コメディエンヌ

柴村きりん

第1話 空っ風が身に沁みる

「折ちゃんのケータイ、ピカピカ光ってるわよー」


 その言葉と一緒に、パソコン疲れで目を閉じていた折口夕子おりぐちゆうこは肩をつんつんされた。

 閉じていた目を重々しく開けると、隣席の梅原さんが、にこやかに「ほら見て」と、夕子の携帯電話の方にクイっと顎を向けた。


「すみません。ありがとうございます」

 午前中からこんな疲れ目じゃあ午後がおもいやられる。


 重たい目を苦々しく感じながら、マイボトルを手にして、淹れてきたセイロンティーを一口含んだ。そして、夕子のデスクの片隅に置いた携帯電話を横目に見た。


 何だろう。珍しい。

 いつもなら家族のグループラインの黄色ランプばかりなのに。あまりの珍しさに、夕子はぼそっと独りごちた。

 紫のピカピカは、夕子の息子からのショートメールにあてがわれた色だったのだ。


 今朝も、いつもと変わらず元気百倍おめでたい息子だった。

 寝起きで麦茶をがぶ飲みしながら「今日は三限だけ」と、朝食のあと二度寝する魂胆が見え見えの息子。しかも、その朝食というのが、がっつりどんぶり飯をかき込んでいるのだから驚きである。到底、悩み事で思い詰めている風にも見えない。どうせ甘ったれのおねだりだろうと当たりを付けた夕子は、昼休憩に入ったら確認すればいいかと、携帯電話を手に取らなかった。

 それに、ここは職場である。

 いくら携帯電話の持ち込みが許されてるとはいえ、息子はもう大学生なわけだし、ランプが点滅したからといってすぐに手に取るのは気が引けたのだった。


「見なくていいの?」梅原さんが放置されたままの携帯電話を、今度は指で指しながら言ってきた。

「息子からみたいなんですけど、たぶん大したことじゃないので」

「珍しくメールしてきたんでしょう? 大事おおごとだったらどうするの? 見たら?」

 歌うように即してくれる梅原さん。さっきの独りごちたのが聞こえていたのか。夕子は梅原さんに「では、ちょっと確認だけ」と、軽く会釈をしてメールを確認した。


『だるいから、○○内科医院に行ってくる。保険証どこだっけ?』


一番ないと思ってた体調不良の文面を見て、あちゃと思いつつ、夕子は急いで返信をした。


『ーーリビングの電話の下の棚の引き出しの中。熱あるの?』


『ありがとう、わかった。熱は三十七度くらい』


『--了解。気を付けて。診察結果出たらまた連絡して下さい。お金は持ってるの?』


 少し待ったが、もう返信はない。たぶん、お金は持っているのだろう。夕子は尻切れトンボのメールの終わり方に、小さくそっと溜息をついた。


「息子さん、大丈夫そう?」

 そっとしたはずの溜息も、梅原さんは気付いたらしい。

「はい、ちょっとだるいから病院に行くっていう連絡でした」

「あら大変! 年が明けてからインフルが猛威を振るってるから、心配ね!」

「あーそうですよね。インフルって可能性、有り得ますよね」

「でも、予防接種は受けたんでしょ?」

「いえ、それが。この冬は受けるタイミング逃しちゃって」

「息子さんだけ?」

 まずい展開の予感に、夕子は恐る恐る言葉を発する。

「いえ、私も、えっと、主人も……」

「ひいー!」

 梅原さんが、夕子の顔をじっと見たまま、ジェットコースターばりに絶句したあと発狂した。


「ひいー。それじゃ折ちゃん家、一家全滅じゃないの!」


 デスクチェアに座ったままの梅原さんが、勢いよく後ろに遠ざかって行った。キャスターがゴロゴロと過剰なまでに爆音をあげて。


 パート職員の中で勤続年数が一番長い梅原さんは、だからといって先輩風を吹かせるわけでもなく、誰よりもチャーミングな女性だ。今も、『ムンクの叫び』さながらに、両頬に手を添えて目をぱちくりさせている。


「いやだ梅原さん、そんな大袈裟な」

「そんなって折ちゃん! 今年のインフルエンザは稀に見る感染力の強さなのよ。それなのに一家全員予防接種を受けてないなんて! ああ、なんてことなの。それって、一家を守るための主婦の大事な大事な役割でしょう」

「す、すみません」

 主婦の大事な大事な役割。夕子はぐうの音も出なかった。



 夕子が昼休憩に入ると間もなくして、息子からメールが入った。


『やっべー、インフルだったわー(笑)』


 (笑)どころではない。


『ーー家に帰ったら、すぐに寝なさいね。水分補給もちゃんとして』


 夕子はとりあえずそこまで打ち込んで返信した。


 そこへ、昼食時もやはり隣席の梅原さんがすかさず「息子さんから?」と聞いてきた。夕子は息子がインフルエンザだったと恐縮しながら告げた。


「折ちゃん、すぐに帰った方がいいわ!」

 梅原さんの少し大きめのその声に、周りの視線が夕子に集まった。その途端である。


「折口さん、今年のインフルの新薬、怖いですよ」(中二の息子の母、西田さん)

「大丈夫じゃないかな、息子は大学生だし……」


「いつも幼稚園組は夕子さんにお世話になりっぱなしなんですから、こんな時くらい、ねっ」(幼稚園児と小三の娘の母、大槻さん)

「そ、そんなお世話だなんて……」


「折口さん、この後の仕事は私たちでなんとかなりますから、早く!」(中三、高三のダブル受験生の母、久保川さん)

「ありがとう。でも、明日の土曜日のシフトは私お休みだから、土日は連休になるから、それで大丈夫……」


「折ちゃん、こんな時こそ“お互い様精神”よ!」きっぱりと言う梅原さん。


 なんて、なんて、推しが強い人たちなのだろう……。


 夕子はそんな推しに押されて早退し、真っ昼間の街中に放り出された。

 午後の四時間を働けば三千九百四十円。

 冬の空っ風が身に沁みる夕子だった。


 ーー何か食べたい物ある?

 帰り際、インフル息子にメールした。


『カレーうどん』


「カレーうどん!?」


 予想外のリクエストに、夕子が携帯電話に向かって大声で叫ぶと、前から歩いてくる女子高生がクスっと笑った。


 *


「やっぱシメはメシでしょ」

 そう言ったと思ったらゲラゲラ笑い始めた息子。どうやらシメとメシの語呂がツボに入ったらしい。


 夕子が早退したおかげで早めの夕食となった息子は、土鍋で作ったカレーうどんをぺろりと食べ終えた。と思ったら、器に残ったカレーつゆの中にご飯を投入しながらゲラゲラ笑い、あっという間にそれも食べ終えて、またゲラゲラ。

「はー、シメメシサイコー」

 とことん、最後まで満面の笑みの息子だった。


 この妙なハイテンションが、西田さんが言っていた新薬の怖さなのか。

 いや、そういうことではあるまい。

 息子は元から、ちょっとパープーなところがあるのだから。そうだ、だから息子からのメールはパープルに設定したのだった。今だって、テレビの“警察二十四時緊急スペシャル”を見て爆笑しているではないか。

 ただ、徐々に熱が上がってきているのか、顔は赤らみ、目がとろりとしている。


「すぐ、布団に入りなさい」

 主婦の大事な大事な役割を怠っておきながら、どの口が言ってるんだか。

 ムンクがちらつく。いや梅原さんはムンクではない。

 夕子は自分でボケてはツッコんだ。


 *


 午後八時過ぎ、お腹を空かせた夫が帰宅した。夕子は新たに作った土鍋カレーうどんと、付け合せに、胡瓜と大根と塩昆布の和え物、鶏肉と牛蒡の炒め煮を食卓に出した。


「俺、明日の土曜日休みになったから。おっ、旨そう。珍しいなカレーうどんなんて」

 夫はグラスに注いだビールを一気に飲み干し、「だから今夜はゆっくり飲めるよ~」とオヤジ節をつけて二杯目のビールをグラスに注いだ。


 テレビでは、まだ“警察二十四時緊急スペシャル”が放映されていた。犯人を追う警察官が叫びながらドタドタと走る靴音。その緊迫感を煽るように、ありがちな効果音が流れている。もうすぐ犯人を捕まえる決定的瞬間をカメラが捉えるのだろう。そこで夫が突如爆笑した。息子と同じ笑い方で。テレビより面白い。


 夫のその妙なハイテンションに引きつつ、夕子は息子がインフルエンザに罹ったと報告した。


「インフル? 全く軟弱だな。

 日頃の行いが悪いんだよ。

 えっ? カレーうどんはあいつのリクエスト? 

 夕子はいつまでたっても甘々だな。

 俺なんて、親にそんなことしてもらったことないぞ。

 だいたい、たかがインフルくらいで……」


 あっという間に三杯目のビールも飲み干し、すでに酔が回り始めている夫は、その後も、あーでもないこーでもないと、インフルエンザについての持論を語り続けた。

 夫は酔うと饒舌になる。


 夕子はいつものように、そう、そう、そうだよねーと当たり障りのない相槌を打ち、やり過ごした。のだが、今日に限っては内心びくびくしていた。

 予防接種という言葉が夫の口から出るんじゃないかと、気が気でなかったのだ。

 くわばらくわばら。

 それからほぼ二時間、見事に喋り倒した夫は、これまた見事な食欲で、カレーうどんも付け合わせの和え物も炒め煮も全部平らげ、寝た。 


 午後十一時。夕子は就寝前にアッサムティーを淹れた。

 一口飲んでは目をつむり、体中にその香りが充満していくのを感じた。


 今日の疲れを明日に持ち越さない。

 明日は明日の風が吹く。


 ここ最近、そんな言葉をわざとらしく心に刻んでいる夕子だったが、なかなかどうして気持ちは横道に反れてばかりいる。

 息子の熱は明け方にかけてがピークだろうか。

 甘々だと言われたって、他に誰がやるというのだ。

 夕子は、まだ熱いアッサムティーを一気に飲み干した。


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