第3話 小さな幸せ
次の日、ジョゼフはあかぎれに効くというハーブの塗り薬を薬局で買った。そして昨日の場所にアイリーンの姿を探した。
「あ、ミスター、こんにちは。昨日はどうも」
アイリーンは左頬を隠しながら会釈した。
「手を出して。ちょっと痛いかも」
「な、なんですか?!」
ジョゼフは塗り薬を冷たくただれたアイリーンの手に塗った。半ば強引なジョゼフの行動に、アイリーンはただ黙っているしかなかった。
「あかぎれに効く薬だ」
「えっ、こんな高価なもの。私の手にはもったいないわ」
「これで少しはましになるだろう。では」
ボウラーハットを少し浮かせてアイリーンの前から去ろうとするジョゼフ。
この人は何でこんなことをするのだろう。変な人。とアイリーンは思いつつお礼を言った。
「すみません。ありがとうございます」
「ああ、そうだ、僕のあかぎれは治ったからもう要らない。よかったらもらってくれない?」
一度帰りかけたけどまた戻って塗り薬の瓶を髪飾りの売り篭のなかに入れて去った。
ジョゼフは自分でも馬鹿げていると思ったが、アイリーンのことが気になって仕方がなかった。ちゃんと食べていけてるのだろうか、いじめらてはないだろうか。誰かにぶたれてはしてないか。
しばらくしたある日、またキングスクロスでアイリーンを見かけた。
「この髪飾り全部いただくよ」
ジョゼフはまたそれら全部を買った。
「髪飾り全部売ったから暇でしょ?少し歩かない?」
と彼女を散歩に誘った。
「え、でも…」
「少しだけ。ねっ」
「は、はい。では…。あの、ミスター、」
「ミスターはやめてくれよ。ジョンだよ。ジョン・ジョーゼフ」
「じゃ、あの、ミスター・ジョーゼフ」
「ジョンでいいよ。あ、いや、ジョゼフだ。それが本当の名前だから」
「では、ジョゼフさん、私なんかと一緒にいると白い目で見られてしまいます。あなたは身なりもいいし、私とは身分も違うし…。あの、なんでかまうのですか?」
「それは…、僕はヨークの田舎者でね、話し相手がほしいのさ」
「ヨークでは何をなされているのですか?」
「あ、ああ…、地主の、なんていうかその跡取りなんだ」
「それならなおのこと、私みたいなものと一緒にいては…」
「いいんだよ。白い目で見たい奴は見ればいい」
ジョゼフは、自分は孤児なんだ。それに、ピックポケットで生きているんだ。荒んだ人生を歩んできたんだ。一生懸命働いている君こそこんな自分とは一緒にいちゃいけない。
と心で思った。
「私は、遠い親戚を頼ってアイルランドからロンドンに来たのです。なかなかちゃんとした仕事がみつからなくて。本当はメイドの仕事をしたいのですが、お給金がいいし、でも、この髪の色に、なによりこの顔の傷、なかなか雇ってくれないのです」
アイリーンは下を向いた。
ジョゼフはなんと言っていいかわからなかった。ふと通りの向こうを見るそこにはスイートショップがあった。
「飴、いらない? スイートショップに行こう」
「えっ?」
「ほら、そこのスイートショップ、スイートぐらい買わせてくれるよね」
「本当ですか?! 私、シュガーマウス食べてみたかったの!」
アイリーンは駅を行き交う身なりの良い子供がときどき食べている、ネズミの形をした砂糖菓子が食べたくてしかたがなかったのだ。
ジョゼフはアイリーンの手を引き、二人して幼い子供に帰ったように、スイートショップにかけていく。
甘い香りのするスイートショップの店内。たくさんのジャーの中に色とりどりのスイートが宝石のように入っている。ここだけが色のある世界のようだ。アイリーンはシュガーマウスのジャーを見つめ目をキラキラさせている。
「ピンクにしようかな。白にしようかな。味が違うのかな」
ジョゼフは売り子に 「ピンクと白、ふたつください」と言った。
「味なんて一緒だよ。色が違うだけさ」
それからというもの、二人の距離は急速に縮まった。
いつの間にかアイリーンも売り子をしながらジョゼフを待つようになった。ジョゼフに会えない時など、もう私には会ってはくれないのかしら。そうよね、私なんかただの貧しい娘。身分が違う。その上、顔に醜い傷がある。思い上がってはいけないのよ。と自分に言い聞かせていた。
ジョゼフはジョゼフでアイリーンを守ってやりたい。という気持ちが日増しに強くなった。けれど、自分はスリ、ピックポケットで生計をたてているこの事実を彼女に言えるのか。こんな自分でアイリーンを守ってやりたいなど言えるのか。この罪にまみれた手でアイリーンを幸せにすることは出きるのか。いつしか、ジョゼフは真剣に考えるようになっていた。アイリーンを守ってやりたいという思いも、もはや愛おしいという思いに変わっていた。
ある寒い夜、ジョゼフがパブの帰りに通りを歩いていると、オムニバスから、派手な婦人が降りてきてジョゼフの前を横切った。その時、婦人のショールが落ちた。ジョゼフはそれを拾いあげ、持ち前のハンサムな笑顔で
「マダム、ショールが落ちましたよ」
とニコリとする。
「肩に掛けてあげましょう」
「あら、そう、ありがとう」
ポッと顔を赤らめた婦人の肩に掛ける。その時、ジョゼフは婦人の首のシルバーの白鳥の形のペンダントを目にも止まらぬ早業でピックポケットした。
「では、ごきげんよう。良い夜を」
何食わぬ顔で、ボウラーハットを浮かして会釈する。
ああ、またやってしまった。ジョゼフは無意識にピックポケットをしてしまった自分に腹をたてた。取るつもりはなかったのにこの手が。俺は一生これなのか。悪いことだとわかっている。それでもこの手が生きていくのに必要だった。この罪にまみれた冷えた手が自分の生きていく
ああ、アイリーン!!
ジョゼフは決心をした。この家業から足を洗うと。
******
「アイリーン、僕と一緒に暮らさないか」
「私を雇ってくださるの?!」
「えっ?」
「だって、あなたはヨークの地主のご子息なんでしょう。私、何でもします!雇ってください!!」
「え、あの、地主と言っても没落していてもうないんだ」
ジョゼフは嘘はったりを言う。けれど、その嘘の中に本心を込めた。
「もう家はないけれど、君と一緒に一からヨークで暮らしたい。一からスタートだ。一からやり直したい。僕はもう地主の息子ではない。身分が違うなんて思わなくてもいい。過去を精算したいんだ」
「え、地主のご子息ではないの?」
「ああ、がっかりかい?」
「いいえ。そんなこと。あなたが誰であろうと、そんなの関係ないの。あなたは私に優しくしてくれた。私、ヨークに行きたい。あなたと」
「アイリーン、君が好きだ。一緒にヨークに行こう」
こくりとうなづくアイリーンの目には嬉しさのあまり涙がキラキラと光っていた。
ジョゼフは今ある盗んだ物を金に変え資金を作るために三日は必要だった。アイリーンには身の回りの整理があるので、三日後に旅立とうと言った。
「じゃ、三日後、ここキングスクロスのキヨスクの横に正午に来て」
ジョゼフはポケットに手を入れると、昨日の夜、派手な婦人からかすめ取った白鳥のペンダントがあった。ふと思い立って
「エンゲージだ」
と、ジョゼフはアイリーンの首にそのペンダントを掛けた。
「三日後に迎えに来る。そしてここキングスクロス駅からヨークへ二人で旅立とう」
「はい。三日後。正午にここで」
ジョゼフはアイリーンの冷えた手を両手でぎゅっと握りしめ、そっとその手にキスをしてその場を去った。
そんな二人の様子をキヨスクの売店のおやじが見ていた。
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