3.鬱憤
「出てきたらどうだ」
スクーターの速度を上げながら僕が言うと、リュックの中に隠れていた蛇が僕の肩に這い上がってきた。
「なあ、さっきはどうして俺を止めたの。こっちは乗り物なんだから、通りすぎちまえば良かったろ」
蛇が答える。
「そういうわけにはいかないの。向こうに気づかれた時点でお終いだったから」
「どういう意味?」
「つまりね、仮にあなたが古川の相手をせずスルーしたとしても、行く先々で必ずあの子は現れる。そういうルールなの。だから、こちらに気づかれないようにあちらから居なくなるのを待つのが賢明だった。けど、……彼が危害を加えてこなかったのは不幸中の幸いね」
「ふうん……。きみは怖くないのか?」
「何が?」
「俺のことだよ。あいつの言った通り、俺も猫を殺してる」
「そうね。でも一匹だけよ」
「数の問題じゃない」
「だけど仕方がなかった」
蛇は即答する。僕は言葉が出ない。蛇が僕の耳元で代わりに囁く。
「あの日の夕方、橋の下で古川が猫を殺そうとしているのを、偶然通りかかったあなたは発見してしまった。そうでしょう?」
僕は頷く。蛇はあの日の説明を始めた。
「古川はあなたに気づくと逃げ出して、殺し損ねた猫には息が残ってた。あなたはそれを見下ろしていた。橋の足元には古川が置き忘れていったキャットフードの缶があった。たぶん何かが混ぜられていたと思う。向こう岸の煙突からは灰色の煙がぼうぼうと昇っていて、川の水は虹色に輝いていた。猫は痙攣しながらフラフラ歩き回り、赤い血を流し続けて、血は虹色の水と時々混ざり合った。早く楽にしてやろうと思いながらも判断に迷ったあなたは、近くに大きめの石を見つけた。子猫一匹を潰すのにちょうどいい大きさだと、あなたは思った。それを使って、あなたはどうしたと思う?……猫の上に載せたのよ。なんと、殴るのでも投げつけるのでもなく、載せただけ。自分が殺さなければならない、でも自分で殺したという実感からはなるべく遠ざかりたい、とでも言ったところかしら」
「……」
「責めてるわけじゃないのよ。善意だったから。だけどその善意のせいで、猫を余分に苦しませたんじゃないか。あなたは今もそう心の片隅で思い悩んでる」
「別に」
猫の呻き声が頭にこだまする。時間をかけて苦しみ、だんだん弱くなっていく猫の声。
「……ねえ、私があなたの善意を肯定してあげる。そしてあなたのその悩みも、私なら呑み込んであげることができる」
「そんなことが?」
「ええ簡単よ。あなたが私のエサになってくれればいいの」
僕は道を確認しながら、少し考える。
「……興味ないや」
猫殺しに後悔していないと言えば嘘になるが、そんなことのためにエサになどなりたくはなかった。
国道のような道に合流しようとしていた。車の量が激しくなり、広い車道の両側に看板の光が連なる。ファミレスの看板を見つけると、腹が鳴った。それに喉も渇いてる。
「そろそろ休もう」
駐輪場は店の裏側にあった。室外機がジリジリと細かく振動している。小さな窓があり、店の裏側で動く人間の影が慌ただしい。
「休憩なんてしてていいの?」蛇が聞く。
「時間なんて関係ないじゃないか。きみはおとなしくリュックに入ってて」
ファミレスの入り口のドアに《ペット入店禁止》の貼り紙。僕は息を飲んでドアを押した。
「何名様でしょうか?」
「ひとりです」
「一番奥の左側の席へどうぞ」
店は混んでいる。蛇を隠し持っている自分を、周囲が好奇の目で見ているようだった。席に座った途端、体に溜まっていた温度を発散するように、汗が一気に流れ出た。それにしても、……僕はこの店を知ってる。あれだけ走ったのに、なんだか妙だ。世界が縮小されてる感じだ。いや、仮に縮小されてるのだとしたら、僕はもっと遠くにたどり着いていなければならないから……。僕はそこで考えるのをやめた。言葉の意味など今は関係ない。
僕はメニューを眺め、ピザとドリンクバーセット、それから骨つきチキンを注文した。僕はドリンクバーからメロンソーダを手に席に戻った。他の席から様々な話し声が聞こえて来る。
「あなたは私のどこを好きになったの?……そう、なら別に私じゃなくてもイイよね。どうしたの? 言い返せないの?」
「大麻ビールってのが売ってるから調べてみたんだけど、本当の大麻は入ってないの。それって詐欺じゃないか?」
「僕は時折考えるのだがね、罪の対義語とは何だろう、と。……罰? いやだってきみ、それは罪の結果、あるいは副産物だろうに。罪とはまず行為であって、その中でも《してはならない》行いを示す言葉であるからしてだね、罪の対極にあたるとすれば《するべき》行いこそが相応しい。……ふむ、確かにしかしそれは名付けようがない。ではこう考えてみるとしよう。仮に人間の社会生活に混沌をもたらすことが罪であるなら、秩序の遵守こそが善である、と。しかし果たしてそれは必ずしも善か。秩序とは状態の維持である。混沌がマイナスならば、秩序はゼロに価する。善が出現するとすれば、ゼロである秩序を基点にマイナスである混沌を反転し、秩序を超越した位置でなければならない。……そうだ、きみの言う通りだ。そもそも善の対義語は悪であるから、この仮定は無意味だ。何故罪と悪は、それぞれ別の言葉を用いられるのだろう……」
僕は届いたピザを切り分けて食べた。骨つきチキンをそっとリュックの中に入れると、蛇はそれを豪快に丸呑みして言った。
「うるさいわね」
「……うん」
お腹が膨れた僕は、急激な眠気に襲われていた。
「だから、あんたはなんでいつもそうギャアギャア泣くの! バカこのクソガキ! 泣くのをやめろ!」
「……逆にさ、あんたたちは何でいつもヘラヘラ笑ってるの? なんで私が笑わないと不機嫌になるわけ? そういう雰囲気みたいなの強要されるの、すごくムカつくんだけど。笑顔が人間の表情の標準だとでも思い込んでるの?……え、私真剣なのになんでみんな笑ってるの? みんな同じ顔してる……。怖いんだけど。やめてよ、こっち見んな。その変な仮面剥いでよ……。イヤ……」
「ええと、あなたは大学を留年してるんですね。……いえ、そこは別にいいんですが。卒業してから今日まで2年近く空白があるようですが、その間に何か……」
「なあ、これ凄いぞ……。竹中のカバンから見つけたんだけどさ……」
自分の名前が聞こえ、僕はハッと目が覚める。ファミレスのテーブルが、学校の木の机に変わっている。木目からして、僕の席だ。何かの現場を押さえるように、ヘリコプターの轟音が響いている。教壇の周りに、人だかりができている。その中心にいるのは山田だった。それは映像というより、静止画として見えた。レオナルドの『最後の晩餐』を思わせる。山田の手は、なぜか僕のノートを持っている。
「あいつ、給食の時間にみんなから牛乳飲まされてるだろ? それをさ、ノートに日記みたいに書いてやがったの。ええと……、《7月16日 今日は渡辺、小野田、片倉、そしてカナコちゃんに牛乳をもらった。自分のも含めて、200ml×5本で1000ml飲んだ。牛乳を飲めない女子たちは僕を頼る。信頼されている。中でもカナコちゃんは特別だ。彼女は毎日欠かさずに僕にくれる。彼女なりの愛情表現に違いない。僕はカナコちゃんからもらった牛乳を他と混同しないように、机の右端に置く。それ以外は左端。そしてカナコちゃんの牛乳は最後に飲む。冷たくなくなっているが、それがいい。味を濃厚に感じられるから。今日のカナコちゃんの牛乳は、ピスタチオのような味がした。喉を通った瞬間、僕の胃の中に、ピスタチオの芽が生えていく……》」
山田はそこで笑いを堪えられなくなり、読むのをやめる。彼の周囲からざわめきが聞こえるが、内容がわからない。右の方を向くと、古川が席についたまま何かを企むようにニヤついている。いや、こいつはいつも同じ顔をしてる。
その時、教室の前のドアが開き、僕が入ってくる。ちょうど山田たちの中に立ち入る位置。『最後の晩餐』の均衡が破れる。おかしい、僕はここに座ってるはずなのに。教室が一瞬静まり、再びざわつく。入ってきた僕は一瞬ポカンとし、山田の手に白いノートがあるのを見ると、血相を変えて山田に飛びかかった。山田は何度も僕の手をかわし、隣の人物にノートを手渡すと、ノートはさらに他の人物の手へと移り渡っていく。ノートの白い表紙に、黒いシミが付着していくように錯覚する。僕はそれをようやく自分の手に奪い返すと、「畜群どもが」とだけ叫び、入ってきたのと同じドアから廊下へ走り去っていった。教室にあらゆる種類の声が溢れる。歓喜、侮蔑、好奇心……。教室が悪意で満ちていくのを感じる。と言うより、教室そのものが悪意の塊となっていく。
しばらくすると教師が現れ、始業のベルが鳴った。
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