第5話

 急ぎ足だった。階段を駆け上がった私は、息を切らしながら笑ってみせる。驚いたような表情の彦君に後ろ暗さを感じないわけではなかったけれど、その気持ちを塗りつぶそうと普段以上の笑い顔を披露する。

「えへへ。きゅ、急に走りたくなっちゃったよ!」

 我ながら頭のおかしい女だと思った。

 鏡はないけれど、不気味な表情をしているとよくわかった。

「……面白い場所じゃなくてごめんね。あの、その、遊べるものがあるわけじゃなくてね、のんびりできるとか、癒されるとかのあれで。……あ、ほら、彦君の近くにある砂時計が過去に戻ってしまうものだよ」

 彼は小窓に寄りかかり、小さく欠伸を漏らした。

 家はなくなり、来たことのない場所に連れられ、横には面倒な女。欠伸ではなくため息をつきたい気持ちだろう。過去に仲が良かったというつまらない理由で付き合わせてしまっているのだから、わがままが過ぎる話である。殴られても文句は言えないし、窓から突き落とされても我慢する他なかった。

 今すぐに腕でも折って詫びるべきか、それとも自ら地面に向けて飛び込むべきか、または鼻を落として彼に差し出すか。いいや、それでは土地が汚れてしまうし、彼に不快な思いをさせることになる。せっかく時間をつぶして好きでもない人に付き合ったというのに、いきなり血なまぐさい光景を見せられては唖然としてしまう。

 そんな私の気はよそに、

「悪くないんじゃないか。暖かくて、落ち着けて、お前がいて。人の世で一番愉快なのは平穏さ」

「うん」

 帰れ、消えてしまえとはっきりと言ってくれさえすれば、いつでも姿を消すつもりであるが、彼の優しさは私のことを包み込んでしまうようで、私の甘えた心を殺してはくれないようだった。

 今思えばお茶のお誘いは私を遠ざけるためのものだったのかもしれない。行く道で出会った女が気軽に着いてくるものだから、引こうにも引けず、ズルズルと興味のない場所まで同行してしまったのだろう。そうに違いない。でなければ私と一緒にいられるわけがない。

「えー、あー、私、帰るね。よ、用事を思い出してしまったよ! 砂時計に触れさえしなければ、この塔は好きに使って大丈夫だと思うから、それじゃあ!」

「忙しいなあ。ろくでもない用なんかほっといて、茶と談笑と昼寝だけの落ち着いた生活で、ささくれだらけの心にゆとりをもったほうがいいんじゃないかな。どっかの王の相手なんか雑草にさせておけよ。今日というお前が動く日まで、みーんな暇してたんだから、働かせた方がいいと思う」

「王様?」

 なんでもないと、彼は欠伸を殺しながら答える。

 なんでもないはずがなかった。お城から出る私を見ていたとしても、出入りの理由を王様と話すためだとは思わないだろうし、まして私が仕事を任されたと思うはずもない。私は弱くて脆く、誰からも頼られることがなく、それこそ雑草のように見向きもされない人間なのだから。

 知っているということは、天井裏や床下に潜んでいたか、兵の一人として紛れていたか、それとも透過の魔法に頼っていたか、方法まではわからないけれど、その場に忍んでいたということになる。私にはとても難しいことだけれど、彦君にならば難がなさそうだった。

 彦君はくたびれた顔つきで目を擦る。昼寝時であるからか、私もつられて欠伸を漏らす。こぼれる涙を指で拭うと、雪解け水のようにヒンヤリとした。

 瞳の中に僅かに残った涙が頬を伝う。どこかベタついるようで、少しばかり不快に感じた。

「どうして知っているのか……どうしてお城にいたのか教えてほしいな」

「人形は投げられた所に向かうだけさ。理由はない。お前が王のために働くってのは、理由があるのかよ」

「えーっと、その、私自身も雑草の一つかなって。私なんかを中心にしてまわるほど、世の中面白味がないわけではないし、世の中は私がいなかったところで変わることなんてないし……だからその、きっと私は誰かが見つかるまでの道具で、誰かにつなげるための過程でしかないけど、それでも精一杯の働きをしないとだめだと思って」

「真っ赤な答えだ。随分と求められたいんだな」

「自信がないから。だから彦君が言う雑草さんたちの力になれたら嬉しいし、王様に求められていることも悪い気はしないよ。気は乗らないけど、乗らないだけだけ」

「大忙しな現状が満足なわけか」

 うんと答えると、彼はやるせなさそうな表情で小窓から外を眺めた。

 彼の真横に立ち、同じように外に目を向ける。外はいやに暗く、目の前に広がる緑色の絨毯が奥の方までかげって見えた。日が沈むにはまだ早い時間だし、曇り空というわけでもない。髪の毛が邪魔をしているわけでもなく、塔の影も関係がなさそうである。どうやら空に浮かぶ太陽そのものが暗いようで、遮る物なく直視してもまぶしくなかった。

 いつかに読んだ本に、似たような場面について記されていた覚えがある――空に浮かぶ一切の力が弱まり、星は夢の中に沈む。姿なき彼らは土の底へと飲まれゆく。

 どこで読んだのか、文の意味も彼らが誰なのかもわからないけれど。

「大忙しなお前は昨日食べたものを覚えてるかな」

「え? うーん……昨日は食べてないよ」

「じゃあ、最後の食事がいつかわかるか? 思い出せる範囲でいいから」

「最後は……えっと、最後はお粥だったかな。ちょっと待ってね」

 私は口の前を手で覆い、ここ最近のことを思い出す。昨日はなにも口にしていなく、一昨日も同様で、その前の日も同じく食事の覚えはない。順々に記憶を探っていくと、一週間前よりも以前の記憶に穴が開いていた。五年ほど前からつい最近の一週間までの間の記憶が抜け落ちている。食べたものどころか、過ごした情報の断片すらなく、欠けているというよりも切り取られていると言った方が適切かもしれない。

「うん。ずっと昔にお粥を食べたのが最後かな。兵士が私のところに持ってきて……その人もお腹が空いていたから半分ずつにして……なんで兵士の人がご飯を持ってくるんだろう。ええっと」

 五年前だ。五年前に私は牢獄で一人きりだった。

 鬱陶しい手枷、寝心地の悪い布団、日に一度か二度の質素な食事、床には魔法封じの陣、お腹を貫く銀の刃、生臭い壁。

 目眩がする。確かであるかもわからないあれこれが、空っぽの頭のあちこちを行き来している。随分とむごい仕打ちを受けているようだから、誰もが怯える極悪人だったのかもしれなかった。

 常々生きているだけの価値を見出だせないでいたけれど、まさか人としてあるべき普通の姿すらを奪われるほどに無価値であるとは思わなかった。これでは道端の石ころの方が役に立つと言われているのと変わらない。

「どうしてだろう。最後に食べたのはお粥だと思うんだけど、何年も前のことのような気がするんだよね。それは牢屋の中で……最近の記憶がないから、実は二週間くらい前になにか食べてるかもしれないけど」

 彼は「あー」と気の抜けたような声を出し、私の頭を遠慮なしに撫でた。整えていなかった髪はより乱れ、右目はすっかり披露された。

「あ、ごめんなさい……痛いことはしないでください」

「なんでさ」

「痛いのは得意じゃなくて……って、わあ!」

 彼はあきれたようにため息をつきながら、私を勢いよく引き寄せ、抱きしめた。部屋に響いた間抜けな声はみっともなく、恥ずかしいものだった。嫌ではないので抵抗せずに直立でいると、どうしてか腹部が濡れているように感じた。

「好きだ、愛してる。なんて陳腐な言葉を望んではいないだろうな。だから僕は――だからこそ僕は、お前という生き物をとめなくちゃいけないんだ。ごめん」

 両手で濡れた場所を撫でると、どこか熱っぽかった。いいや、冷たいと言うべきなのかもしれない。熱っぽく感じたのはお腹の奥、胃やらがある辺りであって、手で触れた表面の部分はとても冷たかった。

 わけがわからずに固まっていると、熱の奥に隠れていたらしい痛みが、じわりじわりと表に出た。私は汚れた両手で彼の背中に手をまわす。過去や今後についてを考える気などなく、今は彼の胸で苦痛によって歪んだ顔を隠していたかった。

 このまま眠ってしまいたい。そう思うと全身の力が抜けた。

 せめて、

「おやすみなさい。ごめんなさい」

「忙しいよな。苦労するよな」

 都合が良い。帰ろうと思っていた所だ。このまま寝れば彼はあきれて帰宅するだろう。

 彼の言葉は続いていたが、私は聞き取らない。

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