残酷な子どもたち

茅田真尋

1

 枕元に白い箱が置かれた。それを一瞥して、僕はベッドの傍らに立つ両親の顔に目を向けた。

「誕生日おめでとう」

 つとめて明るい声音で父が言う。部屋の壁にかかったカレンダーに目を遣った。十月六日。確かに今日は僕の誕生日だ。そんなこと、この瞬間まで微塵も頭になかった。この狭いベッドから一生出られない僕には、誕生日になんて何の感慨もない。

 幼いころに交通事故に遭い、一命はとりとめたものの、首から下は麻痺してしまった。こんなことになるくらいなら、いっそ死んでしまっていたほうが良かったんじゃないか、と今では思う。

「ありがと」

 ろくな気持ちも込めずに、ただお礼を伝える。こうすると、いつも二人は困ったように笑うことしかできなかった。親としてはもっと明るい顔を見たいんだろうけど、そんな演技ができるほど僕は強くない。

けれど、今回は少し違った。自慢気な笑顔を浮かべて、おもむろに父が箱の中身を引き出した。

現れたのは、黒いシルクハットだった。部屋の灯りを反射してつやつやと光っている。父の様子に淡い期待感を覚えてしまっていた僕はひどくがっかりした。帽子なんてプレゼントされても、外出できない僕には無用の長物だ。失望感が伝わるように、露骨に目をそらした。

「待て、待て。これはただの帽子なんかじゃないんだぞ?」

 帽子は、帽子じゃないか。頭に乗せる以外の用途なんてないだろうに。

「一度でいいから試してみなさい」

 いきなり父がシルクハットをかぶせてくる。もう鬱陶しい。出てってくれ、と怒鳴ってやろうと父のほうへ首を向けて、僕は言葉を失った。

 一瞬で、僕は見知らぬ街へと移動していた。呆然と立ち尽くす僕の横を、街の人たちが歩いていく。空を仰ぐと、天高くのぼった太陽が僕を祝福するように照らしていた。

 そして驚くことに、僕はちゃんと自分の脚で立っていた。両腕を動かすことさえできた。恐る恐る両手で脚に触れてみると、はっきりと触られている感覚がある。その場で何度か足踏みをしてから、思い切ってジャンプしてみると、着地に失敗することなく、僕の両足はしっかりと地面に降り立った。

 歩けるようになったんだ。その実感が沸々とわいてきて、僕は思わず大きな声で笑ってしまった。

 こんな素敵なプレゼントをしてくれた両親に早くお礼を言いたい。けれど、近くに二人の姿は見えない。どうやったら家に帰れるんだろう。

 その時突然、辺りの景色が再び一変した。気づくと僕は元通りベッドの上に横たわっていた。もう一度手足を動かしてみようとしたけれど、それは叶わず、僕は少なからぬ絶望感にかられた。

「最新型のVRだ」

 シルクハットを両手に、父が言った。

「従来のVRは元々人間に備わった感覚器官を通して、映像や音といった外部刺激を与えることで、拡張現実を構成していたそうだ。これだと、そもそも感覚自体を失ってしまったお前の体には意味をなさない。だが、今お前が見てきた世界では、コンピュータと脳が直接接続されることで、感覚そのものが提供されるそうなんだ。だから、感覚を失ったお前の体でも、錯覚という形ではあるが、健常者と同じ世界を味わえる。あまり細かいことは父さんにもわからないが、とにかく向こうの世界に行けば、お前は自由だ。もうベッドの上にいなくたっていいんだ」

 感極まった様子で最新のVR装置を説明する父をしり目に、ぼんやりと僕は考える。

今の経験が拡張現実の世界でのものなら、結局僕の体は治らずじまいということだ。現実の僕はこの場所に縛られたまま。さっき街で僕の横を通り過ぎた人々も幻覚にすぎない。やっぱり僕は外の世界には出られるわけじゃない。

「結局、一人ぼっちじゃないか……」

「そんなことないわ」

 僕の悲観的な考えをすぐさま否定したのは母だった。

「VRの世界の人々は、現実にちゃんと生きてる人たちなのよ? あなたは一人なんかじゃないわ」

「どういうこと?」

 僕が聞くと、代わりに父が答えた。

「VR世界の人はみな、この世界から拡張現実へやってきた人間だということさ。お前と同じようにな。

新型のVR世界はインターネット空間で共有されている。そこで人間の脳とインターネットを繋ぎ合わせると、意識そのものとVR世界をシンクロさせることができるそうだ。だから、向こうでできた友達は、みなれっきとしたお前の友人だ。お前は外の世界へ出ていけるんだよ」

 外の世界へ出ていける。そう考えただけで、今までにないくらいに胸が高鳴った。曲がりなりにも、今その願いが叶おうとしているのだ。

「……ありがとう。父さん、母さん」

 二人の顔に満面の笑みが広がった。両親がこんな風に笑うのは初めて見たかもしれない。

相当な無理をしたことだろう。家は決して裕福ではなかったし、何より僕の事後ケアのための治療費が常に家計を圧迫していた。それでも両親は何とか金を工面して、これを買ってきてくれたのだ。ならば、拡張現実の魅力を、僕が十二分に満喫することこそが二人への感謝の形となるのではないだろうか。

 この日から僕は、毎日拡張現実の世界へ遊びに行った。

 向こうの世界で僕が手に入れたのは、自由な体だけではなかった。

街を走り回れば、息が切れて体中に汗が噴き出した。生まれて初めて感じる疲労だった。そんな時は、路傍の電信柱にもたれて一休みした。呼吸が落ち着いてきたら、近くの自動販売機からオレンジジュースを買って、ごくごくと飲み干す。液体がのどを通過する感覚も、オレンジの持つ酸味も全て本物みたいだった。こういった経験も未知の物であり、一つ一つが、僕に生きている実感を与えてくれた。

けれど、何よりも嬉しかったのは、一緒に遊んでくれる友達ができたことだった。

ある日、大きな広場の前を通りかかると、野球をしている子どもたちがいた。テレビ中継や映画で見たことがあったが、生で目にするのは初めてだった。

僕はしばし立ち止まって、試合の行方を見守った。

子供たちは、打席に立ったバッターに声援を送ったり、守備を固めるために同じチーム内で声を掛け合ったりしている。仲睦まじげな皆の姿を見ていると、僕もあの中に混ざってみたくなった。けれど、こんな時にはどう声をかけたらよいのか僕には全然わからなかった。

両親以外とほとんど口のきいたことのない僕にとって、見知らぬ人に声をかけるのはすごく勇気のいることだった。街で同い年くらいの子どもを見かけても、自分から話しかけるなんてできなかった。だから、拡張現実へ来て最初のうちはいつも一人ぼっちだった。

その時、ピッチャーの投げたボールが鋭い打撃音と共に空高く打ちあがった。そのまま打球は僕のほうへ飛んでくる。キャッチボールすらしたことのない僕はその場でうろたえてしまい、ボールは背後の道路へ飛び出していった。

転がっていったボールにやっとのことで追いついて拾い上げると、不意に背後から声をかけられた。

「ありがとう。わざわざ取りに行ってくれて」

 振り返ると、青いインナーキャップを被った少年が人懐っこい笑みを浮かべて、グローブを嵌めた右手を差し出していた。

「ど、どういたしまして」

 ぎこちない返答と共に、僕は拾ったボールを彼のグローブに向けて投げた。慣れた手つきでボールをキャッチすると、少年は「サンキュ」と言って、小走りでグラウンドに戻っていった。

その背中を見つめて、ひそかに僕はため息をついた。あそこで一言仲間に入れてほしいと言えたら、彼は快く僕を受け入れてくれたのだろうか。今更遅いけど、考えずにはいられなかった。

踵を返し、来た道を帰ろうとすると、「おーい、待てよー」と背後から声をかけられた。何事かと振り向くと、さっきの少年を先頭に、野球をしていた子たちがこちらに走ってきていた。

「お前、もしかして最近こっちに来るようになった? 会ったことないよね?」

 僕の前までやってきて少年が聞いた。僕は黙ってうなずいた。

「一緒に野球して行かねぇか? 現実だとそんなのできる場所ないけど、ここならかっ飛ばし放題だぜ」

 そう言って、少年はバットスイングのジェスチャーをした。

戻ってきてくれるとは思っていなかったから、すごく嬉しかった。けれど、実際に会話が始まってみるとやっぱり不安のほうが強かった。

「ありがとう……。でも、野球、やったことなくて……」

 気づけば、せっかくの誘いを断ろうとしていた。本当は皆と遊びたい。でも、その気持ちをきちんと伝えることはできなかった。

「そんなの珍しくないよー。近所に野球のできる広場がある子なんてなかなかいないさ」

 彼らはいきなり僕の手を握り、グラウンドに向けて走り出した。

「ルールなんかもやってるうちに覚えるさ。大丈夫、大丈夫」

 皆に促されて、僕はバッターボックスに立たされた。やはり、傍から見ているのと実際その場に立つのとでは、目に飛び込んでくる光景がまるで違う。始める前から、すでに僕は手汗をかいていた。

「最初は軽く投げるから。気楽にね」

 投手の子が、グローブを高く上げて投球の合図を送ってくる。宣言通り、彼の球は緩やかに、真っすぐに飛んできた。けれど、それを僕は思いっきり空振りした。

「初めてならしょうがねぇよ。ドンマイ!」

 後ろで構えていたキャッチャーの子が励ましの言葉をかけてくれた。

「次、行くぞ」

 二球目の投球は、さっきと同じくらいの速度、同じような軌道で飛んできた。球に意識を集中して、僕はバットを振った。

 こちんっ、と軽い音がして、球は地面を転がった。

「走れ、走れ!」

 皆に急き立てられて、僕は見様見真似で一塁へ向かって走り出した。初めてボールを打てた僕に気を使ってくれたんだろう。守備陣の子もむやみに一塁へ送球はせず、僕は無事に塁を踏むことができた。

「うまく打てたじゃねぇか」

「うん! ありがとう」

 気が付けば、皆の輪に入っている僕がいた。

 それからは、拡張現実世界での大半を皆と過ごすようになった。最初に言われたように、野球にはすぐに慣れ親しむことができた。自由に体が動くだけでも素晴らしいことだけど、やっぱり誰かが一緒だともっと楽しかった。

 皆には、体のことを黙っておいた。こっちの世界には、全く関係のないことだったし、下手にそれを話して、彼らに不要な同情心を植え付けてしまうのも嫌だった。皆とは対等な立場で付き合っていきたかったのだ。

けれど、そこで一つ疑問が生じた。健全な体を持っているはずの皆が、どうしてこの仮想現実へ遊びに来るのだろう。みんなでお喋りをしたり、野球をしたりするだけなら、現実の世界で事足りるはずだ。

それとなく友達の一人に聞いてみると、どうやら現実には、みんなで思いっきり遊べるような広い敷地がないそうだった。ろくに外出できない僕には初耳であった。加えて交通事故の危険もあるのは言うまでもない。それに対してここでは、安全に目いっぱい遊べる。だから、皆こっちにやって来るみたいだった。

 交通事故のせいで自由を失ったけれど、現実の世界にその危険が潜むからこそ、僕はこの場所で皆と一緒にいられるのだ。それはとても皮肉なことで、僕は悲しむべきか喜ぶべきかよくわからなかった。けれど、一つ言えるのは、今が幸せだということだった。少なくとも数週間前より、生の実感がはっきりと得られるようになっていた。



 些細なことだったのだ。

部屋のカレンダーに目を遣ると、暦は既に十二月だった。あの日から約二か月が過ぎ、掛け布団も薄手のタオルケットから毛布に変わっていた。傍らのシルクハットをぼんやりと眺めて、先月の出来事に思いをはせる。

 いつもの広場で、その日も野球をしていた。最初はエラーや空振りばかりしていた僕も、周囲の子達と同じくらいに活躍できるようになっていた。手加減してくれていた皆も次第に本気でプレイするようになった。

 九回のウラ。六対五で僕たちのチームが負けていた。ツーアウト、ランナー三塁という重要な局面であり、僕がその三塁ランナーだった。

 所詮は遊びだと理解していても、やっぱりやるからには勝ちたかった。ここでホームインできれば、延長戦に持ち込んで次につなげられる。

 相手チームのピッチャーが投球の姿勢に入り、渾身の球を投げ込む。初球は見逃しでストライクとなった。隅で試合を見守る子達の、息を呑む音が聞こえた気がした。皆も気持ちは同じらしい。やはり勝ちたいのだ。

次の投球はファールとなった。これでツーストライク、ツーアウト、ランナー三塁。一つのミスも許されないところまで追い込まれていた。

これで決める気なのだろう。相手ピッチャーが腕を大きく振りかぶってボールを放つ。

小気味よい音が広場にこだまするやいなや、僕は全力で走り出していた。打球はグラウンドを転がりヒットになったみたいだった。これならいける。成功を確信して、僕はホームベースに頭から滑り込む。と同時に相手チームの送球がキャッチャーのミットに収まり、僕の体をタッチする。

その場にいた全員が固唾をのんで結果を見守った。ここで審判役がすぐに何らかの判定を下してくれればよかったのだ。しかし、あまりにきわどい状況にその子も戸惑って何も言い出せなかった。

「今のアウトだよな!」

 突然キャッチャーが大声をあげて審判に詰め寄った。それを見て、僕も黙っていられなくなってしまった。

「いや、セーフだ! 絶対僕がホームインするのが先だった」

 互いが主張を譲らず、冷静になんて話し合えなかった。言い争いのさなか、周りの子達が仲裁に入ってくれたが、双方聞く耳を持たず、そのままけんか別れしてしまった。それからしばらく、拡張現実へは出かけなかった。

 けんかなんて、人と接していれば誰だって経験することだ。素直に謝ってしまえば、気持ちもずっと楽になるんだろう。頭ではそう分かっているけれど、皆が注目する中で派手に言い争ってしまった手前、堂々とは戻りづらい。それに、あの時の僕の行為は仲間の輪を乱すものに他ならなかったのではないか。直接いがみ合ったキャッチャーの子だけでなく、ほかの子達の視線までもが怖かった。次に皆と会った時、どんな顔を、どんな言葉を向けられるのか。それを想像するだけでも、再びあそこへ出向く気力をそぐには十分だった。

 三日三晩、一人で悩んだ挙句、両親に相談することにした。予想通り二人はすぐに謝ってしまえ、と言ってきた。皆が僕のことをどう思っているのか想像すると怖い、と伝えると、それは誰もがくぐり抜ける試練なんだ、と返された。ただ、通常なら、それに直面するのはもっと幼いときだという。

幼少時であれば、どれだけ大きなけんかをしても、それについて深く考え込みはしないため悩む間もない。親にちゃんと謝りなさい、と叱咤されれば、自分の意志とは関係なく「ごめんね」を言うことになる。それを繰り返すうちに謝罪をすることにも慣れて行ってしまうものだという。

 だが僕の場合、つい最近までは謝る相手すらもいなかった。だから、今こうして謝罪を躊躇してしまうのは無理もないと二人は言ってくれた。それに誰だって大人に近づけば近づくほど、素直な気持ちを表現するのは難しくなっていく。人と付き合った経験の少ない十一歳の僕が「ごめんね」を言うのは、自分が思っている以上に大変かもしれないと諭された。

 それでも両親は、謝るなら早いに越したことはない、と最後にもう一度繰り返した。時間が経てば経つほど、詫びの気持ちを伝えるのは難しくなるのだそうだ。

 その後もすぐには踏ん切りがつかず、三日間悩み続けたが、結局けんかをしてから一週間後に、もう一度拡張現実の世界へ戻った。

 いつもの広場へ向かう途中、あらかじめ考えた謝罪の言葉を何度も復唱した。最初は心の内で。広場に設置された巨大なネットが見えてからは、小さいながらも声に出ていたかもしれない。

 けれど、僕の心配は杞憂に終わった。謝るよりも先に、皆は何事もなかったかのように僕を仲間に入れてくれた。ひとまずほっとした。皆はあまり先日のことを気にしていないみたいだった。

 それでも、僕は遊ぶ前にきちんと謝罪の気持ちを伝えておいた。皆、あっけにとられたような顔をしたのをよく覚えている。大げさだよ、お前、と笑って肩をバシッとたたかれた。じんわりと痛みが少し残ったけれど、それこそが仲直りの証みたいで心地がよかった。

「今日は人数少ねぇな。何しようか」

 誰かがいきなりそう言ったのを聞いて、今更ながらに皆の顔を見回す。確かにいつもより五人少ない。その中にはけんかの直接の相手であった、あの時のキャッチャーの子も含まれていた。

 ちゃんと謝罪の言葉を言えるか。そして、また皆の輪に戻れるか。そこにばかり拘っていたせいでメンバーに起きた変化に気が付けなかった。

馬鹿だと思う。正しく謝るには、当然ながら本当の気持ちを相手にしっかり伝える必要がある。それなのに、僕は自分のことばかりで、相手のことが疎かになっていた。また、じわりじわりと罪悪感がにじみ出てくる。

 今日姿がない子達は、そんな自分勝手な僕を見透かしたのではないか。そんな疑念が沸いたが、僕はそれを必死に打ち消した。考えすぎだ。現実の世界でたまたま予定が入っているだけかもしれない。それに、友達に疑いをかけることのほうがよっぽど失礼に決まっている。だから、不在の子達の事情を詮索することも敢えてやめにしておいた。

それにたとえ、訊いてみたところで、誰もその質問には答えられなかっただろう。僕たちは脳をインターネットに繋ぐことで、意識と拡張現実を重ね合わせているにすぎない。現実に戻ってしまえば、僕らは赤の他人だ。だから、元より連絡の取りようもないのだった。

 けれど、僕の不安は的中した。次の日も、五人は姿を現さなかった。しかし、それだけでなく、その日は新たに欠席者が二人増えていた。その数日後にも一人、また一人と姿を消していった。

 やはり心の底では、皆、僕を許していないのかもしれない。全部水に流してくれたように表向きはふるまっているけれど、本心ではもう僕は友達じゃないのかもしれない。一緒に遊ぶと見せる、楽しそうな笑顔の裏では仲間の輪を乱した僕を軽蔑しているのではないか。誰かが姿を消すたびに、その疑心は否応なく強まっていき、いつしかまた僕は拡張現実から遠ざかるようになった。

 こうしてベッドの中で、ただじっとしていると、振り出しに戻ってしまったみたいだ。いや、むしろ友人のありがたみを知ってしまった分だけ、孤独に強く寂寥感を覚えるようになってしまった。心なしか、外から伝わる冷気がそれにさらに拍車をかける。

 もう一度あの世界に戻りたい。何度もそう願った。だけど、いつもの広場を見に行って、そこに誰の姿もなかったら。どこにいようとも、僕は一人ぼっちだと証明してしまうことになる。ならば、せめてどこかにまだ僕の友達は存在しているんだと信じていたかった。

 だが、同時に向こうの世界にしか僕の居場所はないとわかっていた。現実ではずっと僕はこの部屋の中だ。自分の力で一歩、足を踏み出さなければ何も変わらない。事態を好転させるチャンスが自然と回ってくるはずはないのだ。

 再び枕元のシルクハットに目を遣る。鉛玉が埋め込まれているように、胸のあたりがずしりと重く感じられる。それでも、もう一度行ってみるしかない。

 意を決して、帽子をかぶり目をつぶった。頭の中はとめどなく不安にあふれている。どうやって、道を切り開こうか。向こうには誰もいないかもしれないのだ。話すらもできない可能性もある。すぐに帰りたい衝動に駆られるが、そこはぐっとこらえてみせた。

 目を開けると、初めてここに来たときと同じ通りに僕は立っていた。あの時と同様に街の人たちが僕の横を通り過ぎてゆく。一つ違ったのは、太陽が地平線間近まで沈みかけていたところだ。黄昏時の街では所々薄闇がわだかまっていた。

 僕は何度か深呼吸をした。その間も人々の往来は止まらなかった。ほとんどの人が、まるで僕のことなんか見えてもいないかのように淡々と過ぎ去ってゆく。でも、中にはすれ違う寸前にちらと好奇の目を向けてくる人もいた。対象は同じなのに、人間の見せる反応は様々だった。

 それに気が付くと、視界が綺麗に晴れていく心地がした。僕の友達は何もあの広場にいた子達だけではない。ここには他にもたくさんの人が訪れている。なら、もう一度友人を作ることだってできる。少しの間でも僕には確かに友達がいたのだからきっと大丈夫。胸に押し込まれた鉛玉が溶けて、流れ出していくような気がした。

 僕はこれからいつもの広場に向かう。それはとっちらかった自分の心を整理するためだ。新たなスタートを切るために僕はあそこへ赴くのだ。

 広場に着くと、案の定、人影は一つも見当たらなかった。閑散としたグラウンドが闇夜に沈みこもうとしているだけだった。

 実際にその光景を目の当たりにすると、少し心臓がちくりとした気がした。小さく風穴があいたような感覚。それが次第にのど元を通り抜け頭部に侵入すると、額や鼻頭が少し揺れ動いた気がした。それに続いて涙が流れた。わかっていたけど、やっぱり少し寂しくて悔しかった。

けれど、これでやっと前へ進める。もう一度僕の友達に会いに行くのだ。

 やがて涙は止まった。踵を返しグラウンドを後にしようとしたときだった。

「おー! 久しぶりじゃん。もうこっちには帰ってこないかと思ってたよ」

 一緒に遊んでいたメンバーの一人が広場の入り口に立っていた。初めてここを訪れたとき、打球を拾いに来たあの子だった。

 あまりに突然のことで、僕は返事ができなかった。彼がこちらに向かって走ってくる。

「ついにこっちの世界じゃ、俺一人になっちゃったんだよ」

 肩を震わせて、何とか声を絞り出す。

「……僕のせい?」

 彼は口を半開きにして、妙な顔つきになった。

「へ? 何言ってんだ、お前?」

「……違うの?」

 彼は苦笑いを浮かべた。

「違うも何も、お前、知らないのか? こないだVR装置の新しいバージョンが発売されたじゃん。だから、みんなそっちに乗り換えてるんだよ。俺も早くあっちの世界に行ってみたいんだけど、親がなかなか買ってくれなくってさ。お金持ちの家はいいよなー」

 首の後ろで手を組んで、彼が不平を漏らす。何を言われているのかよくわからない。

「新しいバージョン?」

「うん。今まではインターネット上にあらかじめ形成された街に、俺らが遊びに行くだけだったけど、新機種だと特定のメンバーを集って、自分たち専用の街を自由に作れるんだってさ。いいよなー。ここなんかよりもずっと広いグラウンドだって一瞬で作れちゃうんだぜ」

 頬を紅潮させ、嬉々として彼は語った。

「この広場じゃダメなの? 別に不自由なんてしていなかったじゃないか」

「そりゃ、そうだけどさー。でも、やっぱ新しいやつ使ってみたいじゃん。皆そう思ってるんだよ」

 僕は細く、震える声で尋ねた。

「……それじゃ、もう皆ここには戻ってこないの?」

「俺たちだけじゃないさ。今ここにいる人もみんな、新しいほうの世界に移動するよ。だから俺も早く向こうに行って皆に会いたい。お前もまだなら、早く親に買ってもらえるといいな」

 そう言って、彼はにっと笑った。目の前に彼は立っているのに、その笑顔はとても遠い場所にあるように感じられた。

 残念だが、僕が新しい拡張現実へ移動できる日は永久に訪れないだろう。今の世界に来るための装置だって、父さんと母さんは相当の無理をして用意してくれたのだ。新しいのを買ってくれなんてとても頼めない。

技術の進歩ってどうしてこんなにも速いのだろう。みんな、どうしてそれについていけるのだろう。不思議で仕方がない。

彼は、ここの人間が全員新しい世界へいなくなると言っていた。そうなってしまえば、僕が友達を作れる機会は永遠に失われてしまう。

結局僕は、最初から一人ぼっちだったのだ。

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残酷な子どもたち 茅田真尋 @tasogaredaru

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