それでもこの冷えた手が

myz

それでもこの冷えた手が

 冷え切った指で引き金を二度引く。

 プシュ、プシュ、と気の抜けた音がして、目の前のベッドに横たわっているものが、二人の人間から一瞬でふたつの死体へと変わる。

 やつらの頭蓋骨に開いた直径9mmの穴から流れ出る血と脳ミソのかけらといっしょに、それまでやつらをかろうじて人間として成り立たせていた大事なが音も無く冷たい部屋の空気の中に発散し、一層弛緩しきった肉がマットレスのスプリングをさらに軋ませながらだらしなく潰れていく。

 それを完全に明瞭クリアーな意識で感じる。心の湖面は平静フラットで、きっと澄んだ大気ときっかりおなじ温度を保っている。

 それ以上より高くなることも、それ以下より低くなることもない。

 それをまた、今回も確認する。

 いつからこうなのか、知らない。

 ただ、母親とその子を好きなだけ殴りつけて満足したあの男が、そのあと酔っ払ったまま湯船で眠り込んでいたその頭を水面の下まで押さえつけて、冬のナマズのようにおとなしくなるまで手を離さなかったときも、阿婆擦れに色目を使ったとか因縁つけて刃物をちらつかせてきたチンピラに、ヤツから奪い取ったナイフをあばらの隙間に刃が見えなくなるまで埋め込んでやったときも、そして、いまのに入ってを持たされ、はじめてをしたときも。

 心はいつも平静で、凪いでいた。

 役目を果たした得物をそっとコートの内側に仕舞い入れると、部屋の入口へ一歩足を踏み出す。

 かすかな物音。

 振り返る。

 部屋の道路に面した一辺は掃き出し窓になっていて、カーテンが閉じられている。そこに、街灯の弱い光が差し込んで、窓の下半分ぐらいの高さに満たない、なにかの影を投じている。

 もぞもぞと、その陰影が動いた。

 足音を殺しながら、素早く窓に歩み寄る。一度仕舞った得物をするりと抜き出す。

 もう片方の手で、さっとカーテンを開く。

 目が合った。

 まんまるく見開いた目で視線を受け止めながら、そいつは震えていた。

 子供ガキだ。ベランダに子供がいる。

 仕事の前に浚った情報によると、今回職場の金に手を付けた不届者クズは夫婦二人組で、子供がひとりいる。ただ、間取りにはちゃんと別に子供部屋があった。

 だが、実際には、どうだ。

 子供がベランダにいる。

 服も着ちゃあいない。パンツ一枚の姿で、震えている。

 子供の口が、「あ」の形になる。いまから叫びだすぞ、という形。

 得物をコートの内側に戻すと、人差し指を立てて丸めた唇に当てる。「シーッ」とかすかな擦過音。

 聞こえたわけじゃないだろうが、子供が「あっ」としゃっくりを飲み込んだような顔をする。

 「シーッ」のポーズを続けながら、もう一方の手で鍵を外し、窓を開ける。

 子供がよたよたと部屋の中に入り込んでくる。

 それを確認して、窓を閉めると素早くカーテンを引く。

 へたり込んだ子供の目線に合わせるように、すっとしゃがみ込む。

「あ、あり」

 なにか言いかけた子供の口を片手で塞ぐ。「チッチッチッ」もう片方の手の人差し指を、唇の前で左右に振る。

「それはダメ、それはダメだ。いいかい? ルール1ワンだ。大きな声を出しちゃいけない。大きな声を出されると、おじさんは困っちゃうんだ。だからそれはダメだ」

 言い含めるように言うと、子供は口を塞がれたままこくこくと頷く。

「よし、えらいねぇー」

 言いながら、手を離す。

「えらいねぇ、きみ。名前は? 名前はなんていうんだい?」

 子供はきょとんとして、しばらく視線をさまよわせていたけれど、こう答えた。

「ヒカル」

「ヒカルくんか、えらいねぇー」

 子供の髪をくしゃくしゃとかきまぜてあげながら言う。サラサラしてひっかかりのない幼い子供の髪の毛。

 いきなり見知らぬ大人にそんな無遠慮なマネをされても、子供はわずかに身をすくめただけだった。いい。ルール1は守られている。

「ヒカルくん、ヒカルくんはどうしてあんなとこにいたんだい?」

 子供の眼をまっすぐに見つめながら言う。

も着てないじゃあないか? 寒かっただろう?」

 子供が「あっ」と口の中で声を上げる。じっと見つめ返してきていた眼が、ふいにきょろきょろとせわしなく動いて部屋の様子を探る。

「パパに、外にいろって。だから。怒られる。パパにまた怒られる」

 俺の顔を見つめ返す子供の眼は、俺のことを見ちゃいない。その眼は俺の顔を突き抜けて、記憶の中で振り上げられた父親の手を見ているのだろう。

「怒られる……怒られる……」

 微かな声で繰り返す。

「ヒカルくん、大丈夫、大丈夫だよ」

 細い肩に手を置いてゆっくりと言うと、その視線がすこし現実に戻ってくる。俺の顔を不思議そうに見る。

「パパとママは急いでやらなくちゃあならないことができて、ちょっとおでかけしてるんだ」

「おでかけ」

「そう、おでかけ」

 ちらりと背後のベッドに視線を遣る。この目線の高さなら、シーツにふたつの穴が開いていることや、その周りにきっと赤い色が滲んでいることなんかも、わからない。

「おじさんは…‥」

「ん?」

「おじさんはだれなの?」

「おじさんはパパとママの友達だよ」

「ともだち……?」

「そう、パパとママは急におでかけすることになったけど、ヒカルくんのことが心配になって、おじさんに見てくるように頼んだんだ」

「おじさんに、頼んだ……」

「そう。だけどびっくりしたよ、ヒカルくんがにいなかったから。あんなところにいるとは思わなかった。かくれんぼならおじさんの負けだ。えらいねぇー、ヒカルくん」

「で、でも、それは」

「ん?」

「パパが、あそこにいろ、って、いったから。怒られる。かってに中に入ったから、パパに怒られる」

「んー? パパが本当にそんなことを言ったの?」

「う、うん」

「どうしてパパはそんなこと言ったのかな?」

「ご、ごはんを……ごはんをこぼしたから、パパが怒って……」

「んー、たしかにごはんをこぼすのは良くないなぁ。でも、だからってヒカルくんをベランダに閉じ込めるっていうのも、おじさんはパパも良くないと思うな」

「ほ、ほんと……?」

「うん、本当だよ。ヒカルくんはごはんこぼしちゃったとき、ごめんなさい、できたかな? ごめんなさい、したんだろう?」

「うん。でも、パパがゆるさない、って」

「んー、良くない。良くないなあ。そこはパパが良くないっておじさんは思うよ」

「そう、なの?」

「うん。そうだ、ルールツーだ。これでルール2を作ろう。なにか良くないことをしちゃったときは、きちんと、ごめんなさい、をするんだ。逆にヒカルくんが、ごめんなさい、されたら、そのときはきちんと許してあげなきゃならない。それでおしまいにする。これがルール2。わかるかな?」

「う、うん……」

「よし、えらいねぇー」

 また、子供の髪をくしゃくしゃとかきまぜる。

「じゃあ、ヒカルくんのに行こうか」

 言いながら、立ち上がる。

「おじさんがを着せてあげよう」

 俺の手を、子供がひしと掴む。

「……どうしたんだい?」

「おじさん」

「ん?」

「お、おじさんの手、あったかいねぇ」

 動きを止める。

「あったかいねぇ」

「ヒカルくん」

「え?」

 ふたたび腰を下ろし、子供の眼をのぞき込む。

「嘘は良くないなぁ」

 ゆっくりと、繰り返す。

「嘘は良くない」

 心の湖面は明晰に冷やされていて、俺の手もいつもそれと同じ温度をしている。

 

「え?」

 だが、子供は真実戸惑っているような声を上げる。

「嘘じゃないよ。あったかいねぇ」

「ヒカルくん」

「あったかい……」

 恍惚として、俺の手に頬擦りすらし始める。

 それを見ながら、ようやく、俺は、あぁ、と思った。

「あぁ……ヒカルくん」

「え?」

「ルール2のことなんだけどね」

「うん」

「ヒカルくんのパパはルール2についてが足りないみたいなんだ」

「お勉強」

「うん、だから、おじさんがまたパパに会ったときにはね、ルール2についてしっかりパパに約束させてくるよ」

「やくそく」

「うん、だから、ヒカルくんがちゃんと、ごめんなさい、できるなら、この先パパがヒカルくんをベランダに閉じ込めるようなことは絶対になくなるよ」

「ほんとっ?」

「うん、本当。だから――」

 子供の小さな両手を握り返して、そっと上に引き上げる。

「だから、で待っておいで」

 重さは感じない。子供の足がふわりと宙に浮き、全身が、ゆっくりと部屋の天井に向かって上昇していく。

「わあ、浮いてるよ、おじさん、浮いてる」

「うん、えらいねぇー」

 やがて俺の腕と子供の腕が伸び切り、温度とはべつのが際限なく奪われていく感触が、指先から離れてゆく。

 そのまま子供は無邪気にきゃあきゃあとはしゃぎながら、部屋の天井に達する。するりとその中に沈み、見えなくなった。

「……そのまま行くんだよ」

 何事もなければ、多分、どこかここよりもいいところに辿り着けるのだろう。

 どこに行くのかは、俺もまだ知らない。

 身体のほうは、バスタブの中に沈んでるか、細切れになって冷凍庫に詰まってるか。どちらにしろ、もはやどうでもいいことだった。

「さて」

 そして、天井から室内に視線を戻すと、隅の暗がりが黒々と凝っている。

 いる。

 ふたり。

 男と女。

 両方とも額に穴が開いてる。

 それを眺めながら、唇をすぼめ、その前で「チッチッチッ」と指を振る。

「そう睨むなよ」

 ふつうは、上に行ける。

 ただ、良くないことをすると、こうやって下に残らないといけなくなる。

 ちょっと睨んできたりもするが、なにかするだけの力はない。

 しばらくしたら消える。

 どこに行くのかは、俺もまだ知らない。

「どうせもうじき、俺もそっち側に行くから」

 言い残して、部屋から出る。

 背後で、がちゃりとドアが閉まる。

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