第6話
泣き疲れた礼は奏の肩で眠りに落ちた。彼はそっと彼女の頭を撫でてからベッドの上に横たえた。
「今日はおやすみ」
奏は昔を思い出しながら寂しげにそう言ったのだった。
翌日、全快とまではいかなくても顔色が良くなった礼は退院した。予め休む旨を教授にメールしていた彼女はゆっくりと帰り支度をし、午後には東京へ向かう電車へ乗り込んでいた。両親は仕事を調整して見送りに来たが、高校生の円と社会人の奏は見送りには来れずRINEでメッセージが来ていた。乗り込んだ電車で礼は1人どんな顔でオーナーに会えば、光に会えばいいのかがわからず考え込んでいた。
(私の心の隙間……それは光くんに気持ちを伝えそびれたということ。これを解消するには光くんに当時の気持ちを伝えなければならない。きっと伝えたら私の心の隙間も埋まり、喫茶ビードロは現れなくなる。でも、わからないわ。それだけのために光くんは会いに来てくれるのかな?それに老婆のことだって……)
夢で思い出した老婆の存在が脳裏に焼き付いて離れずにいた。
(そういえば、あの老婆は初めて喫茶ビードロに行った時に私をじっと見ていたあの老婆と同じだったかもしれない)
そう思うと礼は居ても立っても居られなくなった。「次は東京、東京〜。お降りのお客様はお忘れ物のないようにご注意ください」というアナウンスがちょうど彼女の耳に入った。荷物を棚の上からふんだくるようにしてまとめると急いで扉へ向かった。東京駅に着くや否や礼は飛び出して自宅へと急いだ。一旦家へ戻り、荷物を置いた礼は再び家を飛び出した。そして、喫茶ビードロの看板が目に入ったところでその手前に花屋があるのを見つけた。正確には移動式の花屋だ。思わずじっと見ていると店員が笑顔で彼女に話しかけた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「えっと……」
礼は急にきまりが悪くなり、しどろもどろになったがふと目に入った白い花に目を奪われた。
「これは?」
「ああ、これはスミレのプリザーブドフラワーです」
「これを……これ、ください」
「畏まりました。プレゼント用にラッピングなさいますか?」
「お願いします」
スミレは本来春に咲くため7月に入ったこの時期に生花を手に入れることはできない。しかし、プリザーブドフラワーならこの時期でも手に入る上に色褪せない。
(色褪せない想いを、か)
礼は少し胸をドキドキさせながら、ラッピングが終わるのを待っていた。ラッピングが終わり、手渡された紙袋に対してお代を払いその店を後にした。そして、喫茶ビードロの看板を前に大きく深呼吸をすると覚悟を決めたその扉を開いた。
「やあ、礼。いらっしゃい」
オーナーの、光の声を聞いて勝手に涙が溢れそうになった礼だったが必死に唇を噛み締めて堪える。様子のおかしい礼に近寄ろうとした光だったが、彼女が手に提げている紙袋からちらりとスミレの花が見え隠れしたのを見て足を止めた。
「礼、もしかして……」
「光くん」
彼女のまっすぐなその声に、光はハッと息を呑んだ。
「私の心の隙間、わかったよ。この3日間で思い出したよ。ごめんね、今まで忘れてて。……はい、これ」
礼は徐に紙袋からスミレを取り出し、光へと差し出した。
「花言葉はあどけない恋、無邪気な恋、純潔の3つ。……光くんは私の気持ちに気づいていたのかもしれない。だけど、改めてちゃんと言うね。私、光くんのことが好きだったよ。今はもうわからないけれど、でも、あの時は世界で1番好きだった」
「礼……」
光は切なそうに声を絞り出した後、彼女からスミレを受け取った。
「違うんだ。僕が礼の恋心に気づいていたわけじゃないんだ。それは今知ったよ」
「嘘!?」
「嘘じゃないよ」と光は力なく笑った。
「礼に僕の恋心を伝えたくて、でも僕は不器用だから言葉ではちゃんと言い表せなくて花に頼ったんだ。……当時の礼には伝わらなかったけど」
彼はくすくすと笑いながら言った。
「僕も礼のことが世界で1番好きだった。そして今でもそう」
その言葉で礼の瞳が大きく開かれた。
「驚いた?でもね、僕はずっとあの時から時間が止まっているんだ。姿は成長しているかもしれないけど、想いも思考も何もかもがあの当時を受け継いでいる……」
彼はスミレに1度目を落としてから、礼の瞳をまっすぐに見た。
「礼、僕はあなたが好きだ。あなたが幸せそうに生きているならそれでいいと思った。でも、それは嘘だった。礼に自分の気持ちをちゃんと伝えるまでは僕の心の隙間は埋まらなかったんだ……。でも、ようやく心の隙間が埋まりそうだ。ねえ、そうでしょう?」
光がふと礼の後ろへ視線をやると、そこには老婆の姿があった。彼女は何も言わずにそこに立っている。
「無言は肯定だね。それじゃあ、そろそろお別れだ」
「何の話をしているの……?」
礼は理解できずに光の方へと一歩一歩近づいていく。
「このまま喫茶ビードロを経営してくれたらいいじゃない?私の心の隙間は1度はこれで埋まるかもしれないけれど、生きているうちにきっと何度でも生まれるわ!そしたら、きっと光くんが必要になる。だから、だから!……お願いだから居なくならないで」
最後は消え入りそうな小さな声だったが、光の耳にはしっかりと聞こえていた。
「礼、その言葉はありがたく受け取っておくよ。でもね、喫茶ビードロは本当は心の隙間がある人が誘われる場所じゃないんだ」
「どういうこと?」
「ここは成仏できない人の心に隙間を持たせた人が誘わる場所なんだよ。つまり、この喫茶店は、この異空間は僕のための歪んだ世界なんだよ。僕は礼の生きている世界で死んだ後、成仏したくないって駄駄を捏ねてた。それで哀れに思ったんだろうね。そこのお婆さんが僕にこの空間を授けてくれた。そして、僕の心の隙間が埋まれば僕のこの魂も喫茶ビードロという異空間も消滅する」
「そんな……!」
礼は最後の一歩で光に抱きついた。彼は恐る恐る礼の体に腕を回した。
「温かい……」
「そうだよ、温かいんだよ……」
礼は事故直後の光の体を思い出していた。彼女は目を瞑り、暫くそのまま動こうとしなかったが、瞼の裏が眩しく感じ始め、目を開くと光の体が淡く発光していた。老婆はいつの間にか彼女たちのすぐ傍に立っており、光の手を彼女が引いた。より一層輝きが増した。礼は老婆が光を連れていくつもりだということを悟った。
「お願い、やめて……」
今度こそボロボロと涙を流しながら必死に光の体にしがみつく礼だったが、やんわりと光はその腕を取り払った。
「時間切れだ。最期に言わせて?いらっしゃい、待っていたよ。泣かないで、礼。僕は今やっとあなたを愛していると言える。……心の隙間が完全に埋まったみたいだ。さようならだね。それじゃあ。また待ってる」
そう言い終えるや否や、礼の目の前の景色がぐにゃりと歪み、光も老婆も、そして喫茶ビードロの店内もマーブル模様のようになって消えていく。礼はひたすら「光くん!」と呼びかけたが、もう誰もその声に答えることはなかった。
光が消えてからおよそ1週間。礼は大学には通うものの心ここに在らずという放心状態で日々を過ごしていた。RINEで「光に会った」と聞いていた奏は彼女が心配になり早速週末に東京へやって来た。
「礼ちゃん、入るぞ」
玄関をガチャリと開けるなり、ベッドの縁に腰掛け、ぼーっと窓の外を眺める礼の姿が目に飛び込んできた。
「はい、これ手土産」
奏は某有名な菓子屋のマカロンを冷蔵庫に詰めながら言う。
「俺さ、礼ちゃんのこと心配だから本社勤務願い出といた」
その言葉に流石に驚いたらしい礼はやっとまともに奏の顔を見た。
「これから礼ちゃんのこと、俺、支えるよ。あの時は何もできなかったけど、今ならちゃんと礼ちゃんのこと支えられると思うから」
礼はそれを聞くなり、立ち上がった。そして冷蔵庫の前に座り込んでいる奏と向き合う形で座り込み、彼の片頬に掌を添えた。
「違うよ、奏くん。それはきっと私も言わなくちゃいけない台詞なんだ。奏くんが来るまでは私ばっかり辛いと思ってた。でも、本当は違ったんだ。私だけじゃなくて私のお父さんやお母さん、それに1番光くんと仲が良かった奏くんだって辛かったんだってやっと気づいた。ありがとう。私も奏くんを支えるから」
彼の頬に一筋の涙が伝った。礼はそれを驚くことはなく、指先で丁寧に拭った。
「はあ、それ男の台詞だろ」
「今の世の中男女関係ありません〜」
「そうだった」と奏は破顔した。
数ヶ月後、礼と奏は正式に交際を始めた。
数年後、礼は大学の卒業式を迎えていた。身支度を整え、家を出る。以前住んでいた家ではなく今は恋人と同棲している少し広い別の家へと移っていた。当然、大学への道のりも変わったが、卒業式の当日だけは以前住んでいた家からの通学路を懐かしむように歩いていた。そして、礼がふと気になって足を止めるとそこには古い家屋があった。他人にとっては何の変哲もない場所でも彼女にとっては変哲以外の何物でもない。
(あれから約2年……)
礼はそんなことを思いながら晴れ着姿を家屋に向かって広げて見せる。
「ねえ、見えてる?私、ちゃんと……」
礼の濡れた頬をそっと風が撫でる。
「遅刻するぞ」
礼の後ろから現れた奏に手を取られる。彼女は彼の顔を見てそっと頷く。
「じゃあ、またね」
彼女は前を向いて共に歩き出した。礼の心に隙間はもうなかった。
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