恨まれごと

「御坂正一は居ますか」

そんな言葉とともに、御坂鈴の家を訪ねに来る人間がいた。

時に、江戸幕府が倒れ明治維新が成って数年の月日が経とうとしている頃である。江戸は東京と名前を変え、この頃の文明開化とも言うべきか、鈴の見てきた江戸は随分と様変わりして驚きを隠すことはできやしない。

しかして、そんな時代の流れに逆境するかのように、目の前の人間は前時代の武士の様相を醸し出している。薄汚れた着物を纏い、無精髭を生え散らかしている程度には、落ちぶれてはいるが。

ただ、その目はまるで刃を秘めたかのような鋭さを見せて憚らない。武芸の素人ですら分かるほどの殺意を、この人間はその心内に秘めている。


あー、またしても、かぁ。


普通ならば焦りの一つくらい覚えるものだというのに、この女はどこか慣れた風。どころか若干の気だるさが現れそうになるも、流石にそれを顔に出すことはしない。ため息を漏らしそうになるのも、しっかりの喉奥に飲み込ませる。

多分、あいかわらずのほほんとしたうちとは違って、この人は必死そのものなんだろうからさ。

しかして、彼女は対応に困る。彼女の家をこういう目で訪ねてくる人間の狙いは、大凡予想できてはいる。だからとて、さてどうするかといえば、どうすることもできないのが彼女である。

唯一の救いであるのは、今現在御坂正一はこの家には居ないということである。彼は、ちょうど仕事の墓守で、今頃墓場の草むしりでもしているか、あるいはちょっとサボってシャボン玉でも吹かしているだろうか。


「今、あいつはここには居ないよ。悪いけどまた出直してきてもらってもいいかね?」

「いえ、いないのなら帰りを待ちます」


即答である。

取り敢えず、言えるだけのことを口にしたのであるが、即答すぎる即答に若干面食らう。

だが、改めて考えるとこれも当然といえば当然の返答でもある。最早、この男は引けないところまで、己が心を追い詰めていると言っていい。その瞳の奥をよくよくのぞいてみると、金剛石よりも固い意志がそこにあるのがよく分かる。手元の刀も、既に鯉口は切られている。


今度はアイツ、どんな恨みごとで他人をここまでさせるんだか。


鈴の脳裏には、のほほん顔でシャボンを吹き散らす憎らしい旦那の姿がありありと浮かび上がる。

シャボン玉さえ吹ければそれでいいその男。


……シャボン玉さえ吹くことができれば、自らに立ち塞がる人間を悉く斬り伏せてきたその男。


かつて、シャボン玉につられて幕末の京都で幕府の隠密として戦った鈴の夫、御坂正一はこの手では数えきれぬほどの人を斬り伏せてきた。それはまあ、仕事のこともあり、また生き残るには仕方のないことではあったが、しかしてやはり人を斬ったのは変わりない。

そんな彼に対して、鈴も彼には無事で帰ってきて欲しかったわけで、彼のなしてきた所業には一切の否定もしなかった。自分の夫が何を成そうと、私は彼の妻なのだ。そんなことを心に決めていた。

しかして、いざ彼の殺した人間の仇だ、あるいは彼に恨みある者だ、とかいうものが現れると、やはり如何ともしがたい心境に落ちる自分がいる。彼に生きて帰ってきてほしいと思う自分と一緒に、彼が殺して自分と同じ願いを持った人間の思いが無残に踏み躙られているのだから。

そして、目の前の人間もまた、その一人。そして、最早止まることもできなくなった一人。


「……多分、帰りも遅いだろうし……そうね、今から行けばまだ間に合うと思う。うん、場所だけでも教えてあげるわ」


そんな一人に対して、鈴はあえて親切を見せた。それも、わざわざ場所を詳しく、それこそしっかり目印までつけて地図を描くという親切さ。

地図に描かれたそこは、東京の街からはそこそこ離れた林の奥。若干わかりづらいだろうが、しかしてわかればすぐにでもつくようなところ。そこに、正一が墓守をしている墓場がある。

そこを淡々と教える鈴に対して、当然と言うべきか、男は若干不審な目を彼女に向ける。

しかして、その目を受け流すかの如く、彼女は淡々と教えると、手製の地図を男の懐に入れ込んだ。

「ま、これさえ持っておけば大丈夫でしょ。さあさ、場所も分かったことなんだし、さっさと会いに行って来なさい!」

と、威勢良く男の背中を叩くその顔には一切の影も曇りも、ましてやその心に何か秘めたるものもないような笑みを浮かべていた。これには、男も困惑気味で、鈴と鈴の描いた地図をぽかんと見比べる始末。

「え、ええと……その」

「何も言わなくていいわ。……いや、言わなくていい、から」

何事かを口にしようとした男に対し、鈴はあえてそれを塞ぐ。それでもなお、男は口を開こうとするが、一瞬彼女との目があったその時、どうにもその口は塞がざるを得なかった。


何も言わなくていい、言いたいことはわかるから。だから、何も言わないで……行きなさい。


一切の曇りもないただただ真っ直ぐな瞳は、そう語り聞かせる様だった。

そのどこか凄みのある視線に、男はなんの口答えもできなかった。ただ、鈴の言うがまま、くるりを背を向けて地図の方に歩き出す。

この地図が嘘偽りでなければ……いや、嘘偽りではないであろうこの地図の通りに行けば、かの仇敵はいる。その仇敵に対して、この刃を突き立てる為に、男は行く。最後に見えたその背中は、この明治という時代には似つかわしくないほど、悲壮に溢れて仕方なかった。


「ま、いつものことだけど……こうするしかないわね」


緊張が抜けたのか、鈴はどこか脱力気味に扉へとその体をもたれさせる。

いつものこと、と言いつつもこの緊張の瞬間はどうにもならない。普段通り、いつも通り、人に無理矢理親切を押しつけるように、とはやっているが、それでもこの心労はどうにも重くのしかかる。

それもそうだ、ようはあの人間を死にに行かせることと、同じようなことをしているわけなのだから。

多分、あの男は自分の夫には勝てはしない。多分、無残に殺され、またあの墓場に一つの墓が増えるだけだろう。気の毒ではあるが、しかし彼女の夫は幕末を生き切った手合いである。早々に死ぬはずがない。

実際、これまでと同じく正一を狙った者は、悉く再び相見えることはなかった。

結局それは、自分も人を殺しているのと同じような話だ。死ぬとわかっていながらも、敢えて送り出す、しかも意気揚々に。まるで死神だ。古今東西聞かないような、屈託のない笑顔を浮かべた無慈悲な死神。


「それでも、あたしは送り出すしかないのよね……それぐらいしか、あの人達の恨みごとを受け止めるすべはないのだから」


……


日暮れ、陽も沈みかかり、世界は赤く染まりゆくある。秋刀魚を焼く七輪は、何処か煙たくもあり、しかしてその匂いは腹をよくよく刺激する。飯もよく炊き上がり、今日の夕餉は中々に絶品であろうと鈴は鼻を鳴らす。

まるで、そんな夕餉の匂いを嗅ぎつけたかのように、その扉は開いた。気怠げな目でシャボンを吹き散らす、正一がそこにいる。当然のように、そこにいる。

手は墓の手入れをよくよくしたのか土まみれ。若干衣服に切り刻まれてはいるが、しかしてそれも大したことはない。


ただし、何処かほのかに感じるのは、命のやり取りでもしたかのような、鉄臭い血の香り。


……ああ、やったんだ。


しかして、鈴はそのことに関しては何も言わない。聞かない。何を言い、聞いたところで、何の意味もないことは自分が一番分かっている。それに、こうなるように願ったのは自分自身でもある。


だって、あたしは妻なのだから。妻が、旦那の無事を案じるのは、当然じゃないか。こんな旦那でも、あたしには大切な人なのだからさ。


そして、彼女は笑みを向ける。仄かに柔らかく、愛おしげな笑みを、自分の旦那に向ける。今日もまた生きて帰ってきてくれた、自分の旦那に。


「おかえり、アンタ」

「んが、ただいまがな」

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シャボン玉キチの正一 明治編 一齣 其日 @kizitufood

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