第5話
「礼、これあげる」
男の子は人形遊びに夢中な女の子の傍に屈み、白い花を差し出す。小ぶりの可愛らしい花だ。女の子は人形から目を離し、花へと目を向ける。花を差し出す男の子と花を交互に見やった後、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう!お花だ!かわいい!」
人形を放り出して花へと両手を伸ばす女の子に男の子も嬉しそうに笑う。
「たまたま小学校に咲いてたんだ。スミレって言うんだよ」
「たまたまねえ?花言葉を必死に調べて高台ですっげー一生懸命スミレを探してたのに」
花を差し出した男の子の後ろからまた別の男の子が現れる。彼は両腕を頭の後ろで組み、面白くなさそうに言う。
「それは言うなよ!奏」
「奏くん!」
「よ、礼ちゃん。俺からはこれやるよ」
その男の子は礼と呼んだ女の子に花冠を差し出した。
「かわいい!これはなあに?」
礼は花冠を興味深げにつついたり匂いを嗅いだりしている。
「白爪草っていうんだ。最近女子のなかで流行してるらしい。やり方を教えてくれって頼んで俺が作った」
少し照れ臭そうに言うとポリポリと頬を掻いた。
「奏くん、ありがとう」
にこにこと礼は花冠を着けながら笑う。スミレの芳しい香りがふわりとその幼女から薫る。
「うん、やっぱり礼に似合うね。礼に似合うと思ってあげたかったんだ」
光は言う。礼は理解しているのか理解していないのか「似合う似合う~」と嬉しそうにスミレを胸に抱いている。
「おいおい、少年。花言葉が何か言わなくて良いのか?」
下卑た笑みを浮かべる奏に、顔を真っ赤にしながらも「煩い」とピシャリと言い返した光だったが内心は伝えようかどうしようか迷っていた。
(花言葉を言わなければきっと礼は気づくことはないだろう。そして今後家族であり続けるのであれば知らない方がお互いのためだ。でも、僕は知ってほしいと思っている。さてどうしようか……)
光は暫く考え込んだ様子だったが、礼はそれに気付かず奏の腕を引っ張ってお人形遊びを再開した。
礼は一人歩いていた。この間光から貰ったスミレの押し花を胸に意気揚々と歩いている。
「光くん!」
前方にランドセルを背負った男の子が現れると、嬉しそうに幼女は手を振った。手を振られた男の子も嬉しそうに手を振り返すが次の瞬間、彼の顔が強ばった。異変を感じた礼が後ろを振り返るとトラックが彼女に差し迫っていた。
「礼!!」
光は全速力で走り出した。間に合うかどうかは彼にとって関係なかった。ただ気が付けば彼の体が独りでに動いていた。驚いて硬直している礼に手を伸ばす光。彼の手が彼女の背中を押した直後、鈍い衝突音が辺りに響き渡った。トラックはその勢いのまま住宅の塀にぶつかり動きを止めた。居眠り運転をしていたらしいトラックの運転手は車が停止したことでようやく事の重大さに気付き、青ざめていた。
「ミツ、ルくん……?」
トラックとは反対側へ投げ出され、擦り傷を負った礼はふらふらと立ち上がりトラックの方へと近く。トラックが停車している辺りには赤い水溜まりができており、動かぬ少年の体がその中心にあった。
「光くん!!」
悲痛な声を上げて少年の体にしがみつく礼の声に周りの大人たちがやって来た。誰かが切羽詰まった様子で救急車と警察を呼ぶ声がした。礼の視界は涙でぼやけて自分が今何を見ているのか理解できなかった。理解しようともしなかった。礼はまだ温かさが残る、固くて冷たいアスファルトに横たわる体を抱き締めていたが、ふと目線を光の頭へやると、老婆が立っているのが見えた。黒くて長いコートに身を包んでいる。礼の周りから一切の音が消えた。憐れみも同情も映さないその瞳は何にも揺るがない何かがあり、礼はじっとその瞳を見つめた。老婆も暫く幼女を見ていたが、やがて少年の足元に膝をつき、彼の頭に手を乗せた。
「何をしてるの……?」
ちらりと幼女に目をやったが老婆は答えない。そして、すくっと立ち上がるとそのまま老婆は踵を返してどこかへ立ち去った。すると、礼の耳に救急車やパトカーが駆けつけるサイレンの音が届き始めたのだった。
ピッピッピッと規則正しく機械音が聞こえる真っ白な部屋に礼は立っていた。その部屋の中央には目を固く閉ざしたままの少年が同じく真っ白なベッドの上で眠っている。近くにいた両親に背中を押され、礼は少年の近くへいった。
「礼、何か声を掛けてあげて。これが、これが……」
母親は涙ぐんで最後まで言葉にできなかった。しかし、礼は幼いながらもその先に続く言葉が何か察しがついた。
「光くん」
声を掛けてみたはいいものの、いざとなると何も言葉が出てこない。結局、言葉ではなく再び涙が溢れ出た。何も言えず、わんわんと泣いているとピクリと少年の瞼が動いた。それに驚いた礼は一瞬にして泣き止み、ベッドの上に乗り出した。
「光くん!」
「レ、イ……」
近くに控えていた医者は奇跡だと驚きを隠せない様子で光を見た。
「いらっしゃい、待ってい、たよ。……泣か、ないで、礼。僕は……ぼ、くは……」
苦し気に息を吐き出したかと思うとピーッという音がけたたましく部屋中にこだました。慌てて医者や看護師が処置を施すが、そのうち全ての処置が取り止められた。瞳孔散大・対光反射の喪失、呼吸停止、心配停止が認められた。
「21時39分、ご臨終です」
医師の無機質な声が聞こえた。幼い礼はご臨終の意味はよくわからなかったが、なんとなく良くないことなのはわかっていた。じっと先ほどと変わらない様子で眠る少年を見つめていると再び老婆が現れた。今度は少年の手を握っている。まるでどこかへ連れ去るかのようだった。
「お婆さん、待って!光くんを連れていかないで!」
突然叫びだした礼に周りの大人たちは驚いたが、すぐにこの子は狂いはじめているのかもしれないと思い、礼を病室から引き摺りだした。
彼女の「光くん!」と何度も少年の名前を呼ぶ悲痛な叫び声が病院の廊下中で聞こえていた。
目の前には豪華なチョコレートケーキが鎮座している。礼は喜んで蝋燭を消した。
「礼、5歳のお誕生日おめでとう」
父親が頭を撫でながらケーキを差し出す。
「ありがとう」
礼はにこにこと笑ったあと、キョロキョロと辺りを見渡す。
「ん?何か探しているのか?」
「プレゼントはこっちだぞ」と父親が今度は手の中にある小包を差し出しながら目を細めて笑う。しかし、礼はぶんぶんと頭を振る。
「違うの、プレゼントじゃないの」
「じゃあ、何?」
母親がジュースを入れたコップを彼女の目の前に起きながら聞く。
「光くんはどこ?」
その瞬間、空気が固まった。一人、礼だけは辺りをキョロキョロと見回している。
「ねえ、今日は学校で遅くなるの?最近ずっと遅いね。毎日会ってない」
「礼、いいかい」
父親が彼女の両肩に手を置いて彼の方を向かせた。
「光は……もういないんだ。遠いところに行っちゃったんだよ」
「遠いところ?もう会えないってこと?」
「うん、そうだ」
「……やだ」
「礼……」
「やだやだやだ!!!!!」
首を激しく振り、地団駄を踏む。目の前にあったケーキに手を伸ばしぐちゃぐちゃに握り潰した。見かねた両親は慌てて礼からケーキを取り上げ、抱き締めた。彼女は父親の腕のなかでひたすら「やだ」と「光くん」を繰り返していた。円はすやすやと眠っていた。
礼は目を開けた。随分と長いこと眠っていた気がしていた彼女だったが、実際は数時間しか経っていなかった。
「ここは……?」
辺りを見渡すといくつかのベッドの上に何人かが寝そべっている。
「病院だよ、ねえね」
声がした方を振り向くと、円が心配そうに礼を見ていた。
「私……」
「最寄り駅で急に倒れたんだって」
倒れた時のことを思い出そうとするが、思考に靄がかかってうまく思い出せない。しかし、光と奏に関しての思い出をすっかり取り戻したことは確かだった。
「今何時?」
「18時だよ」
「東京に戻る」
「何言ってるの!ねえね。今日は安静にしないと」
円は慌てて起き上がった姉を押さえつけた。
「でも、明日の講義は休めないから」
「代返とかないの?」
「呆れた。なんで高校生がそんなこと知ってるの」
「えっと、それは……」
「彼氏が大学生なのよ」
「お母さん!」
円は母親の言葉に慌てふためく。
「そうなの。円には大学生の彼氏がいるのね」
案外冷静な礼の言葉に円は拍子抜けした。
「それだけ?」
「それだけって何が?」
「え、だってねえねならその男を私の前に連れてきてみなさい!とか言いそうだなって」
「まさか、そんなこと言えないよ。……円、好きな人がいるなら伝えられるうちに好きと言っておいた方がいいよ。いつなんどき失うかわからないんだから」
「う、うん」
いつになく真剣な様子の姉にたじろぐ円だったが、すぐに元通りになった。
「取り敢えず、ねえねは今日はここで絶対安静ね!ね、お母さん!」
「そうね。教授にはメールを出しておきなさい。きっと理解してくださるはずよ」
「……はい」
「明日には退院できるらしいから、はい。これ着替えね。お昼くらいに迎えに来るから」
そう言って母親たちは帰っていった。ふとスマホを見ると青く点滅していた。画面を開くとRINEが1通来ていた。
『大丈夫か?』
それはつい数時間前に奏から送られてきていたメッセージだった。
『大丈夫じゃない』
なんとなく礼はそう送った。送ってしまってから何度も消そうかと思ったが、すぐに既読がついてしまい消しそびれた。
『今どこなんだ?東京か?』
『ううん、X病院』
『わかった。今から行く』
『え、いいよ』
『俺が行きたいから行くんだ。病室は?』
結局奏の押しに負けた礼は病室を教えた。すると、1時間後には扉が開いた。
「間に合った……」
面会時間は20時まで。現在は19時17分を指していた。
「ほんとに来たんだ」
「だって、俺にも責任あるしな。礼ちゃんの記憶の封印を解いた責任」
「頼んだのは私なんだから気にしなくていいのに」
「殺人の時だって実行犯も指示を出した人間も同じように逮捕されるだろ?それと一緒だって」
「犯罪ではないよ……例え悪すぎ」
「悪かったな」
2人は小声で話した。
「……全部、思い出したのか?」
「多分。きっと、一気に記憶が蘇ったから失神したんだと思う」
「そうか……」
奏はそう呟いたあと、急に礼を抱き寄せた。
「なに?」
「……泣いていいんだぞ」
彼女はそう言われた途端、奏の肩口で声を噛み殺して泣き始めた。その涙は儚く、そして清らかな悲しみを湛えていた。
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