雪に似ている

足立 ちせ

雪に似ている

 私と彼の間にあったものが何だったのか、今となっては分からない。純粋な恋心だったのかもしれないし、男女間に成立した稀有な友情だったのかもしれないし、あるいは穏やかな愛情であったのかもしれない。何かあったように見えて本当は何も無かったのかもしれない。少なくとも、互いの身を焼き焦がすような激情でなかったことだけは確かである。

 喩えて言うならば、私たちの関係はひとひらの雪に似ていた。触れればたちまち形を失ってしまうのに、手を伸ばさずにはいられない、繊細で儚く脆い雪。冷たくて、しかし触れた手の暖かさを思い出させてくれる空の欠片。

 そんな矛盾と葛藤を孕んだ一縷の光に、私たちの関係は似ていた。


          ❄︎


 夏のある日のことだった。外のアスファルトは陽炎にゆらめき、店の扉が開くたび、軽やかな鈴の音と共に蝉のけたたましい鳴き声が静かな店内に波のように押し寄せては消える。

 緩やかな坂の途中に佇む小さなカフェだ。彼と会うときはこの店が多かった。無類のコーヒー好きである彼がここを気に入っているのは明らかであったし、自家栽培ハーブのハーブティや、果物たっぷりで甘さ控えめなこの店のフルーツケーキを私も好んでいた。

 アンティーク調の家具やオブジェで統一された店の一番奥。三つしかない二人用テーブルの一つに、私たちは無言で向かい合って座る。

 沈黙は苦ではない。私も彼も口数の多い方ではなかったし、ジャズとクラシックが織り交ぜに流れているちぐはぐなBGMの中で過ごす静寂を、私たちは気に入っていたのだと思う。先に着いた方が席に座り、後から来た方が「久しぶり」と声をかけたら「久しぶり」と答える。注文を済ませ、コーヒーと紅茶が運ばれて来るまでの間に簡単な近況報告を済ませる。そのあとは、どちらからともなく話を始めるまで静寂が続く。

 決めたわけでもない、守る必要などない暗黙の了解。けれど私は、彼との間にあるこの曖昧な繋がりに、一種の誇りのようなものを抱いていた。彼と、沈黙という言葉を交わすその時間こそが、人は理解し合うことができるという証明だと、信じていた。

 だがこの日、他でもない彼によって早々に沈黙は破られた。


「なあ」

 聞き慣れた低音の声に顔を上げるとクーラーの風が頬に当たる。先に店に来ていたのは彼で、まだ着いたばかりの私には汗が冷えて寒いほどだ。一つ身震いをして、運ばれてきたばかりの紅茶カップを両手で緩く包む。

「なに」

 少なからず困惑しつつ、カップを浮かせる。おそるおそる口をつけると飛びあがってしまいそうなほど熱くて、私は平気なフリをして出した舌をカップで隠した。

 彼は、少し悩むように顔を伏せた後、深呼吸をして口を開く。

「俺たち、付き合わないか」

 空気が、一瞬にして張りつめたような気がした。質の悪い冗談だと思いたかったがしかし、彼の言葉も表情もいつになく真剣で、私はしばらく何も言うことができなかった。店内に響く軽快なジャズが、時間の流れていることを私に認識させ、ハッと気がつく。口元を隠したまま、舌にヒリヒリとした痛みを感じながら、どうにか言葉を絞り出す。

「私たち、そういうのじゃないでしょ」

 そっと置いたはずのカップが鈍い音を立て、跳ねた紅茶が右の手の甲についた。飲めば熱かったそれは手についた途端ひやりと冷たくなって、そこから体温がまた急速に奪われていくようで。私はその感覚に恐怖を覚えた。少し急くような動作で紙ナフキンを取って拭い、幾重にも折り畳んで机の隅に置く。

「俺は、好きだよ」

 彼は私の様子を眺めながらそう言うと、コーヒーカップを手に取り落ち着いた動作で口元へ運んだ。その間に私は一瞬目を伏せて、バレないくらいに深呼吸をする。音もなくカップを置いた彼は私の目を見て続ける。

「言わなくたって分かるだろ、お前なら」

 彼はなぜだか、どこか悲しげに微笑んでいるように見えた。だが私は、その目を見つめ返すことができなかった。

「わからないよ」

 消え入るような声で呟いて彼から目を逸らし、机の上にお金を置いて席を立つ。体が鉛のように重たかった。

 私の手を掴もうとした彼に告げる。

「触れたらお終いだったの。ねえ、言わなくたって分かるでしょ、あなたなら」

 店内を進み、扉を開けて外へ出る。猛暑の日差しと喧騒に埋め尽くされたその坂道を、私は振り返らないままに通り過ぎていった。

 帰ってシャワーを浴びながら声を上げずに涙を流したい。そんな緩やかな静寂に満ちた絶望だった。

 そしてそれが、彼との最後だった。


          ❄︎


 それから私は仕事を辞め、地元から離れた地で再就職した。噂によると彼も地元を離れて生活していたらしい。共通の友人は多く、その気になればいつでも彼の所在を知ることができただろう。しかし私はそうはしなかった。したいとも思わなかった。

 朝から晩まで、何かから逃げるように仕事に明け暮れ、恋人もできず、滅多に地元に帰ることもなく、当然のように彼と会うこともないまま、十数年の月日が過ぎた。


          ❄︎


 二月。母親の古希祝いくらい帰ってこいと姉に強く言われ、渋々実家へ日帰りした翌朝の日曜日。私は得体の知れない喪失感に襲われて目が覚めた。頭痛に呻きながらカーテンを開けると、夜中に降り積もった雪が朝陽に反射して私の目を眩ませた。

 そういえば天気予報で言っていたような気がする。ならば頭痛は気圧のせいだろうか。ともあれ今日が休日でよかった。

 淡々と、ぼんやりと、そんなことを考えながらいつも通りの生活をする。だが、着替える間も顔を洗う間も、実家から押し付けられたおでんを食べている間もずっと、喪失感は体を満たし続けていた。どこか現実味のないふわふわとした気持ちで何気なくスマートフォンを手に取ると、タイミングよく電話が鳴りだす。ディスプレイに表示された見覚えのある懐かしい番号を見て、心臓がトクンと跳ねた。


 数コール悩んだ後、微かに震える指先で画面をスワイプし、そっと耳に当てる。言葉が出ない私に対し、話し始めたのは相手の方だ。だが聞こえてきたのは、想像していたのとは少し違う声だった。


 そこから数分間の記憶は無い。頭が真っ白になって、気付いた時には車のエンジンをかけていた。

 電話は彼の実家から。彼の、危篤を伝えるものだった。


          ❄︎


 雪で別世界のように一変した景色を過ぎて行く。どこかずっと遠くへ行ってしまったものだと思っていたのに、そこは昨日も通ったはずの、地元へ続くよく知る道から少し逸れた先だった。都会とは言えない場所だが大きく設備の整った病院で、白い廊下を面会者のバッジを手に握りしめたまま、電話で受けた説明通りに早足で進む。

 目的の病室には懐かしい顔がいくつか並んでいたが、私を見ると何かを察したように病室から出ていった。ベッド脇にいた彼の母親もこちらに気がついて椅子から立ち上がる。その涙の跡と疲れきった表情を見て、私は、間に合わなかったのだと悟った。深く、頭を下げる。無言でベッドへと促される。


 目が眩みそうなほど真っ白な壁に囲まれた清潔なベッドに、彼は横たわっていた。十数年ぶりに見るその表情はとても穏やかで、そのことに少なからずの安堵を覚える。不思議と涙は出ず、しかし、かける言葉も見つからない。

 彼の母が、そばの机に置いてあった封筒を手に取って私に差し出してきた。

「あなたには連絡しないでほしいって、ずっと言われていたの。容体が急変したのも突然で……。本当にごめんなさい」

 シンプルな空色の封筒だ。その宛名に、綺麗な字で私の名が綴られていた。封を切ると、中には半分に折られた一枚の便箋があった。震える指でそっと開く。封筒と同じ空色の、罫線もない紙の中央に、宛名と同じ綺麗な字で、一言。

『分かってた』

 それを目にした瞬間、今朝から続いていた頭痛も喪失感も、十数年間目を背けてきた胸の奥底の寂寥も消え去って、つかえていたものが取れたように、凍った氷が融けるように、涙が溢れた。私から漏れた嗚咽に、彼の母が目元を押さえながら病室を後にする。


 私と彼の関係は、雪に似ていた。触れれば瞬く間に形を失ってしまう、儚くて脆い、ひとひらの雪だ。

 だから私は彼を拒んだ。怖かったのだ。溶けた先に何も残らない未来が。でも、分かっていないのは私の方だった。

 彼の右手に自らの手をそっと重ねる。そこにあの日の温度は無い。

「私も、好きだったよ」

 彼の手は冷たく、しかしそれは私に、私の手の暖かさを教えてくれた。


 ただ雪に似ているだけの私たちは、触れても消えたりなど、しなかった。

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