旅路の一歩
数時間の後、ヴィヴィアンの前に帰って来たのは、紙切れを二つほど足に括りつけられた鴉だった。自分が放した使い魔ではないが、見覚えのある顔である。
「お疲れ様、シュガー。久しぶりね。ご主人様は元気だった?」
カアと一声鳴いて、ヴィヴィアンの指の感触を堪能すると、シュガーは彼女のベッドに座る。子供のように羽毛をバサバサと震わせると、ヴィヴィアンをジッと見つめた。隣に腰を付けたヴィヴィアンは、すぐに二つの紙切れを開いて、読み進める。
「あら、アイツ、丁度良い所に住んでるじゃない」
クスクス笑いながら、膝に乗ってくるシュガーを撫でていると、扉を叩く音がした。それに内包された怒号が、女であるところを考えると、また何か、自分は要らぬ者を敵に回しているようだと気づく。女の奇声には聞き覚えがあった。数日前に父が城の上層部から投げ捨てたあの男の、元恋人だったか。
これは面倒だ、と、ヴィヴィアンは悟り、もう一枚の紙切れを開いた。クローゼットの中からコートなどの季節に合わせた服を各種取り出して、もう一つの鞄に詰め込む。アリッサから奪った鞄と自分の鞄の両方を持って、肩に乗ったシュガーに微笑んだ。
「さあ、連れていってちょうだい」
激しく打ち付ける扉に向かって、そう言った。一枚の紙がふわりと浮いて、独りでに扉へ張り付いた。罵倒を受けながら、追い風を臨む。扉は爆発するように壊れ、ランタン一つを置いた、坑道のような通路を見せる。罵声は相変わらず聞こえている。しかし、その女に通じる扉は、ヴィヴィアンの前にはもう無い。別場所に続くその坑道を、歩くためのランタンは、ヴィヴィアンの分しかない。シュガーが道案内をするように、坑道に飛び立った。ヴィヴィアンは鞄で塞がる両手をシュガーに見せて、困ったような素振りをする。すると、シュガーがヴィヴィアンの下に戻り、ランタンを足で掴んで、再びふわりと重力に逆らって飛び立った。それを追いかけて、ヴィヴィアンは、少女のようなウキウキと軽い足取りで、坑道を歩く。
暫くして、坑道への扉が閉められ、元の扉に戻る。その扉は再度、外から打ち破られるが、その部屋には、もう誰もいなかった。城に狂った女の悲鳴が響く。遠くで聞いていたアリッサが、溜息を吐いていた。
坑道を烏とランタンに導かれて進むヴィヴィアンの目の先に、小さな明るい線を見る。それは扉から漏れる、一筋の光。シュガーもそれを目指す。ヴィヴィアンは駆け出して、光に飛び込んだ。ドアノブは無い。それは彼女も初めて見る、紙で出来た扉だった。こちら側に引くことも、向こう側に押すことも出来ない。不思議そうに彼女が首を傾げていると、突然、隙間から小さな手が伸びた。
「……えっと……え? ど、泥棒?」
扉から顔を出した一人の少女が、ヴィヴィアンを見上げる。その少女はヴィヴィアン達とは違う種族に見えた。黄金色の皮膚、黒い髪、幼い顔。唇だけが異様に赤く、瞳はエメラルドのようである。
「セツ、そいつは客人だ」
扉の向こう、奥の空間から、聞き覚えのある声が聞こえた。ヴィヴィアンは少女を少し押しのけながら、柔らかい光に包まれる。
「あ、あの、靴を御脱ぎに……」
「え?」
少女がヴィヴィアンの足元を見ながら言った。足元は草で編まれた絨毯のようなものが敷き詰められていて、それを踏みつける少女は素足である。おずおずとヴィヴィアンを見上げている少女が、何度も困ったような顔を向けていた。
「あぁ、ごめんなさい。そういう文化なのね。お父様から聞いたことはあったのだけど、来るのは初めてだったから」
ヒールの靴を脱いで、手に持った。鞄は足元に落とし、ちょんちょんと草の絨毯を歩く。
「ヘルン、お久しぶりね。この可愛い子は何? こっちで作ったの? 雰囲気からして、この国の人との子のようだけど。英語が話せるのね。ヘルンが教えたの?」
ヴィヴィアンがそう言っていると、シュガーが一人の男の肩に降り立った。既にランタンは失われていて、男は茶髪を掻き上げ、長い布を羽織っている。
「セツは俺の妻だ。子供はまだいない」
くるりとヴィヴィアンと対面したヘルンは、長身で細身、草木のようなグリーンの瞳で、こちらを見ていた。着ているのは、所謂着物と呼ばれるもので、この国特有の者だと聞いたものだった。西洋生まれのヘルンが、極東の服を着ているのを見て、ヴィヴィアンはくすくす笑う。
「貴方ソレ、着物っていうドレスでしょ? 本当にここに染まってるのね。正直似合ってないわよ、それ」
「郷に入れば郷に従えだ。こっちではシャツもズボンも簡単には手に入らない。仕立て屋も、この辺りにはまだ着物しか扱ってないんだよ」
「あぁ、別に着物を着ていることについて言ってるんじゃないわ。お父様もよく着ていらっしゃったから」
「じゃあなんだ」
「その中に着ているやつと、羽織ってるもの、それにその帯の色が全部ゴミ。ありあわせのものを着ましたっていうのが見て取れるわ。お金無いの? 少し貸しましょうか?」
ペラペラと早口に進む言葉の応酬に、勝利したのはヴィヴィアンだった。ヘルンは紙を掻き毟って、座り込んだ。すぐにその傍にセツがちょこんと座った。
「松様。やはり着物の着合わせくらい、私に教えさせてくださいませ。折角、貴方に似合うものを仕立てるように申し付けているのですから」
セツのその言葉は、少女らしくない、尖った物言いである。成程、彼女はヘルンの子供ではない。しっかりとした、大人に見えた。二人に倣うようにヴィヴィアンは座ろうとすると、すぐに目を伏した女達が部屋に入り、ヴィヴィアンの鞄を何処かへ持って行こうと手をかける。待って、とヴィヴィアンが言おうとすると、ヘルンがそれを止めた。
「
それを聞いたヴィヴィアンは、女中に対して、重いわよ、と言葉をかける。一人がにっこりと微笑んで、小柄ながら重そうに鞄を抱えて、何処かへ行った。
「ここで話すのもなんだ。応接室にソファを用意してある。畳よりその方がお前も座りやすいだろ」
ヘルンが立ち上がって、扉の一つを開ける。下の草の絨毯が畳と呼ばれていることを、ヴィヴィアンは興味深く見ながら、それに着いて歩いた。セツはヴィヴィアンの後ろをちょこちょこと歩いている。彼女は女中たちとは違い、着物も艶やかであることに気づく。髪飾りが華やかで、成程、女主人の雰囲気は持っていた。
廊下は外にそのまま繋がっていて、四角く庭を囲んでいた。庭には四季折々の草花が植えてあり、城の中では見たことも無い鮮やかさを放っている。風景は、夜に差し掛かっていた。
二つほど部屋を跨ぐと、ヘルンが唐突に立ち止まって、扉を開ける。
「入れ。茶を用意させてある」
応接室と呼んでいたその部屋には、足の低い長テーブルが中央に据えられ、既に温かな緑色の茶と、丸く白い何かが積まれていた。ソファは三人が座るには十分で、確かに話をするにはもってこいである。
庭の花が生けられた花卉が、部屋の裾に据えられていた。ヴィヴィアンが促されるままにソファに座ると、二人も対峙するようにテーブルを挟んで、腰を据える。ヘルンが懐から煙管を一本出して、吸い始めた。ヴィヴィアンが興味津々に茶や中央の何かを見ていると、セツがころころと笑う。
「それは発酵する前の紅茶です。緑茶と言います。それの茶葉を船で運んでいるうちに紅茶になるんですよ。その白いものは、大福という、お米をすりつぶしたものであるお餅で小豆という豆のジャムを包んだものです。近所のお団子屋さんで買って来てもらいました。松様も大好きなんです」
朗らかな日差しのような彼女は、そう言って、ヴィヴィアンに茶と菓子を薦めた。話をそっちのけにして、ヴィヴィアンは大福を口に入れる。モチモチとして柔らかなそれを、嬉しそうに頬張った。その姿を見てまた、セツはころころ笑った。
いつか、ここにいる全ての人がいなくなるとして 神取直樹 @twinsonhutago
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