第6話

「なっ君のことだからもっと時間がかかるもんだとばかりなあ。あのバカやりすぎだってーの……あたしは永遠に引きこもっていたかったってのにさ、こうなっちゃ働くしかないやい。いじめられっこのとまちゃんはこの先どうするつもりなんだよ」

 そこは彦君の胸の中ではなく、空や地面を染料で塗ったような世界だった。黒を基本とした世界だけれど、赤や緑も目立つ醜い世界である。

 私ならば黒一色に染めて他の色は隠してしまう。落ち着いた世界の方が、色とりどりのそれより単純でいい。なにも見ずにいられるから、なにも見えないで済まされるから、なにもない世界と同じだから。

「おいおーい、このあたし様の質問に答えないつもりかよ。二人だけの世界なのにえらい疎外感だ。これはまいったもんだよ本当にさ。後ろを見ろい」

 頭もお腹も痛くなかった。

 おかしな場所に迷いこんだのかもしれない。

 ここが死後の世界なら楽でいい。

 この世のどこにもない場所だったら嬉しい。

 そらならば今から黒一色に染めて、なにもかもを忘れよう。

「おいってのさ。聞いてくれって、聞いてくださいってのさ。あたしがいなかったらとまちゃんは死んじゃうんだよって。ちっぽけな君にもやらなきゃいけないことがあるんじゃないの」

 とまちゃんというのは私なのだろうが、なっ君とは誰なのだろうか。

「あ、もしかして忘れているのか。漆彦助だろうよ、あいつの名前は。お友だちの名前を忘れるなんてひどい女だ」

 そんな名前だったかな。

 そんな名前なのかもしれない。

「なっ君が泣いちゃうぜ。あたしのことも忘れていそうだよ……な。自己紹介しといてやろうか。あたしは兎月輪。愛やら正義の権化。お前にないものを補完する存在。お前が捨てたものを拾い上げる者。仕事はゴミ拾いだったりする。そして美人だ。質問どうぞ」

 ない。

「そっけないお姉さんだこと。歓迎はしてないけどさ、すっごく会いたかったんだぜ。本当は鬼の首の三つか四つを並べてから会うつもりだったんだけど、予定は思うようにゃならんもんだってのがふるーくからのお決まりだからな」

 彼なのか彼女なのか、どちらとも区別できない声だった。私の背後にぴたりとついているそれは生臭く、胃の中をかき回されたような気分にさせてくれる。振り向くと、頭頂らしき場所からはえた触角のようなひと束の毛が私の鼻先をくすぐった。奇妙な毛に注意しながら一歩下がる。

「ようやく顔を拝めた。やっぱり可愛らしいね」

 頭は潰れ、十本以上の足を生やし、お腹や耳から眼球を垂らした異形がそこにあった。人ではないのかもしれないが、それを他の生き物に例えることはできない。美的感覚が一般でない人間でも、普通とかけ離れた姿のそれを美人とはしないだろう。

 少なくとも私の目には美人に見えない。それどころか、人語を自由に扱う化け物の姿は、私のようで気持ち悪いとさえ思える。

「おお、ごめんな。とまちゃんが初めて踏み込むこの空間、精神の衛生上よろしくないものなんだよ。あたしは不安定な体、君は不愉快な気持ちになってしまうんだね」

 違う。実際がどうという話ではない。人から離れた姿であっても、異臭を放っていても、憎たらしい言葉を使ったとしても、私はそれがそれ以外のものであれば不快に思わないだろう。知らない場所や誰かもわからないそれ、お腹に傷らしい傷がない自分の体などと不安要素は少なくないけれど、どれ一つも不快な気には繋がっていない。目の前のそれがそれである、この要素一つだけが私を害しているのだ。生理的に受け付けないというのは、こういう自己嫌悪と似た晴らせそうにない気持ちのことなのだろう。

「未知に触れた不安は不快と思う気持ちに等しいよ。胸の下の方に積もった霞ってのは苛立ちの原因さ」

 目の前の化け物が消えてさえくれれば、すっとして終わりだ。

 未知も既知も関係がない。

「あ、そう。でもいろんなことを教えるのが仕事だから、君の気持ちは汲まずに言うべきあれこれを伝えるよ。消えてあげないし君を消してもあげない。あたしがどっかで死ぬまでは」

 化け物のすべての眼球が私の顔を覗きこむ。

「うむ、黙って聞いていなさい。ここは深淵だ。なにもかもが現実ではなく、なにもかもが現実となる可能性を秘めている場所。人があるべき姿を映す地。世界の終わりを秘める鏡。終着。場違いなお姉ちゃんは立ち入ることすら問題だよ」

 瞳は真っ赤に充血し、小刻みに振動している。今にも破裂しそうなそれは、薬に沈んだ標本のような憂いを帯びていた。どこか愛しく、懐かしくも感じる。舌で汚れを綺麗に舐め取り、奥歯でじっくりと噛み砕きたいと思った。

 そういえばなにも食べていないという話をしたばかりだった。化け物の目玉が美味しいかはともかく、目の前のもので少しお腹を満たしたい気分である。目玉を化け物から引き抜いたら痛がるのだろうか。泣いてしまうだろうか。眼球はたくさん生えているから、一つくらいならばいただいてもわからないのではないだろうか。一玉、一口、味見だけ。

「え、どうしたの? 愚かなの? 君はそんな人じゃないでしょ」

 怒られた。

「怒るさ。あたしが目指す人物像と異なるからな。でも、鼬目さんのような砂糖よりも甘ったるい女の子はさ、あたしたちよりもよほどおかしいからこうは言わないんだろうね。甘さがこむと喉につかえるってのよ。ああいう誰かに従属する身は、他人事ながら窮屈に感じるってのな。笑顔を隠して人をばらばらにしてそうな女、なんて名前だったかな」

 知っている名前だった。確かに彼女は砂糖よりも甘い女の子である。しかし人をばらばらにしていそうだというのもわからない話ではなかった。

 不器用で、粗暴で 正直で、いつも損をしている女の子。

 彼女の名は亜名あめ。

「私の友だちのこと、あんまり悪く言わないでね」

「ありゃ、とまちゃんって話せるんだ」

 発言しなくても会話が成立しているようだから黙っていただけであって、話せないというわけではない。

 私は口角を少し上げ、

「不思議ではないでしょ」

「あははって笑ってしまうぜ。それを言うにはさ、そもそも君がおかしいんだってことを無視してはおけないんだよ。棚にあげておけるほど上品じゃないし、下を向き続けられるほど自虐的でもないんだから黙ってろっての。がきんちょが調子にのるなって。髪を切れい! 鬱陶しい! 腹がたつんじゃ!」

 頬を平手で叩かれた。

 頬がじんと痺れたけれど痛みはない。

「おお! あ……え、あー、倒錯中だ。安定しない。お前の足のとこのそれで軽く叩いてくれないかな」

 周囲になにかがあれば話している最中に気がつきそうなものである。そう思いながら顔を下に向けると、金に塗られた異様に目立つ棒が地面にさされていた。

 はじめから存在したわけではないと信じたい。さされた棒は私の膝上くらいの長さがあり、さらには趣味の悪い色に塗られているのだ。あれば嫌でも目につくだろう。視界に入らない位置とはいえ、そこまで耄碌しているつもりはない。

「耄碌ってなんだよ。君は若者だろ」

「あ、いえ、自然と出てきた言葉です。気にしないでください」

 地面と共存している棒をゆっくりと引き抜く。

 あらわになった全体には無数の小さな刃が埋め込まれていた。規則性なく、持ち手のような部分以外のすべてに。

 視覚的に攻撃性が非常に高く、生き物を叩くにしては相手に対する配慮がやや足りないように感じた。しかし中途半端な攻撃手段としては上等なのかもしれない。命を奪わない程度に加減ができて、脅せる程度に残酷な見た目で。

 握りやすい太さが手に馴む。目的のわからない道具だけれど、怪我をしそうなることを除けば護身用に携帯しても悪くはないかもしれない。

「かるーくだぜ」

 ――はあ。

 力の抜けた、誰に返しているかもわからない声を出し、棒を振り上げる。目の前の生き物は、これから叩かれるというのに満面の笑顔だった。凶器による狂気など笑えもしない。

「いきます」

 加減がどれほど必要かわからないので、虫すら殺せないような力で振り下ろす。加減なくとも、私のような人間の力では怪我すら負わせられるか怪しいものだったが、とりあえずは大事とならないように精一杯力を抜いた。

 はずだったのだが、

「え……り、輪さん?」

 手に伝わった大きな衝撃、抉れる地面、粉微塵となった暴力の依頼主がそこにあった。魔法によるものではない。棒に魔力が込められているというわけでもなさそうだ。

「とまちゃんよ、あたしが憎悪の対象だからって、いくらなんでも力を込めすぎだぜ。あたしが半分だけ不死身だからよかったけどさ……。その棒は一振りで百の人間を屠る力があるとされる伝説の鎚のできそこないだ。そりゃ過剰なくらい控えめに扱わなけりゃこういう結果になる。むこうに落ちているあれ、拾ってみなさい」

 むこうと言われたが、声の主の姿は残骸だけなので、どの方向を指し示されているのか検討もつかなかった。どうせろくな道具ではないだろうから、拾わずにいても構わない気がした。粉微塵の化け物にこれ以上現実的でない姿になられても困惑するだけだ。

「粉微塵の先は見たくないよなー。鎚の力を拝めただけでも満足だよなー」

 満足以前に期待すらしていないけれど。

 棒一本を鎚と主張するのは無理があるのではないだろうか。究極まで見た目を簡単にしても、鎚というものは決して頭なしでは完結しないだろう。できそこないと言ったが、そもそも再現する気があったのかすら怪しい。

 それに私が加減した程度で土地が抉れてしまうものを、屈強な男が全力で振った場合、その被害は百人という少数で済むのだろうか。

 人どころか国がひっくり返りそうだ。

「柄だけで土地がへこむんだから、鎚としての役目は満足に遂げられるだろ」

「……これの力、強すぎると思います」

「できそこないなんだって。無邪気な子どもがつくったそれは、伝説のものをくすませるだけの力を発揮できる。もはや別物、用途も値打ちもなにもない。右を向けよ。ほら、すぐに。怒るぞ」

「はい!」

 条件反射で向いた。

「従順だね」

 右には人の姿があった。二十歳くらいだろうか。柔らかそうな金の髪を左右で二つに結び、右手に赤く光る短刀、すらっとした足は露出されているけれど性的ではなかった。私よりも背が高そうな彼女は、とても端整な顔立ちである。

 男か女か区別できない声――彼女は輪という名の化け物。

 自身を美人というのも納得できた。彼女ほどの美貌ならば周囲に誇っても恥はかかない。

「あたしは嘘の敵だったりするんだぜ。つっても聖人にはなりきれないからな、とまちゃんのような怜悧狡猾な女、虫けらの次くらいには愛してるぜ」

 狡猾。

「自身を含めたすべてに嘘をつける人間を狡猾と言わずになんと言う。嘘つきは仲間をつくれないぜ。だからってわけじゃないけどさ、すがれるものを見つけなさいな。いつか誰かを信じなければ進めなくなるときがくるからね。今は……そうだな、あたしが背中を押してやるよ。今はこんくらいしかしてやれないけど」

 輪ちゃんは前髪を何本か引き抜き、それを器用な手つきで鍔元に結びつけた。蝶結びのそれは、風が吹いているわけでもなく揺れている。

 目の前のなにかに対して嫌悪感がないというわけではない。しかしそれを霞ませるだけの魅力があった。抜けた髪の毛すら目を引く。

「誉め言葉をありがとう。女として最高だぜ」

 輪ちゃん――彼女は短刀を投げる。

 私の額はそれを受け入れる。

「できそこないなんだ。刀身一つで万物の再現を可能とする王家に伝わる宝剣――そのはずなんだが、そいつは他のものを真似できるほど器用な刀ではない。できるのはせいぜい万物の生成だけだ。残念だな」

「万物なんてすごいじゃないですか」

「……すごいって思えるならそれも悪くはない。でも、大きすぎる力ってのはどこの誰が求めるんだろうな。誰も欲していない力ってのは、どこで暴れてしまうんだろうな」

 刀はゆっくりと身を延ばし、私の頭の中心まで入り込む。

 じわりじわりと侵食されているのがわかった。

 頭蓋の中で徐々に枝分かれし、

「醜いよな」

 困ってしまうというものだ。

 万物の生成が可能らしいそれが頭の中で枝分かれしたのだ。この後がどうなるかなど容易に想像できる。

 きっと見るに耐えない姿にされてしまうのだ。

 不思議なことに惨めな姿をできるだけ隠していたいと思った。目の前の彼女にだけには見せるべきでないと思うのだ。

「こっちを見ないでください」

「おうよ」

「あの、あなたがなにを言いたいのかとか、なにをしたいのかとか、ぜんぜんわかってないです。ごめんなさい」

「そうかい。そりゃ意地悪だな。……起きたらまずは目の前にいるだろう鼬目さんに抱きつくといい。きっと大丈夫だよ。今は草創期、失敗と迷惑が付き物さ。ほら、七難八苦のおでましだぜ」

 私の頭を内から貫くものがあった。

 幾千の刀が、勢いよく吐き出される。

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ワタシたちは世界の中心に散る 戦風微 @soyokaze00

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