第4話 ひと塊って嘘でしょ

 翌朝、火曜日になって、夕子の体温はようやく三十八度八~九分辺りをうろつき始めた。布団から起き上がると、ふわっとよろけてしまい、少し貧血気味であることがわかった。さすがに何かしら口にしないと、もう体力が持たない。


 お茶漬けでも食べてみようか。それなら食べられそうな気がする。夕子はそう思えた自身の身体に進歩を感じながら冷蔵庫に向かう。昨晩、夫が残りご飯を冷凍しておいてくれたはず。


「はっ?」


 冷凍庫の扉を開けてびっくり。

 なんだこの伸し餅のように真っ白な四角い物体は。


 目に飛び込んできたのは、二十五センチ四方で、厚みは三センチ位の、ドカーンとひと塊のご飯。


 嘘でしょ。ひと塊って。


 これが夫なのか。

 親の顔が見てみたい。いやもう何百回もお会いして、よく存じ上げている。


 夕子は冷凍庫を閉めた後も、脳裏に残るドカーンな白い残像を見ていた。

 ああ、そういえば。昨晩夫に残りご飯をどうすればいいか聞かれたとき、小分けしてと言ってなかったのではないか。だとしたら、完全なる自分の指導不足だ。これで夫を責めてしまっては、お門違いだパワハラだと逆に責められることだろう。

 いやいや、着地するべきところはそこではない。そんな言った言わないはどうだっていいのだ。問題は、これではお茶漬けは作れないということだ。

 夕子は絶望のまま、また布団に潜り込んだ。

 

 そもそも。

 そもそも何で予防接種を受けなかったのだろう。間違いなく「受けなきゃね」と家族で話していたのに。


 前回の冬は息子が大学受験を控えていて、絶対に感染してはいけない状況にあった。考えてみれば今回はその絶対という出来事がなかったのだ。夏を過ぎたあたりから、親兄弟も平穏無事で、大病も揉め事もお祝い事さえも一切なかった。息子の学校行事でパートの仕事を休む必要もなかった。とてものんびりと、ぼーっと毎日を過ごしていたのだ。

「なんだ。タイミングじゃなかった。ぼーっとしてたんだ、私」


 そんなことをうつらうつらと考えているうちに夫が帰宅した。この二日間、少し早めに帰宅してくれている。


「夕飯だよ」

「ごめん、ちょっと食べられそうにない」

「そっか、汁物がいいと思って、天ぷら蕎麦を買ってきたんだけど」

「ありがとう。ごめんね」

 それなら少し食べられたかもしれない。けれど、夕子にはもう起き上がるだけの気力がなかった。


 *


 人間のメカニズムというものは、本当によく出来ている。たった、体温が一度下がっただけで、太陽の暖かさを感じ、お腹がぐうと鳴る。

 限界というものは、そう簡単にやってくるものではないのだ。その前にちゃんと生きるために思考と身体が連動し始める。


 夕子が熱を出して三日目の朝を迎えた。

 夫はすっかり元気になり、いつも通り出勤した。息子は、インフルに罹ったことさえなかったかのように、大学とアルバイトで駈けずり回っている。

 そして、夕子は台所に立っていた。ご飯を食べよう。そう思ったのだ。


 お米を研いでは貧血でその場に座り込み、なんとか立ち直って炊飯器にセットし終わるやいなや、寝室に戻って布団に倒れ込んだ。しかし、夕子は諦めなかった。

 生きようとしていた。


 何故か梅原さんの歌うような声が聞こえた。「折ちゃん、大げさよ~」リアルすぎる空耳に鳥肌が立つ夕子。


 ようやく回復して、再び台所にやってきた夕子は、今度はお味噌汁を作り始めた。具はキッチンバサミでぶつ切りにした長ネギだけ。それが出来上がるころ、ご飯が炊き上がった。

 

 窓ガラス越しの暖かな冬晴れの日差しがたっぷり入り込む食卓で、それを顔面いっぱいに浴びながら、長ネギのお味噌汁を一口すする。

「んー。旨っ」


 鰹出汁と合わせ味噌の優しいコクと香りが、夕子の身体全体を包み込んでいく。 温かい。

 そして、小さく握った塩むすびを、はふっと頬張る。

 つやつやでほんのり甘みのある小さな粒。

「うー、美味しい」


 この美味しさを、今晩三人で味わいたい。


 *


『夕食は作れます。色々ありがとう』ーー夕子。


 すぐに黄色いランプが点滅する。


『わかった。無理しないで』ーー夫。


『良かった』ーー息子。


 夕子の頬がほころんだ。


 *


 拝啓 梅原様

 一家全員、寸前のところで無事帰還しました。

                  かしこ。

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コメディエンヌ 柴村きりん @fmarino11

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