1/ 記憶

『幼いのう、ぼん。愛いやつめ』


聴こえてくる声に膜が貼っているように感じるのは夢だからか。

見た目からは想像出来ない程に古めかしい言葉遣いの彼女のそれは、不思議と身に纏う雰囲気にはひどく似合っていた。


『おねえちゃんはどこからきたの?』


幼いぼくの背丈より、少しだけ高いくらいの彼女はぼくの頭を撫でながら答える。


『さてなぁ……もしかしたら、ぼんを攫う為に地獄からきたのやもしれぬぞ?』


いたずらに笑う彼女に、幼いぼくはむくれた。


『うそつき!ぼくわるいことしてないもん!』


その答えに彼女はからからと笑う。


『そうじゃの、そうじゃの。なら、違うのであろ』


『ふーん……ならいいや』


くすくすと笑う彼女の顔は、幼いぼくの視界には入っていなかった。

きっと、煙に巻かれた事すら気が付いていないのだろう。


我ながら、もう少し賢くあって欲しいとは思ったが、それは既に過ぎ去った時間の一場面。


過去の記憶なのだから、この後どんな話をしたのかなんて覚えている訳が無い。


だから────


『そら………もう起きる時間であろう?起きよ』



彼女が幼いぼくから目を離し、僕を見てそんな事を言うのは、僕が無意識の内に創り出した記憶だからだ。





その筈だ。







「……また変な夢見た……」


布団から出ようとし、肌を刺す寒さに躊躇する。

手元に転がっていたスマホを取り時間を見ると6時47分。


確かに、夢の通り起きる時間ではあった。


7時になる予定だったアラームの設定を解除すると、布団から漸く出る。


温もりがまだ残る布団に多少の名残惜しさを感じながら、洗濯物の山からシャツを引き摺りだすと着替え始めた。






「いってきます」


静かな家に声を掛けてみる。

家を出て一人暮らしを始めてから、二年が経過した。

いってきます、ただいま、だなんて昔から当たり前の事だったから、今更言わない事に慣れなかった僕は、それだけは毎日続けてる。


最初こそ、この一人の状況に高揚したけれどそれもすぐに、寂しさへと変わった。


返事の無い部屋、自分だけの閉じた世界。それだけしか無かったから。




それも、暫くしたら慣れたけど。





大学に着くと、友達とくだらない話をしながら受講し、今朝摂る事のなかった朝食に菓子パンを一つ詰め込んでは時間を過ごす。


─────今日カラオケ行…


────わりぃ、金欠。後1週間ー…


───この間のネイルのさ……


──────このアプリでー………



至る所から聴こえる会話という名の音に包まれながら、やがて帰宅の時間になる。


明日はバイト。明後日は休日。


そう考えながら帰路へとついて、ふと考える。




────これに、意味があるのか?


やがて思考の歯車は動き出す。

負の方向へと。


(卒業する為に受講してる、のか?単位を落とさない為に?バイトに出るのは、生活費の為に?)


それは家についてからも続く。


荷物を力無く、肩から滑り落としながらベッドへと飛び込む。


(皆は、きっと社会に向けてもう準備をしてる。やりたい事を見つけてる。僕は?僕に、何がある?僕は……)


「────どうしたいん、だ?」


口に出して、漠然とした恐怖に襲われた。


(皆が、もう大人へと進んでいる間に僕は、僕だけが、子供のままで、止まってる)


脳裏に浮かぶのは、無邪気に毎日を過ごしていたあの時間。


どうしょうもなく届かない、今になって輝く記憶はどれほど渇望しても戻らない。


そんな事を考え、ふと思い出す。


「……そう言えば、あの子はどうしてるんだ…?」


記憶にまだ新しい、あの子の顔が思い浮かぶのは、夢に出てきたばかりだからか。


一度探してみようか、実家へと帰ってみようか。

そう考えてから動き出すのは一瞬だった。

手元のスマホを弄り、連絡を入れる。


「あ、もしもし。──です……」





───翌朝。


人気のまだ少ない電車に乗り、座席へと座ると窓から外を眺めた。


時折、電車を乗り換えながら少しずつ実家へと近付いて行く。

流れる景色は、アパートや店の看板等の色彩豊かで冷たい景色から、緑や土色でありながらも暖かさの感じる景色へと。


そう感じたのは、これから実家へと帰るからだろう。


暖かい記憶のあった、実家へと。







「あら、おかえり!向こうで暮らしてて寂しくなっちゃったの?」


帰って来るなり、そんな事を言う母の姿は記憶よりも少し小さかった。


離れている間に僕が少し成長したからなのか、母が少しだけ歳をとったからなのか。

或いはその両方だろうなと思う。


「ただいま。べつに、そんなんじゃないよ。心配してるだろうから、顔見せだよ。後は……」


気恥ずかしさから、寂しさを否定してしまった。

実際は、少し寂しかったのもある。丁度良かったから実家に帰る決断が速かっただけだ。


「……いや、ごめん嘘。少しだけ懐かしくなっちゃってさ」


僕がそう言うと、母は目をぱちくりとさせた後、微笑んだ。


「そっか。いつでも帰ってきなさいよ。最近は割と暇なの」


「ん、ありがとう。取り敢えず1ヵ月くらいここに居る予定だから。父さんは?」


父の姿が見えない事に気付いたから、聞いてみるとどうやら仲間と釣りに行ってるみたいだった。


休日はよく釣りに出掛けたりするらしい。


「あの人、今日は沢山釣ってくる!って張り切ってたのよ?あぁ、貴方の部屋はちゃんとあるから、荷物置いてきなさい」


「あー、うん。でもちょっとしたらまた出る」


荷物をおいて、幼かった僕の足跡を振り返りたかった。


出かけると伝えたら母は何かを察したみたいだ。


「あら、そう。久々だからって遅くならない様にね」


「ん、わかった」


暫く会わなかっただけではあったけど、それでも母との会話に、少しだけこみ上げるものがあった。









「さて、何処から見ようかなぁ」


荷物を部屋へと置いて外へ出ると、玄関扉を背に考える。


少しの間考えて、思考を止めた。


「思い付いた所を片っ端から行こう」


せっかく来たのに、下らないことで時間を取られたくは無かったから。


歩きながら、記憶にある道と擦り合わせる。

誰と一緒に歩いたか。この日泣きながらこの道を歩いたっけ。夏休み直前は毎年荷物が重かったっけな。


子供の頃にあった事を思い出しながら歩くというのは、不思議と楽しい。


自販機で飲み物を買うと、今はやっていない駄菓子屋の、頼りない椅子に腰掛けて休憩する。


子供だった時の僕はここまでの道で疲れていたのだろうか。


それ以上の楽しさがきっと疲れすら感じさせなかったのだろう。

それでも高校生になれば何処か煩わしさから慣れた道を歩くのが億劫だった。


それさえも今は懐かしさへと変わる。


成長するって言うのはこういう事なのか、そう思って、否定する。


(成長、したんじゃない。時間が経っただけなんだ)


そう考えて、また始まる負への思考を振り払うようにまた歩き出す。

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赴くままに書き綴った、名前のない作品集 紅葉 @krehadoll

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