2.遭遇
蛇は有無を言わさず、倒れたスクーターのカゴに入り込んだ。僕は困る。流石に蛇は家に持ち帰れない。
「あなたが行くところなら、どこにでも着いていくから」
カゴの中の蛇が言う。僕は転んで痛めた右足を引きずりながら歩く。
「……きみは女の子だったのか。家はないの?」
蛇は答えない。
「ならいいよ」
僕は方角がわからなくなり、腕時計の電子コンパス機能を使った。入り組んだ道を抜けると、広い河川敷に突き当たった。コンパスを確かめる。川に沿って下流に進めば、ちょうど西側に向かうことになる。再びスクーターを発進する。土手に群生する背の高い葦の林から、虫の鳴き声がする。一定の方向に流れるおびただしい水の音が鼓膜を突き、流れが僕を導いているように錯覚する。時々、葦の林の隙間から土手の下にゲートボール場のような広場が点々と見えたが、人の気配は微塵もない。なんとなく寂しい道だったが、カゴでじっとしている蛇の存在が温かかった。こいつとならどこまでも行けそうな気がした。
「止まって」と蛇が言った。
「え?」
「いいから。エンジン切って」そして注意深く間を置いて言った。「見つかる」
僕は言われた通りにする。でも遅かった。人の声がした。何を言ってるかわからなかったが、呼びかけるような声だった。体が固まり、周囲を見回す。車が通るような巨大な橋の下に、人の動く影を見た。影は土手を上り近づいてくる。
「……牛乳男じゃないか。いや、た、竹中くん」
古川の声だった。最近転校してきたクラスメイト。こいつにはあまり近寄らないほうがいい。彼を最初に見た時から、そう直感していた。細く尖った顎に引き攣った笑みを常に浮かべ、小さな顔の中で窮屈に見開かれた両目は、赤く充血していた。
「……ああ」と僕は曖昧に返事をする。
彼は制服のスラックスに、黒いTシャツを着ている。青筋の浮く白く細い腕が、骨のように袖から剥き出している。彼の手に、鈍く光る物が見えた。包丁だった。
「なんとなく、きみが来るのを、わかってたよ」枯れそうな声で、古川が言う。彼の喉仏が、独立した意思を持ったように動いている。
「でも来るとしたら、し、死体になって、川からだろうって、思ってたのに。何だい、その立派なスクーターは。まあいいや、し、死んでたら、おしゃべりできないよね」
僕は驚かない。前にも一度、同じ光景を見た。橋があり、向こう岸には煉瓦造りの煙突と木の建物。工場の廃墟だろう。あの橋の下には、猫の死体があるはずだ。でもあの時は夕方で、古川は僕に気づくと、引き攣った笑顔のまま逃げ出した。映像を頭から振り払い、僕は言った。
「……お前だろ。俺のノート盗んだの」
古川は無視する。
「き、聞いてよ竹中くん。大人はみんな、こんなことはやめろって、僕に言うんだ。やめろ、やめろって。そう言われれば言われるほど、僕は傷つく。とても傷つく……。僕はね、《こんなこと》をしていないと、自分をうまく保てない。自分が、自分じゃなくなるって感じ。……フフ、だからね、大人たちが言う《やめろ》は、僕に《生きるのをやめろ》って意味なんだ」
腰の高さで包丁を握る古川の指が、せわしなく動いている。
「……ノートはお前がやったのかって、俺は聞いてるんだよ」
「僕がどうしてこうなったのか、知りたくないかい?」
「……興味ない」
僕はゆっくりと歩き出す。転んだ時の右足がまだ痛む。古川も横に着いてくる。
「実はね、自分でも、よくわからないんだ。どう言ったらいいかな……」
古川が考え込む間、川の音が充満し、時々赤子の声が混ざった。それが猫の声だと気づくと、僕の頭は貧血みたいにぼんやりとした。古川が僕の歩き方を見、口を開く。
「例えば、右足を痛めるでしょ? そうすると右足をかばって、左足に負担をかける。今度は、左足が痛みだすんだ。一度どこかにガタが来ると、次々と、他の場所もおかしくなっていく。……ドミノ倒しみたいに」
「……改善すればいい」僕は投げやりに答えた。
「……無理だよ。僕はもう、引き返せない場所まで来てる。右足はもう治ってるはずだけど、そもそもどこで痛めたのかさえ、思い出せない。小さなことだったと思うけど、遠い昔だから」
道の途中で、古川は立ち止まる。外灯に囲まれ、放射状に分散するいくつもの自分の影を見つめている。どれが本物かを品定めするように。
「僕は、次は人間を殺そうと、か、考えてる。考えてる……? そう、考えてるんだ。校庭に、朝礼台があるでしょ? 偉い人間が、並ばせた生徒達の前で、高い位置から説教をするための台。あそこに、人間の首なんかを置いてみたら、どうだろう。か、価値を、ひっくり返すんだ。竹中くんも、見てみたいと思わないかい?」
「教室にいる時より饒舌じゃないか?」
「相手が牛乳男だからだよ。牛乳男の、竹中くん。……それにきみも、殺してるから。僕は見てたんだ、僕は見てたんだ」
こいつを突き飛ばしたらどうなるだろうと想像した。でもこの黒いTシャツには、なるべく触れたくなかった。
「そうだ、僕は最初から、望んでたのかもしれない。人を殺すことを。でもできなくて、まず動物を……。きっとそうだ、ああ。竹中くんとおしゃべりしたおかげで、気づけたよ。あ、……ありがとう。でもね、小動物を殺すのも、なかなか良かった。さっき言ったように、僕の救いだった。でもそういうことを、僕たちはコソコソと、隠れてやらなきゃいけない。どうしてだろうね……。僕は次こそ、自分よりも強い奴を相手にするよ。もう決まってるんだ。そして僕は生まれ変わるのさ。そいつのことはきみもきっと嫌いだから、そしたら僕に感謝してよね。……ねえ竹中くん、僕はこれから果たしにいくけど、きみはもしかしたら、まだ引き返せるかもしれないよ」
「……どこに?」
僕が言うと、古川はクツクツと笑った。
「……ああ、その様子だと、もうダメかもしれないな。じゃあ、気をつけて」
古川は振り返り、今来た道を引き返そうとする。
「どういたしまして」
僕はそのまま下流に向かう。後ろからまた声がする。
「きみのノートだけど、一応言っておくと、あれは僕の仕業じゃない」
僕は答える。
「よくわかったよ」
そうして僕たちは別れた。
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