第2話 髪飾り売りのアイリーン

 あれから十二年の月日が経った。


 ジョゼフはハンサムな青年に成長し、プロのピックポケット、スリになっていた。その手口はもはやマジック。誰にも気が付かれぬ早業、誰も真似することができないピックポケットとしてのテクニックを習得していた。泥棒貴族となったジョセフは名を変え、風貌を変え、その活動場所を点々とした。


 この秋、自らをジョン・ジョーゼフと名乗り、孤児ということを隠し、自分はヨークの地主の息子だと偽りその活動の場をロンドンに移した。端正な顔立ちも大いにそれを助け、きちんとした身なり、言葉使いも自身で学習し、誰も彼を孤児だと疑わなかった。ましてや彼がピックポケットをして生計を立てているなどとは誰も思わなかった。


 さすが大都市だ。人々が忙しく行き交う。絶好の漁場ではないか!


 狙うは中流階級の小金持ちか、労働者階級の成金。リージェント運河で賑わうキングスクロス周辺、まずはこのあたりで様子をみよう。それから西のベーカー街へ行って見るか。さっさと仕事をして足がつかないうちにさっさと場所を移そう。ジョゼフはそう考えていた。



 ジョゼフはパブやシアターに出かけてはピックポケットをした。

 身なりと、言葉使いをきちんとすれば大体の人はころっと騙されるし、誰もジョセフをスリだとは思わない。



 金持ちの女なんか雌豚さ、似合いもしないアクセサリーつけたって醜いだけさ。この俺様が頂いてやる。金持ち成金の男なんぞ、ジェントルマンを気取っているけれど、見てみろ、シアターに集まる男はみんな娼婦が目当てなんだ。娼婦にまんまと貴金属をすられる前に俺が頂いてやる。ざまあみろ!



 ******



 キングスクロス駅の前の広場に、色とりどりの鳥の羽の髪飾りを売っているジンジャーヘアの娘がいた。


「髪飾り、いかがですか? いかがですか?」


 消え行くようなその声は、駅前の忙しい雑踏にかき消された。


 所々破れた古びたドレスにチェック柄のよれたショールを肩にかけ、売り物の髪飾りの入ったバスケットを腕に、薄汚れたボンネットを左側にだけ深く被り、その隠そうとしている左頬には幼いころ負った火傷のひどい傷がある。けれど、右側から見るその娘の横顔は宗教画に出てくるエンジェルのように無垢で美しい。

 通りを行き交う婦人たちは彼女を完全無視か、何人かのきれいな身なりの婦人たちは

「みすぼらしいったらありゃしない、なんて醜いの。あっちにお行き!シッシッ!」

 と手であしらった。


 ある日、髪飾り売りの近くを通ったジョゼフはその美しい横顔に見とれ歩いた。彼女の正面にきて左頬の火傷の跡を見てギョッとした。


 ――かわいそうに、ひどい火傷の跡だ。自分よりもまだ若そうだ。十七、十八歳ぐらいだろうか。


 ジョゼフは何も言わず彼女前を通りすぎることができなかった。


「あの、髪飾りをひとつ頂こうかな」


「はい、何色にしましょうか?」

 その醜い左側を隠すように娘は言った。


「じゃ、この色を」


「パープルですね、流行りの色ですものね。ミスター、どうぞ」


 髪飾りを渡すその手は荒れて奇妙な色に染まっていて見るにも痛々しい。

「その手、大丈夫?」

「あっ」


 娘はとっさに手を隠した。左の頬の火傷の跡をみられるより恥ずかしかった。たぶんそれは、どれだけ酷いか自分で見ることができるからだろう。


「これはひどい。ただのあかぎれではない。ただれているじゃないか」


 鳥の羽を拾い集め、素手で染料で染めるため、こうなるのだという。


「これで、薬を」

 ジョゼフは1シリングを渡そうとした。


 今まで微笑んでいた娘の瞳の奥がキラリと光り、険しい顔つきになった。


「足りないのかい、じゃ2シリング」


「受け取れません。私は物乞いではありません」


 なんて馬鹿な娘なんだ。ジョゼフは思った。今のご時世、底辺で暮らすものは盗んでも金が欲しいだろう。自分がそうだったように。

 だが、その娘の毅然とした態度に、なにか忘れかけた思いがよみがえってきた。あの目。ヨークでの子供心に覚えた屈辱。ジョゼフは苦しく寒く飢えた日々の自分とこの娘を重ね合わせる。


 ――自分もあのマダムと同じじゃないか。


「じゃ、その髪飾り、全部頂こう。いくらだ。それならいいだろう?」


「えっ、本当に?いいのですか?ありがとうございます。ミスター」


 ジョゼフは娘の持っている髪飾りをすべて買った。


「明日もここで売るのかい?」


「はい」


「名前は?」


「アイリーン」




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