魚図鑑

コマチ

第1話

私の乗る観覧車から眺める海は綺麗なように見えた。これだけ高い場所から見ると、例え産業廃棄物で汚れていたとしても青く見えるものだ。向かいに座る青年も黙って外を見ている。観覧車は私たちを乗せてぐんぐんと更に高度を上げていった。視界がずっと高くなる。外は晴天、目線の先には大都会。そして濁りを隠した海。その海の中に生き物はいるのだろうか。いや、確かにいるのだろう。汚れた水の中でも逞しく生きる生き物達がいる。

「この後、どうしようか」

青年が言った。

「ここまで来たし、そこの水族館行こうよ」

「そうだね」

会話はそれだけだ。また沈黙の中観覧車は退屈なほどゆっくりと回る。間もなく頂上で、鉄骨からも解放された景色の中ではまるで宙に浮かぶような心地になる。空は今日も高い。


言葉を交わさないまま観覧車を降りた。青年は黙って私の隣を歩いている。観覧車乗り場から目と鼻の先にある水族館へ二人して向かった。広場にはそれなりに多くの人が行き交っている。親子連れにカップル、友人同士、様々だ。

「チケット買おうか」

「うん、一緒に行くよ」

誘導に従ってチケット販売所に並ぶ。水族館とはこんなに入場料高かったのかと驚く。構わないのだけど。

「水族館なんて久々だ」

「私もだよ。前に来たのは小学生の頃かな」

「僕もそれぐらいかな」

来たことはある。何となく中の様子も覚えている。水族館なんて改修される事もそうそうないだろうから、内装は変わってないだろう。

そう話していると程なく私たちの順番になり、言われるままにお金を払う。チケットに印刷されたのは魚でもイルカでもなく、カワウソだった。青年のチケットはこの水族館のメインである大水槽を泳ぐジンベエザメ。

「……いいな」

「交換する?」

「いや、別にそこまでじゃないよ」

そしてそのまま入場ゲートを潜り館内へ進んだ。薄暗い館内にはやはりそれなりの人がいて、ゆっくりと流れに沿って歩いていった。


様々な海の様式のディスプレイをゆっくりと見ながら進む。

「綺麗だね」

うん、そうだね。何の捻りもない返事をしながら、黙々と案外静かな館内を回る。

そして巨大水槽のフロアへと着いた。

大きな大きな大水槽の中を巨大なジンベイザメが悠々と泳ぐ。ゆっくりと、その巨体をくねらせながら。

その姿に何だか胸が苦しくなる。何故だろうか。ただ私も黙るしかない。穏やかに泳ぐ魚達に目が釘付けになる。

「どうして」

彼が口を開いた。

「どうして、僕をここへ?」

私を見ないまま、その目線は水槽だ。

「……魚が、好きだって言ってたから」

「そんなこと言ったっけ」

「うん、言ってたよ」

いつの日か、なにかの会話の拍子にそう言っていたのを私は覚えていた。いつか一緒に水族館に行けたら、なんて事を同時に思っていたものだから、きちんと記憶に残ったのだろう。

「うん、魚は好きだよ。どこが、とか言われると困るんだけど」

彼はそう言ってまた黙った。私も合わせてまた黙る。

けれどいつまでも同じ場所にいるわけにもいかない。なのでゆっくりゆっくりと歩みを進めながら、大水槽の周りを出口へと向かう。もう間もなく出口だという時、彼がまた口を開いた。

「連れてきてくれてありがとう」

「ううん、私も来てみたかったから」

「でも、ありがとう。当分来れないだろうし、楽しかったよ」

黙ってばかりでどこが楽しかったのか私にはわからない。

「キミと静かに過ごすのは好きだったんだ」

「……そう」

「本当だよ。黙っていてもしんどくない」

「ならいいの」

手を繋ぐこともせず、私たちは水族館を出た。


彼は遠い国へ行くと言う。いつ日本へ帰ってくるのかも分からない。夢を追いかけるんだ、そう言って楽しそうに彼は笑う。彼の夢が叶えばいいと思う。

「気をつけてね」

「うん、ありがとう。キミも体に気をつけるんだよ」

「あなたに言われたくないよ。異国で体調崩すなんて洒落にならないんだから」

「それもそうだね、気をつけるよ」

駅前でそんな会話をする。ここで別れるともう会えないだろう。

「キミも、これから先頑張るんだよ」

「私なりのペースでやれる事をやるよ」

「その調子だ。いつでも遊びにおいで」

「お金貯まったら考えるよ」

彼はまた笑う。私はなんだかうまく笑えなかった。少し寂しい。

「……あのね」

「うん?」

「あなたと、出会えてよかった」

彼はきょとんとした後、破顔した。

「僕もだよ。キミと出会えて、たくさん話が出来て、楽しかったよ」

くしゃくしゃの笑顔で私を見る彼に、私はなんだか切なくて、嬉しくて、やっぱり寂しかった。

「……寂しくなるよ」

「会おうと思えばまた会えるさ」

屈託なく笑うこの人が少し憎たらしい。

「それじゃあ、行くよ」

「そうだね。本当に気をつけて」

「ありがとう、また落ち着いたら連絡するよ」

「待ってるね」

「うん、じゃあ、バイバイ」

「……バイバイ」

彼は手を振って別のホームへと消えていった。この後ろ姿が最後なのだろうと、私はそれを目に焼き付けた。

また会えるなんて、きっと嘘だって理解している。でも彼は私のためにそんな優しい嘘をついたんだ。私が彼を慕っていたことも、気がついてるだろう。それに一切触れずに旅立つのは彼の優しさだ。彼は優しい人だった。


その帰り、私は最寄り駅の書店になんとなく寄った。店内を宛もなくぶらぶらした。彼の行く国のガイド本なんかを手に取って眺めた。女々しいだろうか。それでもその本を手放せなくて、結局それを持ったまままた店内を歩いた。気がつくと児童用の辞典や図鑑のあるコーナーへ来ていた。こんな所あまり来ないから、懐かしいような気持ちでそれらを眺める。その中で、今日見た魚が大きくプリントされた図鑑に目が止まった。

「……魚図鑑」

そう言えば今日は魚ばかり見て、名前なんて気にして見ていなかった。

ぶ厚い表紙を捲り、いくつかの写真を目に映す。

「……」

分厚く大きな重いその図鑑を、私はガイド本と一緒に手に持った。こんな大きな本を持って帰るなんて億劫に違いないのに、私はレジへ向かっていた。


キミと一緒に見た魚の名前を一つ一つ覚えてみよう。いつか、いつかキミが帰ってきた時、また一緒に行きたいと思った。その時、私が詳しくなっていたらキミは驚いた顔をするだろう。そしてまた笑うんだろう。キミの色んな顔が見たくて、その顔の続きが何年後か分からないけれど、今私はそうしたい。私のやりたいことだから、構わない。

ずっしりと重たい紙袋を下げながら、私は寂しさを紛らわせるように鼻歌を歌って帰った。

また、いつか会えますように。


-終わり-

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魚図鑑 コマチ @machimachi

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