第2話 優しく呪いをかける 

「あー、喉がガラガラー。麦茶一杯くれる」

 仕事が休みの日の朝は決まって遅起きの夫が、珍しく午前八時前に起きてきた。 冷蔵庫で冷やしてある麦茶をコップに注ぎ、夕子は夫に手渡した。それを一気に飲み干す夫の姿は、昨朝の息子の寝起きと重なる。


「夕べ、そんなに酒飲んだつもりないけど頭がガンガンする。で、あいつ熱は?」

 ガラガラなひどい声で、こめかみの辺りを指でぐりぐり回しながら、夫が言う。

 たぶん、二日酔いではないだろう。


「明け方に様子見たら、三十八度八分だった。解熱剤飲んで今はぐっすり眠ってる。それより、ねえ、熱計ってみたら?」

「はぁ? 俺? うーん」


 渋る夫に体温計を渡す夕子。

 沈黙の時が流れる。

 ピピ、ピピ、ピピと計測完了の弾む電子音。

 夫は襟元に手を突っ込んで、脇から体温計を取り出した。

「ありゃ……」

「何度?」

「三十七度……」

「三十七度?」

「七分……」

「えっ! 三十七度七分?」

「ほら」

 夫に差し出された体温計を、夕子は再確認した。間違いない。とうとう夫も。



 拝啓 梅原様。

 ついに一家全滅のカウントダウンが始まりました。

                       かしこ。



「すぐ病院に行かないと!」

「えー、寝てれば大丈夫だよ。っていうか、俺、インフルのあの鼻に突っ込む検査好きじゃないんだよねー」

「好きな人はいません!」


 *


 土曜の午後、折口家はしんと静まり返っていた。

 熱がピークを迎えてる息子と、病院でインフルエンザと検査結果を突き付けられ、それだけでへなへなになってしまった夫。

 二人とも各々の寝室で、大人しく布団をかぶっているところだ。


 それだから掃除機をかける音もはばかられた夕子は、フローリングワイパーと、ハンディワイパーで、サラサラと掃除をするも、舞い狂うホコリのいたずらで、くしゃみが出てしまい、それが家中に轟いた。しかも三回連続で。

 掃除を終えると(綺麗になったかどうかは疑問)夕子はリビングで何気なくテレビの電源を入れた。いきなり大音量でコマーシャルが流れ、慌てて電源を切った。


 窓ガラス越しの暖かな冬晴れの日差しを顔面に受ける夕子。この後は何をしよう。何をしたらいいだろうかと考えた。


 夫も息子も食欲がないと言っている。だから、通常の食事の支度はやらなくていい、はず。でも、何かしら作った方がいい、のかもしれない。そうは言っても、二人とも食欲がない……。

 

 普段なら食事を作らなくていいとわかれば、ラッキーと簡単に受け入れてしまうのだが。どうにも落ち着かない。それなら、やはり何か作ろうか。無駄になるかもしれないけれど。


 夕子は、いつもより時間をかけて、キャベツのお味噌汁を作って、出来立てを一人で飲んだ。一人で飲んでも、お味噌汁は美味しい。


 夕方になると、折口家がにわかに騒がしくなった。

 息子は三十七度と驚異の回復力を見せつけ、ピークはすでに去っていた。


 騒がしくなったのは夫である。


「悪いけどタオル持ってきてー」

「冷えピタ、新しいやつ持ってきてー」

「何か甘いのが飲みたい。リンゴジュースみたいのある?」

「体温計が鳴らない……」

「加湿器、ちゃんと動いてる?」

「あー、三十八度超えたー。解熱剤持ってきてー」

「食欲ないけど、ぬるめの茶碗蒸しなら食べられるかもー」 


 一体全体、どの口が言っているのか、親の顔が見てみたいものだ。

 夕子は、大好きな夫と結婚して浮かれていた新婚当初の自分に「目を覚ませ」と一発をお見舞いしたい気分だった。


 具無し茶碗蒸しだったら出来るけど、と夕子が試しに聞いてみると、

「具はいらない」

 実に弱弱しい言い方に、吹き出しそうになる。


 具無しなら、それほど手間はかからない。

 卵を溶きほぐし、茶こしを使って二度て、滑らかな卵液を作る。そこへ煮切った和風出汁をゆっくり投入する。

 冷たい卵液の方に熱い出汁を加えれば、卵が固まることはない。


 この裏技をテレビの料理番組で偶然見た時、衝撃的すぎて夕子は悲鳴を上げた。 今までに目にしてきたほとんどの料理本には、『人肌に冷ました出汁の中に、卵液を投入する』と裏技とは真逆のことが書かれていたからだ。

 手順は簡単だけれど、『人肌に冷ます』が意外と手間なのが茶碗蒸しだ。


 逆転の発想。

 思考の柔軟性が世の中を変えるのだ。そして、思い込みを排除する勇気と決断が、これからの時代には必要になるのではないか。

 夕子は茶碗蒸しによって、人生を生きていくうえで大切なアイテム(武器)を一つ手に入れた。


 従って、レンジでチンする時間を含めても十五分足らずで出来上がってしまう茶碗蒸しを(ちょっとぬるくなってから)夫に差し出した。

 ナイチンゲールさながらの手厚い看護である。


 それなのに。一口食べた夫は、スプーンを置いた。引退する歌手が最後の歌を歌い終えてマイクを置くように。

「ごめん、せっかく作ってくれたのに、口がまずくて、苦く感じる」


 いいのよ。気にしなくていいの。あなたは悪くない! 

 悪いのは、悪いのは、そう、ウィルスなのだから!

 あなた、がんばって!


 そんな小芝居を打とうと思ったが、夕子は止めた。

 

「ゆっくり寝たほうがいいよ」

 夕子は優しく呪いをかけた。


 *


 午後十時、夕子は就寝前にアールグレイを淹れた。

 ベルガモットの芳醇な香りが、疲れた神経をほぐしてくれる。


 明日になれば、息子は食欲も出てくるはず。胃腸のことを考えて、鍋がいいだろうか。

 いい大人の方は、いい大人なのだから放っておこう。


 夕子は、ベルガモット(本当はベルガモットのことはよく知らない)の香りをゆっくりと楽しんだ。


 と、そこへ「なんか、すげー腹減った」と息子が起きてきた。


 夕子は、キャベツのお味噌汁を温めなおし、そこへご飯を入れ、ふつふつしてきたところで溶き卵を回し入れて雑炊を作った。

「うめー。胃に沁みるー」

 息子は熱が下がったスッキリした顔つきで、はふはふと雑炊を食べている。

 夕子はアールグレイもう一杯淹れて、そんな息子を見ていた。

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