エピローグ




 ピアノを弾いている時の彼女には、近寄らないようにしている。


 それで昔ひどく殴られたことがあるのだ。ただとてもいい演奏だと思ったから、一言「すごいですね」と言いたくて声をかけただけなのに、鬼の形相で振り返った彼女は、ピアノの上のメトロノームをひっつかみ、ボクの頭を思い切り殴った。床に倒れたボクを、それから彼女は数分にわたって、硬い靴の先で執拗に蹴り続けた。

 それなのに、どうしてかいつも彼女のピアノが聞こえるとボクは、部屋の前に来てしまう。


 ボクの飼い主たる彼女……ミラが演奏している曲は知っている。最後のジュニアコンクールで弾いていた曲だ。それは屋敷の執事さんから聞いた。もうその執事さんは、仕事に嫌気がさして、数年前に辞めてしまったのだけれど。

「ミラ様?」

 ボクは殴られる覚悟で、部屋のドアを開け、彼女に声をかけた。コンサートに着ていくようなレースつきの優美な黒いワンピースを纏い、耳元には金色のフープピアスが光っている。彼女は無表情で鍵盤を叩いていたが、ボクに気づいて顔を上げると、演奏を続けたままでせせら笑った。

「いい顔だな、シノ。昨日の夜はとても良かったぞ。お前の顔をナイフでいたぶっている時間は、私の人生でも充実感を感じられるやすらぎのひと時だよ」

 顔中に貼った絆創膏と、白いニット服の下の打撲が鈍く痛むのを鬱陶しく思いながら、ボクは用件を淡々と述べた。

「便箋と封筒をもらえませんか?」

「またか?」

 呆れたようにミラが言う。

「言っておくが、お前の家族に連絡をしようとしているのなら、無駄だぞ。あんなちっぽけな一般人には、何もできんよ。どういう手に出ようと、私が金で揉み消してやる。あるいは世間に自分の虐待を公表して、誰かに助けを求めようとしているのなら、そんなことは私には問題じゃない。世間は、お前のことなどどうとも思っていない。いっとき騒ぎになるかもしれないが、すぐに忘れ去られる。諦めろ。薬が切れたらどうする? お前は治療を受けられなくて死ぬ。私はこの後も生き続ける。それだけのことだ」

 ボクは小さく笑った。

「そんなに心配しなくても。ボクはただ……友達に手紙を書きたいだけですから」

「熱心だな。向こうは、お前を友達とも思っていないかもしれないのに」

「だとしても、それが、結社からボクに下された命令なんでしょう?」

 ピアノの演奏がピタッと止まる。鍵盤から手を下ろしたミラが、こちらを見た。

「その件なら、別の人間の派遣を検討中だ。お前が市ノ瀬リアと友人関係を続ける意味は、もうどこにもない」

「手紙、出しちゃいけないんですか?」

「ああ。これ以上市ノ瀬リアに手紙を書くことは、私が許さない」

 ボクはミラに歩み寄った。そして顔を近づけて、こう言った。

「嫉妬してるんだ」

「なんだと?」

「ピアノがいくらうまくったって、あなたの頭は、中学生以下だ。あなたは家族から見放されて、ボクがいなくなったら一人になってしまうから、ボクに必死にしがみついているだけ。小さな子供とまるで同じ」

 ミラはこちらを見上げ、怒りに燃える目で睨みつけた。

「どうやら立場がわかっていないようだな、シノ」

「でも、ボクに友達ができようとできまいと、あなたがボクの主人ってことは変わらない。ボクはあなたの言いなりで、無力で惨めな、からっぽの入れ物。あなたに友達を殺せと言われれば、殺しますよ」

「ふざけているのか?」

「だから、いいじゃないですか。手紙くらい、出したって構わないでしょ?」

 その瞬間、頭に衝撃が走り、視界が白くなって、また頭に何かがぶつかった。ボクは床に倒れていた。絆創膏が剥がれ、まだ閉じない傷口が空気に触れた。ひりひりとした痛みと、熱を持った痛みが、交互にやってくる。立ち上がろうとしたが、力が入らず、ボクは寝そべったままで力なく息を吐いた。

 仰向けになって視線を上に向けると、メトロノームを持ったミラがこちらを見下ろしていた。夜空に浮かぶ月のように孤高で、それでいて美しい彼女の顔は、冷たい怒りに燃えていた。小刻みに震える唇が、やがてポツリと吐き捨てた。

「一月に一度だけならいい。それ以上は許さない」

「ありがとう」

 ボクがお礼を言うと、彼女は靴音を鳴らして、部屋から去っていった。扉が開き、そして閉まる音がする。だだっ広い部屋の中で、ボクはひとり、微笑んだ。

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4.からっぽのいれもの 名取 @sweepblack3

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