもに『自分がいなければ』なんて罪悪感を持たせてしまうなんて。……今更で、申し訳ないけど。あの時は、ごめんね」
私も人のことは言えないわ、と涙声で母が苦笑した。アキとのことを伝えたときに、ハルに向かって『突然言うな』と言った時のことだろう。
「……秋津さんには感謝してもしきれないわね」
アキは、母から幼いハルへの贖罪の機会と、ハルが望んでいたものを手に入れる機会をくれた。
「……うん」
「いい人に出会えてよかったわね、亜依」
「うん」
「大事にしなさいね」
「分かってる」
と、そこでアキが戻ってきた。彼がこの部屋を出ていった時は泣いていたのはハルだけだったのに、なぜか二人分のタオルが手元にある。きっとこの展開を予想していたのだろう。本当に、自分にはもったいない人だと思う。
「ハルさん、お義母さん、どうぞ」
アキが二人にそれぞれタオルを渡す。受け取ったそれは、柔軟剤のいい匂いがした。
「秋津さん」
五分ほど経ってようやく二人の涙腺が落ち着いてきた頃、母がアキを呼んだ。
「はい」
「ほんとうに、あなたが亜依を見つけてくれてよかった。どうか、この子のことをよろしくお願いします」
「もちろんです。こんな僕でいいのなら」
アキはふわりと笑って答えた。
「さ、そろそろ続き食べましょう? お義母さんがいらっしゃるから、僕けっこう張り切って作ったんですよ」
アキが冗談めいてそんなことを言ったので、ハルもそれに乗っかった。
「鍋とコンロ足りなくなったもんね。出来上がったらすぐタッパーに移して次! みたいな感じで」
「作業スペース問題はおせち作りとは切り離せないからね。品数多いし、煮るものばっかで時間もかかって」
「それでも全部用意しようって気力が保つからすごいよね、アキ」
「まあ好きだからねー、なんだかんだで」
そんなことを話しながら、ハルは母からタオルを回収し、キッチンのカウンターに置いた。洗濯へ出すのは後でいいだろう。
「よし、じゃあ仕切り直そう。いただきます!」
今度はハルが音頭を取った。
(あけましておめでとうございました)
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