それでもこの冷えた手が ~ジョゼフ・ザ・ピックポケット~
佐賀瀬 智
第1話 ヨークの孤児 ジョゼフ
「泥棒ー!誰かっ、そのガキを捕まえておくれ!」
ジョゼフはパンを小脇に抱え走った。行き交う馬車や荷台を避けながら走った。振り向くとパン屋のオヤジはまだ追ってくる。
「待てーっ!」
「――うあっ!!」
不覚にも前方の馬車から下りてきたマダムのドレスの裾につまづき、派手に転んだ。ジョゼフはそれでもパンはしっかりとシャツの中に入れて落とすことはなかった。向こうから太ったのパン屋のオヤジがせまってくる。
――ヤバイっ、捕まる
転んだまま後ずさりをするジョゼフ。
「この、こそドロがあっ!」
パン屋のオヤジはジョゼフの胸ぐらを片手でつかんで、軽々しく持ち上げた。
――ああ、もうだめだ。
「このクソガキ、これで何回目だ、はあ? このままポリスに連れていってもいいんだぜ。百叩きの刑に強制労働、一年は牢獄だろうよ」
パン屋のオヤジの手が大きく振りかぶった。
――ぶたれる。
ぶたれるのは慣れている。我慢すればいい。ただ、パンだけは、食べ物だけは欲しい。シャツの中に隠したパンをギュッと抱え込んだ。ジョゼフは歯をくいしばってぶたれる準備をした。
「お待ちになって。まだ子供ではありませんか。かわいそうに」
さっき、ジョゼフがつまづいたドレスのマダムがパン屋のオヤジを止めた。
「マダム、こいつは常習犯でして、こちとら商売、上がったりですよ」
「おいくら?私がお支払いするわ」
そう言って6ペンスを渡した。
「うむ…マダムがそうおっしゃるなら…」
パンの代金以上を受け取ったパン屋のオヤジは、マダムに感謝しな、と吐きすてその場を去った。
「坊や、大丈夫? こちらにいらっしゃい。可哀想に、震えているじゃないの」
おずおずとマダムに近寄るジョゼフ。
マダムは自分の手袋をはずして、ジョゼフの手を握った。
「こんなに冷たい手で、おお…まだ幼いのに。あなたいくつ?」
何も答えないジョゼフをもっと不憫に思ったマダムは
「まあ、自分の歳もわからないなんて…」
と涙した。
実際、ジョゼフは自分が何歳なのかはっきりわかっていないし、誕生日がいつなのかわからない。八、九歳ぐらいだろうか。と自分で思っているが、マダムのその質問に答える気は全くなかった。
マダムはジョゼフの小さな冷たい手を握っていっとき温めた。マダムの手は柔らかく温かい。何か花のようなとてもいい匂いがする。
――ああ、お母さんってきっとこんなだろうな。
ジョゼフは無意識にマダムの手に自分の頬をつけていた。
「ああ、可愛そうに…。もう二度と盗みをしてはいけませんよ」
ジョゼフはっと我に返った。その手から頬を離した。マダムを見るジョゼフの目の奥が鋭く光る。突然、山猫か何かに睨まれたように感じたマダムは、「何?どうしたの坊や」と戸惑いを隠せない。
盗みをしないでどうやって生きていけというのか。餓死しろとでもっ!? ジョゼフはマダムの手を振り離し石畳を駆けた。市場を横切り路地を抜け、裏道の裏道を抜けて走った。ジョゼフの小さな心臓は張り裂けそうだった。どのくらい駆けただろう、川辺に着いた頃には雪がちらほら降ってきた。
だれも彼を追いかけてこないと確認すると、リヴァー・フォスに架かる橋の下で、まだ息を切らしながら、握っていた右の手のひらを開く。
ジョゼフの小さな冷たくひえた手のひらには、先ほど、マダムの手を握った時に彼女の指からかすめ取った金の指輪がキラリと光っていた。
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