第3話 超絶グロッキー夕子


「今時はね、色々な味の鍋つゆの素が売ってるから、それを土鍋に入れて、野菜とか、お肉なんかを入れれば、誰でも簡単に鍋ものが出来ちゃうのよ」


 日曜の夕食は家族三人揃って水炊き鍋を囲むことが出来た。

 そこで夕子は何気なく二人に言ったのである。鍋って簡単に作れるよと。

 なるほどねーと、いささか気楽な返事を予想していた夕子だったが、それは見事に裏切られることになった。


「大丈夫、俺にはコンビニがあるから」

 何の躊躇もなく即答した夫に続いて息子が言う。

「俺にもコンビニがある」


 夕子は絶句した。


 その夜、夕子はいつものように就寝前の紅茶を選んでいた。少し甘めの物が飲みたいと思い、アップルティーを淹れた。しかし、ちっとも美味しく感じなかったのである。それだけで、気持ちがふざぐのだった。


 夕子は、思い立ってお米を三合研ぎ始めた。ご飯さえあればなんとかなる。

 明日朝六時に炊き上がるようにタイマーをセットし、ポカリスエットと体温計を用意して、リビングのソファに横になった。

 

 悪寒がする。

 頭がぼーっとしている。

 とうとう来たか。あいつが。ウィルスが。残る最後の夕子の元に。


 *


 ぐっすり寝たい。ただただ、ぐっすりと。ソファに沈み込むように体を横にした夕子だったが、気持ちとは裏腹に、身体中が痛くて、何度も寝返りをうってしまう。

 頭が痛くてうずくまる。その痛みはだんだんと強くなり、呻き声を上げたくなるほどだ。


 喉の奥が熱くて息苦しい。やっとの思いでポカリスエットをむさぼり飲む。一息に半分くらい飲んだところで、ようやく息継ぎをする。

「ぶわぁーー」

 息をするのも、必死である。


 恐る恐る、体温を測ってみると、三十九度五分。夕子は恐ろしくなった。このまま熱はどこまで上がるのだろう。


 それでもまだ余裕があるのか、毎年のようにニュースで伝えられている、インフルエンザで亡くなったお年寄りのことを思った。

 こんな辛さ、ご老体では耐えられないのかもしれない。苦しかっただろう。最後に何を思ったのだろう。

 私は最後に何を思うのだろうか。夕子は縁起でもない思考に囚われていった。


 二階の寝室で寝ている夫は、まだ微熱があるはず。起こすわけにもいかない。

 夕子は一人暗闇の中でもがき苦しんでいた。


 *


「早めに病院行けよ」

「夕食は適当に買ってきちゃうから」

 翌朝の月曜日。夫は超絶グロッキーな夕子にオロオロしながら、いそいそと出勤した。

 本当の所、夫だって休まなければならないはずなのに、今日は一日営業車で一人だからと、出勤してしまった。息子も一限からテストがあると、すっ飛んで出掛けた。


 逃げられた。

 夕子は布団の中で「いってらっしゃい」と言いながら、そう感じなくもなかった。


 夕子は体内で浮遊するウィルスに弄ばれながら、職場に欠勤の電話を入れた。

「わぉ、今さっき大槻さんからも欠勤の連絡が入ったんですよ。では、規定により五日間のお休みを取ってくださいね。お大事に」

 幼稚園児と小三の娘の母、大槻さんもか。やはりインフルは只者ではない。


 正社員さんとの優しく機械的なやり取りを終えた夕子は、布団に倒れ込みたいのを必死に我慢して、死に物狂いで病院に行った。インフルかどうかの結果なんてどうでもいい。とにかく薬が欲しかった。

 薬。薬。薬をー!


 *


 気が付くと、夫と息子が帰宅していた。

 病院からどうやって帰って来たのか、いつの間にパジャマに着替えたのか、記憶が定かでない。気でも失っていたのか。カーテン越しの外はもう真っ暗だ。


「夕食の支度出来たよ。食べられるか?」

 たぶん食べられない。

 でも、夫の優しさに申し訳ない気持ちになり、無理やり体を起こして食卓に行くと、夕子の席の前に、コンビニの親子丼が置いてあった。男二人の前には鶏の唐揚げ弁当。甘ったるい濃い匂いに絶望する。


「今チンしたばかりだから、温かいうちに食べなよ」

「ありがとう。でも、全部は食べられないから」

 そう言って、夕子は小皿に大匙一杯分だけ取り分け、それを無理やり口に入れた。飲み込めない。でも頑張って飲み込んだ。限界だ。


 匂いも、味も、へったくれもない。親子丼なんて今この三十九度五分の状態であり得ないだろ。あなたのコンビニには、スープとか、おかゆとか、ゼリーとか、そういうものは売っていないのですか!


 でも、今は何を差し出されても、きっと食べられない。だから夕子は、喉元まで出かかったその言葉をのみ込んだ。

「ごめん。食べられない。寝るね」

 夕子は、ポカリスウェットに命を預ける覚悟をした。


 それからしばらくして、

「あのー、寝てる所悪いんだけど」

 夫が炊飯器に残ったご飯をどうすればいいか聞いてきた。


 今朝六時に炊き上がるようにセットしたご飯が、大量に残ってしまっているらしい。しかも、明日の朝食用にパンも買ってあるという。


「ラップに包んで、冷凍しておいてくれると、助かるんだけど」

「わかった」

 気が付いてくれただけでもありがたい。明日の朝食も心配しなくていいのだ。

 夕子は少しだけ解放された気がした。

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