溶け合う季節
十月和生 toga_kazuo
1.出発
駆け込んだ校舎のトイレに、蛇がいた。
スリッパみたいな形の和式便器に潜んでいたそれは最初、誰かが流し忘れていった排泄物に見えた。
個室の壁には《トイレットペーパー以外は流さないでください》と貼り紙があり、その下には鉛筆で描かれた女の裸があり、裸を上から別の誰かが赤いペンで塗りつぶした跡があった。蒸れた臭いが充満する。
水を流すレバーに片足を乗せようとすると、便器の水から排泄物が立ち上がり、驚きで僕は固まった。頬を冷たい汗が伝う。蛇の目は真っ直ぐ僕を見上げていた。廊下から始業のベルが聞こえる。僕が何か言おうとする暇も与えず、蛇はありえない勢いでジャンプして間抜けに開いたままの僕の口に滑り込んだ。
その間、僕の汗ばんだ手は、やり場に困った一冊の白いノートをずっと握っていた。
その辺りで僕は浅い眠りから覚めた。寝心地の悪い自室の布団、回りっぱなしの扇風機。制服の白いシャツが汗でびしょ濡れだった。胸の鼓動が鳴り止まない。喉から胃にかけて、蛇の感触が残っているようで落ち着かなかった。セミたちが一斉に鳴く窓の外では、日が沈もうとしていた。……それとも昇ろうとしてるのだろうか? 一階からは、母が台所で作業する音が聞こえた。示し合わせたようにセミたちが静まると、時計の針の音が気になり始める。
僕は一階に降りた。ドアの磨りガラスに、調理をする母の影が揺らいでいる。玄関の土間に父の靴がない。僕は夕方だと確信する。なら、まだ猶予がある。僕は一度部屋に戻り、リュックに荷物をまとめた。はめたデジタル式腕時計には《PM》の表示があった。はじめからこれで確かめればよかったのだ。さっきから異様に頭が重たい。
……そうだ、僕は風邪で学校を休んでいたのだ。
玄関の下駄箱の上に置かれた兄のスクーターの鍵を盗み、ダンロップのスニーカーを履いて僕は外に出た。自分らしくない大胆な行動に、僕は少しビクビクしている。無免許の僕は兄のスクーターで街を走る。僕は蛇を呑み込んだことを思い出していた。今の自分の意思は、半分ほど蛇に支配されているのだと考え始めていた。太陽とは逆の方向に走っていることに気づき、慌てて向きを反転した。スクーターのマフラーがブリブリと音を立てる。
ある日、僕は理科の授業中に巨大なあくびをした瞬間、永遠に明日をやって来させない方法を閃いた。今日という時間に、自分が留まり続けることを可能にする方法。それは単純だ。太陽から逃げればいい。
太陽から見て地球の裏側に位置する場所は当然、常に夜だ。僕は太陽と同じ方角、つまり西に進み続けることで、夜の世界にい続ける。そうすれば朝は永遠に訪れず、明日はやって来ない。この理論にはアインシュタイン博士も舌を巻くにちがいない。
などとぼんやり考えつつ、しかしまさか実行する時がやって来るとは思ってもみなかった。慣れない運転への集中力で頭が疲れ、スクーターを降り、手で転がして道路の左側を歩いた。日はまだ完全に落ちてはいない。街路樹の影が地面に並ぶ。丘に並ぶ民家の中で、広い公園に通りかかる。公園は段状の造りになっている。僕はヘルメットを被ったまま、公園の敷地を見下ろす位置の自販機で冷たいコーヒーを買った。そもそも今の季節、冷たいのしか売ってない。110円した。高いのか安いのか、僕には区別がつかない。プルタブを開けて飲んだ。途端、強烈な直射日光に見舞われ、周囲が明るくなる。たっぷり日焼けをした男が、木々の隙間から現れる。男の周りには蚊が舞っている。軍手をはめた手をこちらに差し伸べてくる。
「カネ」
「え?」
「今コーヒー買ったでしょ? だから、カネ」
木の枝には赤色の実がびっしりと成っていた。ああ、と僕は納得した。ここは社会の授業で見たビデオの風景と同じだ。教室の熱気と画面の中の日差しが頭の中で混ざり合い、僕はあの時うだるような気分で眺めていた。眠かったからよく覚えてないけど、そこに着いたのだろう。外見からは年齢がわかりにくいこの男は、たしかコーヒー豆の栽培農家だ。
「お金なら、僕はちゃんと払いましたよ。110円しました」
「そういうことじゃない。俺に払えと言ってる。いいか? お前が今飲んでるコーヒーの豆は俺が苦労して育てたものだ」
僕は困惑する。それにしても、男の日焼けはすごいな。これだけ日差しが強いのだから当然か。ところで、僕は何かを忘れている。
「わからない奴だな。お前がこの国でコーヒーを飲むのにカネを払っても、そのカネは俺たち農家のものにはならないんだよ。子供を学校に通わせたい。困ってるんだ」
思い出した。僕は太陽から逃げなければならない。早くここを立ち去るべきだ。
「じゃあ、払えばいいんでしょ?」
僕は仕方なく財布から小銭で110円を取り出した。細かいのがあって助かった。それを男の軍手に乗せると、男は頷いてニカっと笑い、木々の陰に消えた。辺りが再び夕闇に染まった。何か腑に落ちないな、と思う。僕は110円の缶コーヒーに、倍の金額を払ったことになる。不当じゃないか?
「ダメよ、こんなところで」
「いいじゃないかキスくらい。別に誰も見ちゃいないよ」
公園の下の方から、男女の声が聞こえた。僕はそっと見下ろす。
色あせた水色のベンチで、僕と同じ制服を着た後ろ姿の男女が、僕に気づかずイチャイチャしていた。女子の方はすぐにわかった。同じB組のカナコちゃんだ。わからないはずがない。なぜなら僕が好きなカナコちゃんだからだ。男の方は、確かA組の吉岡と言ったか。運動ができる以外には、基本的に粗野な男。僕は二人の様子を呆然と眺めていた。二人は肩を組むふりをして、もう片方の手でお互いの体をまさぐり合っている。長くいやらしいキスをし、男の手がカナコちゃんの白い制服の下を這い、乳房がなまめかしく動く。
僕は無意識に息を押し殺していた。違う。これは違う。カナコちゃんは僕のことを好きなはずだ。なぜなら給食の時間、必ず僕に牛乳をくれるから。僕たちはお互いに気づかないふりをしてるけど、両思いのはずだ。わけがわからない。なぜそんな薄汚い男と? カナコちゃんは僕が想像していたよりも頭が空っぽだった? そんなはずはない。なぜならカナコちゃんはカナコちゃんだからだ。僕は混乱するべき今の状況の中でも、自分の思考が理路整然としていることに少し驚く。今、僕がカメラを持ってさえいれば、と後悔した。カナコちゃんは騙されているに違いない。カメラでこの現場を収めれば、男がカナコちゃんを騙している証拠として学校で暴露し、男を糾弾できるのに。
「痛!」
「え、何?」
二人の声が突然悲鳴に変わり、男が僕の立っている方を見上げた。男は夕日に一瞬目を細め、僕の顔を確かめると叫んだ。
「あ、牛乳男」
僕は自分の手からコーヒーの缶が消えているのに気づいた。男のシャツがコーヒーで染まっている。いや、僕はとぼけているだけだ。と思う。僕は確かに自分で投げた。でも僕じゃない。男が階段をかけ昇って来ようとしてるのに気づき、僕は慌ててスクーターを発進させた。
「おい待てよ!」
「何あれ、気色悪い」
後ろから声がするが、気にしないように努める。
等間隔に並ぶ外灯に従って走る。日が完全に落ちていた。僕はどれだけ走っていたのだろう。僕は重い頭で、さっきの状況を整理しようとした。
僕はコーヒーの缶が空中で見事な弧を描くのを、確かに見ていた。それはスローモーションのように、目の前で再生されていた。カツンと、男の後頭部に直撃した。相手の反応は予想できたはずだったのに、なぜか投げてしまっていた。僕はそれまで二人の後ろ姿を、どこかフィクションのように眺めていた。僕と違う世界に存在するもののように。だから投げても大丈夫と、そう判断したのだろうか。しかし僕の投げた缶は、僕たちが確かに同じ次元にいる証拠として男の後頭部に当たり、二人は僕に気づいた。胸がざわつく。肝心の、投げたきっかけがわからない。投げる時、脳にピリピリと電流が走ったようで、視界が一瞬暗くなったのは覚えてる。
筆書きの《痴漢に注意》の立て看板が目に映る。赤い塗料の《痴漢》の二文字が日に焼けて乾いた血にように退色している。でもその文言は正しいのだろうか。ここが痴漢にうってつけの場所であることを、変質者に親切に教えてくれているようなものだ。自分の考えが脱線しているのに気づく。
缶は、僕の手を離れた瞬間に、もう僕の意思とは無関係になっていた。缶の落ちる先に、たまたま男の頭があった。当たるか当たらないかは、運の問題だった。僕は逃げる前に、彼に謝るべきだっただろうか。でも当たってしまったのは偶然だから、どう言い訳をしたらいいのだろう。
「おいおい、俺はそんなキャラじゃないだろう」
僕は呟いた。自分の頭にピンセットを差し込んで、過ぎたことにうじうじと悩む自分をつまみ出し、道端に投げ捨てた。ペシャ、という何かが取り返しのつかなくなる時の音がした。
「ムシャクシャしてやった」
それだ。簡略でいい、と思った。もし缶があいつではなく、偶然カナコちゃんに当たってしまっていたら?
「誰でもよかった」
僕はまた呟く。今日の僕は冴えている、と思う。そもそも、謝罪や弁明など必要ない。明日はやって来ないのだから。時々すれ違う車のライトが眩しかった。反対の方向に進んで行く車たち。僕はカナコちゃんの柔らかそうな胸を思い出しながら、情けないことに勃起している。勃起しながら、とても苛々している。なぜか《痴漢に注意》の看板を思い出していた。それから連鎖的に《牛乳男》という言葉を思い出した。心臓に針が刺さるのを感じた。牛乳男? 僕のことか? 息が浅くなる。遠くにサイレンが聞こえ、音はだんだんはっきりと大きくなったかと思うと、また遠ざかっていった。唐突に泣き出しそうになり、家の固い布団が恋しくなり、帰ることを考えた。でもここはどこだろう。その時、道端に落ちていたロープがいきなりスルスルと道を横断しようとする。生き物だ、と思い慌ててブレーキをかけると、僕の体は横転するスクーターに引っ張られて固い地面に投げ出された。蛇と視線が合う。夢に出てきた蛇だった。立ち上がろうとする僕に、蛇が言う。
「私も連れていきなさいよ」
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