4.溶ける

 僕は再び目が覚める。尋常じゃない量の汗が店内の冷房で冷え、喉が渇き、メロンソーダを一口飲む。

「なんだか嫌な夢を見たなあ。はは」わざとらしく、声に出してみる。「いや参った、本当に嫌な夢だ」

 隣の席の人間が一瞬こちらを見る。高い天井にはシーリングファンが回り続け、飾られた絵画の中の人物たちと目が合う。夜なのに青空の見える丸い天窓の向こうから、数人の人物がしげしげとこちらを見下ろしている。蛇が言う。

「今のは現実にあなたに起きたことよ」

 僕は怒声を上げた。

「そんなのわかってる」

 周囲の人間が、一斉に僕を振り向く。そしてすぐに興味をなくし、再びそれぞれの会話に戻っていく。

 僕はあの時、覚悟した。僕は牛乳日記を書き、書くだけでは飽き足らずカバンに入れて持ち歩くようになり、そんな自分に自尊心を感じ、そしてそんな自分を世間は気味悪がり、自分は世間から気味悪がられる人間であるという意識を抱えながら、これから生きていかなければならないのだと思った。そう覚悟した、つもりだった。僕はリュックを掴み、トイレに向かった。

 僕はトイレの個室に篭り、蛇に話しかける。

「さっきの話だけどさ」

「……どの話?」

 蛇はとぼけた言い方をする。じれったい。

「だからさ、俺がきみのエサになるって話。そうすれば、俺の悩みを解消できるんだろ?」

「いいわよ。私ははじめからそのつもりであなたの前に現れたから」

 ドアを何度かノックされる。その度に僕はノックし返す。

「……やり方が、ずいぶんと回りくどいんじゃないか?」

「でも場所を変えて。あなたを呑んだら、私はしばらく動けなくなっちゃうから」

「……そしたら、きみは見つかって殺されてお腹を割かれちゃうね」

「そう、インドネシアの人喰い蛇みたいに。ああはなりたくないの」


 僕がトイレのドアを開けると、スニーカーに土の感触があった。土を踏むたびに、その濃い匂いが大気に舞い上がる気がした。空気に湿り気がある。高い木々の隙間から注ぐ星の明かりに照らされ、周囲がよく見える。道もなければ建物もない。ここなら人はやって来ない。微かに水の流れる音がする。小さな水源があった。蛇はリュックから地面に降り、岩陰に隠れた。

「どこ行くの」

「準備があるの。私がいいと言うまで、こっちを見ないで。それから、できればあなたも服を脱いでいてほしい」

 準備という言葉を聞き、なんとなく緊張する自分がいる。僕は震える手でスラックスのベルトを緩める。

「ねえ、俺を呑む前に絞め殺したりしないよね。苦しいのはイヤだな」

「何言ってるの? あなたはこれからとても気持ちいい体験をするの。乱暴するはずないでしょ。あなたが乱暴してきたら、話は別だけど」

「大丈夫。大人しくする、約束する」

「……じゃあ、いいわよ」

 僕は蛇の方を見た。思った通り、体がとてつもなく大きくなっている。そうでなければ、僕を呑むことなどできないのだから。蛇は木の細い枝に絡まり、艶のある体を垂らしている。枝が折れないのが不思議だった。僕は恥じらい、股間を手で隠した。

「この姿を見られるのは、恥ずかしい。怖がられるから」

「……大丈夫。すごく、神秘的だよ。それで俺はどうしたらいいかな」

「あなたはただじっとしていればいい。さあ、土の上に寝転んで」

 言われた通りにする。星の明かりを見上げながら、蛇が体を引きずり近寄って来る音を聞く。胸が高鳴っていく。冷たいものが僕のつま先を触れた。蛇の舌が、足から順に僕の全身を這っていく。麻薬物質に侵されるように、気分がとろけていく。

 蛇が耳元で囁く。息がかかる。

「ねえ、あなたにはない? 例えば今自分の見ている光景が夢だとわかっていても、起きられないこと。それか、自分は目覚めていると思い込んでいて、本当はまだ夢の中にいたりすること」

「……うん、あるよ。本当はこれも夢だってことにも、ずっと前から気づいてる。でもどこからが夢でどこまでが現実なのか、もう区別がつかない」

「かわいそうに……。何も考えなくていいの。楽にしてあげるから」

 蛇は巨大な口を広げた。僕は蛇の温かさに包まれながら、頭から暗闇に呑まれていく。牙が体に引っかかるのを心配したが、蛇は気を使ってくれた。かつてないほどの安心感があった。蛇が僕に囁きかける。体の中にいる僕に、声はうっとりするように響く。

「ねえ、言い忘れてたんだけど、あなたはこれを終えたら、もう一生何かに満足するということができなくなる。それでもいい?」

「……いいよ。俺の一生は、もう終わりかけてたから」

「ねえ、私を名前で呼んでくれる?」

「名前があるの?」

「……名前は、誰かに付けてもらうものでしょ? あなたに付けて欲しい」

 僕は少し考えた。

「じゃあ、トコにしよう。永久とこしえのトコだ」

「……変わってるね。でも素敵。ありがとう」

 全身の素肌にトコの弾力を感じる。ヌルヌルした胃液が絡まる。トコの弾む呼吸が聞こえる。僕は体を丸めようとする。トコが言う。

「……あまり動かないで」

 僕は動きを止める。

「ごめん」

「……そう、もっとゆっくり」


 僕は想像した。このままトコの養分となって排泄物になり、やがて水源から海原へと流れ着く自分を。僕の体は膨大な時間をかけて天に昇り、地上に降り注ぐ雨になる。それは巨大な流れだった。この地球上における最も巨大な循環。その中に身を託す自分。何も考えずに済む、安楽のシステム。当然、散り散りになったその時の僕の体に、意識と呼ばれるものは介在しないのだろうけど……。

 トコの体の中の酸素が薄くなるにつれ、意識も薄れてく。僕は気になったことを聞く。

「……トコ。俺はこのまま、永遠に目が覚めないんじゃないか?」

 トコは悲しそうに答える。

「……そうよ。私はあなたを、騙したことになる」

「……どうでもいいんだよ、そんなこと。もともとそれが、俺の望みだったし」

 自分の体が溶けていくの感じる。トコと一体化するように。うとうとと、意識が深いまどろみの中に沈んでいく。最後に僕は聞いた。

「……なあ、こんな時に言うのもなんだけど、古川のこと。あいつは本当に殺すかな?」

 トコは笑った。

「それは、明日になってみないとわからないでしょ?」

 僕は答えた。

「それもそうだ」


 ※


「具合が、悪いんだけど」

 朝、家を出る直前になり僕の口はやっと開いた。もうカバンを背負っていた。

 昨晩から眠れず考えていた言葉なのに、いざ言おうとすると、喉が絞められるように声が出なかった。タイミングが掴めず、僕は既に朝食を終え、着てしまったら計画が台無しになる制服に身を包みながら、進んでいく時計にイライラしていた。普段からあまり口を利かない母に対し、自分の意思を伝えるのは難しかった。理由はそれだけではない気もするのだけど。恐らく、学校を休むために嘘を吐くことへのうしろめたさだろう。しかし、慌ただしく仕事の支度をしていた母が玄関前の細い通路を通りかかった時、発作的に口が開いた。僕の口調は、自分でも驚くほど刺々していた。なぜ聞いてくれなかったのかと、母を糾弾するように。言わなかったのは自分なのに。でも母は、僕の顔を不安げに見るとこう答えた。

「……やっぱり。昨日から何だか、元気なかったから」

 僕は一瞬意味がわからず、考えた。元気がなかった? 僕が元気でいたことなど、あっただろうか。それと同時に、異変に気付いていたのならなぜその時に訊ねてくれなかったのかと、身勝手な怒りも湧いた。僕は母の顔を直視できない。なるべく意識しないように平静を装い、漠然と用意していた台詞を読んだ。

「……少し、熱っぽいんだ」

「あらそう。計ってごらん」母は心から心配そうに言う。

「……その、計ったんだけど。熱はなくて、でも熱っぽいのは本当なんだ」

 でもこれだけでは口実として薄いような気がする。

「それに、お腹も少し痛い」

 言いすぎた、と思った。理由を並べすぎると、かえって不自然になる。自分はさっき朝飯を普通に食べていた。頭が重くなる。

「それなら、やっぱり風邪かもしれないわね。今日は休みなさい。学校には私が連絡しておくから」

 会話が、予定どおりの位置に呆気なく着地する。あえて自分からは休むと言わず、母の口から提案させるのが理想だった。そのほうが僕の気は軽い。

「……そうする」

 手や背中の汗に気づく。母が言う。

「父さんと心配してたのよ。学校で何かあったんじゃないかって」

 心臓が鈍く痛む。顔に出さないように答える。

「何もないよ」

 僕は二階の自室に戻り、制服のまま布団に倒れこんだ。


 ※


 ブリブリという音とともに、目が覚めた。僕の目には微かに涙が溜まっていた。海の匂いが鼻を突いた。生物の死骸と排泄物の凝縮した臭い。見ると僕のスクーターに見知らぬ男が跨り、そのまま道を走り去ろうとしていた。しかしマフラーはブスブスと詰まった音に変わり、スクーターがよろめいた。「おい」となんとか声を出すと、男はスクーターを置いて走り去った。スクーターのカゴには僕のリュックも入れられていた。

 僕は状況を掴めないまま周囲を見た。

 ザザーンと波がテトラポッドに砕ける音がする。暗い青色の空に、オレンジ色の外灯がポツポツと目立つ。僕は屋根付きのバス停の粗末なベンチに腰掛けた。どうやらここで眠っていたらしい。体中の関節が軋む。腕時計を見ると《AM》の表示があった。

 それからスクーターを点検した。さっきの音は何だったんだろう。マフラーの筒から何かが垂れている。僕は頭が白くなる。蛇の尻尾だった。僕はそれを摘まみ出す。死んでいた。熱によって、皮膚がところどころ溶けていた。命を落とし、ただの物質となった蛇を、僕は両方の手のひらに乗せ、愕然と見つめた。僕はその姿勢のまま、あてどなく歩き始めていた。右足が痛んだ。コンクリートの階段を降り、砂浜を歩いた。ダンロップのスニーカーが砂に沈むようで、早朝で潮は干き、波打ち際に辿り着くまで随分と苦労した。海カラスたちが上を飛び交っていた。僕は蛇の死体をそのまま海に沈めた。本当はどうするのが正解なのかわからないけど、そうする以外に思い浮かばなかった。

 来た道をバス停に向かい戻りながら、自分がどうしてこんな場所にいるのかを思い出そうとし、でもほとんど何もわからなかった。何気なく触れた制服の胸ポケットに、赤いコーヒーの実が入り込んでいた。肘には転んだ時できた擦り傷のかさぶたがある。どうせまだ夢の中なのだろう……。そのうちまた目が覚めて、そうしたら僕は部屋の固い布団から起き上がり、一階で母の作った夕食を食べ始めるのだ。

 やがて日が昇り、バス停の屋根で日差しを遮った。僕は自分が目覚めるのを待ち続けた。バスが通りかかると、僕は首を振って客ではないと示した。ベンチの下に、使用済みのコンドームが落ちていた。でもよく見ると、それは蛇の抜け殻だった。僕は生乾きのそれを破れないよう慎重に拾い上げると、リュックから取り出した白いタオルに包み込んだ。

 荒波をぼんやりと聞きながら、再び沈んでいく夕陽を眺めた。僕は深く溜息をつき、スクーターのエンジンをかけ、東に向かって走り始めた。

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溶け合う季節 十月和生 toga_kazuo @shall_tack

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