グッド・バイ・ミス・ヴァンパイア

藤井

第1話

「私ね、太陽の光を浴びてみたいの」

 そう語る彼女のことを今でも鮮明に覚えている。太陽の光を彼女は浴びられない。なぜならば彼女、イヴはヴァンパイアなのだから。

 諦念が入り混じったイヴの表情は、月光に照らされて、ゾクゾクする程に綺麗だった。

「どうしてお日様を浴びたいの?」

 まだ六歳の私は、無邪気にそう聞いた。イヴは面白いジョークを披露する時のような表情でこう言う。

「ヴァンパイアのほとんどが、いつも暗い顔をしている理由を知っている? 太陽の光を浴びないからよ。日光浴が出来ないから、幸せホルモンのセロトニンが分泌されなくて、皆、うつ病になっちゃうの」

「イヴは、うつ病なの?」

「いいえ、私は違うけれど」

「なら、お日様浴びなくても良くない?」

 くつくつ、とヴァンパイアは笑った。本当に、本当に綺麗な笑顔だった。彼女のそんな素敵な笑顔を見るためなら、小学一年生にとって最もホットな遊びの一つである粘土いじりが出来なくなってもいいし、私の大好きなおじいちゃんが死んだって構わないな、なんて考えた。イヴは粘土やおじいちゃん以上に大好きな存在なのだから。

「サクラは、ロジカルね」

「ろじかる?」

「論理的……って言っても、わかんないか。頭が良いってこと。おりこうさんね」

 イヴは微笑みながら、私の頭を撫でてくれた。ああ、多分、これ以上の幸せはこの世に存在しないのだろう、と六歳ながらに感じた。

「本当はね。私の夢のために、太陽を克服したいの」

「夢? イヴの夢って?」

 イヴはその美しい腕を夜空に向ける。

「地球の外に行ってみたい。もう、何千年も地球で生きてきたんだもの。そろそろ、宇宙観光に行きたいな~って」

「夢はあきらめなければ、きっと叶うって先生が言っていたよ」

「ふふ。いい言葉ね」

 イヴはそう言ったが、その眼は漆黒の闇よりもなお昏かった。それで私は気付いた。

「ウソだ。ちっともいい言葉なんて思ってないでしょ。私が子どもだから、落ち込ませないように適当に話を合わせたんでしょ」

 眼の前にいるゾッとするほどに美しいヴァンパイアは一瞬、呆気にとられたようで、その数瞬後、あははは、と笑った。オペラみたいに綺麗な笑い声だった。

「やっぱり、サクラは頭が良いのね」

 そう言って、再び頭を撫でてくれる。それで私は学習した。私の頭が良いことを証明すれば、イヴに褒めてもらえる。パブロフの犬だ。

「そう。私は、諦めなければ夢が叶うなんて思っていない。どんなに努力したって出来ないことは存在する。きっと、私はこれからも日の光を浴びられないし、宇宙飛行士にだってなれない」

 そう語るイヴの顔があまりにも綺麗で、儚げで、悲しげだったものだから、

「そんなことないよ」

 私は、そう言った。

「私がなんとかしてあげる。だって、科学に不可能はないってお父さんが言っていたから。頭の良い私なら、イヴにそんな顔をさせないようにしてあげられる。科学の力で」

「それは……楽しみね」

 イヴはその顔を私に近付けて、おでこにキスをした。イヴの唇はひんやりとしていて、とても気持ちが良かった。きっと、「しあわせほるもんのセロトニン」とやらが、私の頭の中で暴れまわっているに違いない。


 ■ ■ ■


 私とイヴとの出会いは、満月の夜だった。

 夜中にふと目が覚めた私は、夜中に一人で行くのは怖いなあと思いながらお手洗いに行き、キッチンで牛乳を飲んだ後に部屋に戻り、さあ、また夢の世界に戻ろう、とした瞬間に、部屋の外から、がさり、という音が聞こえた。

 私は怖いなあ、お化けじゃありませんようにと思いながら、意を決して窓を開けた。

 そこに居たのは、血まみれの美女だった。私の家の庭に倒れ込んでいる。なあんだ。お化けではなかったから、怖くはなかった。

 その美女は息も絶え絶えといった様子で顔をどうにか上げ、

「こんばんは、お嬢さん」

「こんばんは、おねえさん。私はサクラ。救急車でも呼ぶ?」

 そう私が言うと、お姉さんは力なく、

「いいえ……救急車は結構。それよりも、サクラの血を飲ませてくれたら、とても嬉しい。私はヴァンパイアなの」

「うん、いいよ。私の血をあげる」

 不思議なことに、私は彼女が本当のことを言っているのだとわかった。六歳の私は、すでに、サンタクロースはお父さんだということを知っているくらいには聡明だった。そんな私が、彼女が血を吸う化物なのだと信じた。

 私は窓から抜け出して、倒れているヴァンパイアの元にしゃがみ込む。

「どうすればいいの?」

 そう問いかける私に、吸血鬼は、力を振り絞って体を起こす。

「サクラの指に少しだけ傷をつけて、そこから血を吸わせてもらうの。指を切るの、ちょっぴりだけ痛いけれど大丈夫?」

「それって、お注射よりも痛い?」

「ううん。それよりはちっとも痛くない」

「なら平気」

 ヴァンパイアはこくり、と頷いて、私の右手の人差し指を、彼女の鋭い爪で軽く引っ掻いた。確かにちょっぴりだけ痛かった。けれど、全然我慢できる程度だった。

 私の指から、血が、命の欠片がたれてくる。それを美しきヴァンパイアは、蠱惑的に舐めた。その色気に私はクラクラとした。胸とお股がキュンとする。多分、私が性的な感情に目覚めたのはこの時が最初なのだと思う。もちろん、その瞬間は、そうとは気付いていなかったけれど。

 こくり、こくり、とヴァンパイアの喉が鳴る。私の血が、この綺麗な化物の一部になっていく。そのことに、私はたまらなく興奮していた。

 しばらくして、彼女は私の指から口を離した。私の人差し指と彼女の口の間には、血の混ざった体液による橋が出来ていた。その橋を月光が照らす。

「ありがとう、サクラ。おかげで、元気が出てきたわ」

「それよりも」

 私は自分の人差し指を舐めてから言う。鉄の味に混じって、甘くていい匂いのするクッキーみたいな味がした。しばらくは、それがヴァンパイアの味なのだと思っていたけれど、後になってこのことを思い出してみると、多分、寝る前に食べて手についたクッキーの粉を感じていただけな気がする。どうでもいいけれど。そんなことより、話を元に戻そう。

「貴方のお名前は? 私は名乗ったのに、まだ貴方は名乗っていない。そんなのってズルい」

 しばらく私を見つめた後、ふと、うふふっ、と彼女は微笑む。

「ごめんなさい、サクラ。私はイヴ。始祖の人間にして、始祖のヴァンパイア」

「紫蘇?」

 私は明らかに違うだろうなと思いつつそう言うと、イヴはぷくーっと頬を膨らませた。小学一年生なりのジョークなのに。けれど、イヴのその膨らんだ頬が少女みたいにとても可愛らしかった。ともあれ。

「どうして倒れてたの?」

「ちょっと、この辺りで凄腕のヴァンパイアハンターと戦ってね。何とか返り討ちにはしたけれど、いやはや。最近の若者は凄いね」

 そう言いながら、イヴは立ち上がる。マズい、と私は思った。このままだと、もう二度とこの人と会えなくなる。だから、私はこう尋ねた。

「また会える、イヴ?」

「ええ。貴方がそう望むのなら、サクラ」

 にっこりと、イヴは微笑んだ。すると、次の瞬間、ヴァンパイアはどこにも居なくなっていた。


 ■ ■ ■


 それから満月の夜が訪れる度に、イヴは私の家に遊びに来てくれた。彼女はとても優しくて、とても物知りで、とても人間的だった。

 イヴはいつも、私の話をまるでお母さんのように聞いてくれた。私を産んでくれたお母さんは、もう何年も前に死んでいた。顔も覚えていない。だから、イヴは私にとってお母さんで、先生で、友達だった。

「太陽の光を浴びたい」

 彼女がそう言ったのは、忘れもしない。私達が出会って6回目の事だった。

 私は、イヴの願い事を叶えるためならば、人生の全てを賭けたってちっとも惜しくはないと、六歳ながらに考えた。

 その話を聞いた翌日から、私は父の研究所へと足繁く通うようになった。父の研究はナノマシン。それにこそ、全てを解決する鍵はあるのだと、六歳の私は固く信じていた。


 ■ ■ ■


 それから八年後。どうやら私は本当に頭が良かったようで、とあるナノマシンの開発に成功した。ヴァンパイアを太陽という呪いから解放するための科学の力。人類の叡智の機械。

 私が偉大なナノマシンを開発してから初の満月の夜。やはりいつものように、庭にイヴが現れたので、私はやはりいつものように人差し指をナイフで切り、イブへと差し出す。

 イヴは私の指へと吸い付く。八年前と変わらない。いや、あの時よりもイヴは美しくなったし、私は大人に、そして綺麗になった。

「美味しい?」

 私の指と血をとても愛おしげに舐めた後、イヴは、

「ええ、もちろん。サクラの血は特別に美味しい」

 そうヴァンパイアは微笑んだ。特別扱いされて背筋がゾクゾクする程に嬉しかったけれど、同時に、イジワルがしたくもなった。

「この前、人工血液を、美味しい美味しいって飲んでたくせに」

「あ、アレはその……。なんていうか? ジャンクフード的な美味しさっていうか? サクラの血の家庭的な美味しさとはまた違うもの……」

 そう、ちょっと困ったように答える数千歳のイヴがとても愛おしかった。イジワルをして満足したので、

「八年前の事を覚えている?」

 と私は尋ねた。

「もちろん。私達が出会ったのが、八年前よね……」

「そうじゃないの。いや、そうなんだけど……」

 私はポケットから、注射器を取り出す。中身は緑色で、月光に照らされたそれはエメラルドのようだった。

「私が言いたいのはね、イヴ。貴方の夢を私なら叶えてあげられるってこと」

 イヴは目を白黒とさせ、それからしばらく考えた後、何かに気付いたようで、

「サクラ、もしかして……」

「ええ。完成したの。貴方の太陽アレルギーを克服するナノマシンがね」

 その時のイヴの顔と来たら。なんと形容すべきなのだろう。自分の子供が初めて言葉を発した時の親の顔とでも言うべきなのだろうか。とにかく、とても感動した様子で、彼女は私をハグした。

「ありがとう……。私のために頑張ってくれたのね」

 私もイヴをハグする。幸せだった。きっとセロトニンがドバドバと放出されているに違いない。

 私はイヴを家へと招き入れ、その注射器を彼女の真っ白な腕へと突き刺す。少しずつ、私の開発したナノマシンがイヴの体内へと入っていく。

「んんっ……」

 まるでセックスだ、と私は思った。注射器は私のペニスで、ナノマシンは私の精子。ナノマシンがイヴに注入されていくのを見ながら、私は奇妙な快楽を覚えていた。かくも美しき童貞卒業。

 このナノマシンが全てを変える。イヴの呪われたヴァンパイアとしての身体を作り変えていくのだ。

「……これで、本当に太陽が平気になったのかしら?」

「イヴは私のこと、信じられない?」

「いいえ、まさか。ごめんね、バカなことを言ったわ」

 その日、私達は一緒のベッドで寝た。それはこの八年間で初めての出来事だった。


 目が覚めると、イヴはカーテンの前で佇んでいた。

「おはよう、サクラ。行くわよ……」

 イヴは思い切りカーテンを開ける。太陽の光が部屋の中に飛び込んでくる。イヴはその場に倒れ込んだ。

「イヴ!?」

 私はイヴに近寄る。まさか。ナノマシンは完璧だったはず。

「ゴメン……。大丈夫……」

 イヴは泣いていた。陽の光を浴びながら。ナノマシンは、彼女の身体を作り変えることに成功していた。

「太陽って、こんなに綺麗だったんだ……。もう何千年も見ていなかったから、忘れてた……」

 泣くヴァンパイアの背中を、私は、そっと抱きしめた。


 私の父が交通事故で亡くなったのは、それから約一ヶ月後のことだった。


 ■ ■ ■


 父の葬儀やら、後片付けやらで忙しくて、頭が回らない日々が続いた。

 気付けば私は、父の弟の家に引き取られることになっていた。引き取られることに同意した覚えなんてなかったが、まあ、しばらく休みながらゆっくり考えようと私は思った。父の死や、これまでのナノマシン開発のために人生を捧げてきた生き方に、私は少し疲れていた。

「さあ、食べなさい」

 私を養子に迎え入れた当日、シンジおじさんは、夕飯に大層なごちそうを用意していた。ローストビーフやらサラダやら何やら。全部どうでもいいが。

 私は渋々、まあ食べられそうなものを食べていく。どれもこれも味がしない。強いて言うのならば悲しみの味といったところか。

 五分の一程度食べたところで、食欲が完璧に失せたので、私は水を飲んで部屋に戻ることにした。

「私、もう寝るね……」

 そう言って、私はシンジおじさんの顔を見る。獣のような顔をしていたのがやたら印象に残った。


 部屋に戻り、私は椅子に座った。涙が出てきた。イヴ程ではないとはいえ、私はお父さんのことを愛していた。お父さん。

 ふと、頭にもやがかかったような気がした。何だろう。頭が回らない。そこでふと気づく。私は眠いんだ。まだ夜の七時なのに。

 父の死で疲れているからだろうか、と一瞬考えたが、それはおかしい。私は深夜二時より前に寝ることも眠くなることも決してない。イヴと会う貴重な機会を失わないよう、私は自分をそう律していたのだから。

 だから、この眠気は異常だった。そして、ようやく気づく。あの食事に薬が盛られていたのだろう。睡眠薬が。

 そのことにやっと思い当たった時、ドアの扉が開く音がした。かろうじてそちらを向くと、そこにいたのはシンジおじさんだった。下半身には何も履いていない。

 そうか、つまり、私を引き取ったのはそういう理由でね。意識を失う直前。シンジおじさんの後ろに、闇よりもなお昏き影が見えた気がした。


 眼を覚ますと、私はベッドの中に居た。なんだか、鉄の匂いがする。

「おはよう」

 そう言って、微笑みながら私の頭を撫でてくれたのはイヴだった。

「おはよう」

 と私は答えた。

 イヴの後ろに眼をやると、そこには、豚みたいな死体があった。もちろんそれは豚などではなく、シンジおじさんだった。

「ありがとう。私を守ってくれたんだ」

「ゴメン。サクラの家族を……」

「ううん。あんなの、家族じゃない。そんなことより……」

 私はシンジおじさんの情けない死体を見ながら言う。

「私の血とシンジおじさんの血、どっちが美味しかった?」

 イヴは難しい顔をしながら、

「親戚だからかな。結構味は似てたけど……」

 私が余程不機嫌な顔をしていたのだろう、イヴは慌ててフォローする。

「もちろん、サクラの方が美味しかったよ。断然。誰よりも」

「なら良い」

 そう言って、私は笑う。親戚が数メートル先で無様に死んでいる部屋の中で。

「それで……これからなんだけど。良ければ、私と一緒に暮らさない? 殺人鬼の私が言うのも何だけど……」

 私は、しばらくイヴを見つめた後に、ハグをした。

「断るわけないじゃない。よろしくね、ヴァンパイアさん」


 ■ ■ ■


 それからの半年間は、私の人生においてもっとも幸せな、つまり、セロトニンが放出された時期だった。

 イヴは極々普通なアパートを借りて暮らしていたのだけれど、その部屋の内装はとてもセンスの良い赤と白で統一されていた。ヴァンパイアらしい。

 やろうと思えばヴァンパイアの魅了の力でいくらでも豪邸に住めるはずなのに、そうはしないイヴの控えめなところがまた、私は好きだった。

 イヴはいつも忙しそうで、朝から家を出ていることが多かったが、晩ごはんは必ず一緒に食べた。ある日は、私はトマトシチューで、彼女は人工血液。

「人工血液のその白い色。まるで精子みたい」

 そう私が言うと、イヴは顔をしかめながらパック内の人工血液を飲み干した。そのしかめっ面が可愛くて、愛らしかった。


 ■ ■ ■


 平和が崩れたのは同棲が始まって半年が過ぎた頃だった。

 毎晩必ずイヴは帰ってきたのに、その日の夜は帰って来なかった。

 私は胸騒ぎを覚えながら、ひたすらに待つ。

 結局、朝まで待っても、イヴは帰ってこなかった。

 数週間後、一通の手紙が届いた。イヴからだ。

 何でも、手練のヴァンパイアハンター達に追われているらしく、しばらくは帰れないとのことだった。私に危害が及ぶかもしれないから、これから連絡は断つとのこと。

 私は何年でもイヴを待とうと思った。愛する人を。


 ■ ■ ■


 それから一年後。

「ただいま~」

 と呑気な声が玄関から聞こえてきた。この家の家主、イヴだ。

「……おかえり」

「わ、ますます綺麗になったね、サクラ」

 イヴは私を抱きしめながら、そう言う。懐かしき愛する人の匂い。血の匂い。甘い匂い。

「……お腹空いてない?」

「実はペコペコ」

 私は笑い、ナイフで人差し指を切る。その血をヴァンパイアに飲んでもらう。

「んっ……」

 イヴの舌による優しい愛撫に私は感じた。気持ちいい。やはり、私の側にはイヴが居ないとダメだ。

 こくん、と私の血を飲んだイヴは、

「ありがとう」

 と笑った。どういたしまして、と私は答えた。

 私はリビングの椅子に座って、イヴに問いかける。

「それで、イヴを追いかけてたヴァンパイアハンターとやらはどうしたの?」

「何とか振り払った。だから、こうして懐かしき我が家に戻ってきたんだもの。でね、この一年間の旅で、大切なことが決まったの」

「大切なこと?」

「そう。私ね、宇宙へ行くの」

 イヴのとても朗らかな笑顔に、私までつられて笑ってしまう。そうか。ついに、イヴの夢が叶うのか。その夢を叶えるために、私は途方もない時間と労力をかけてナノマシンを開発したのだ。私の苦労がいよいよ報われようとしている。

「何十年も前に出会ったNASAの友人が融通を利かせてくれたの。ヴァンパイアなら人間には耐えられないような過酷な環境でも生きられるし、良い実験にもなるぞってことで、私が思っていたよりも案外あっさり計画が通ってね」

「おめでとう、イヴ!」

 実験動物みたいな扱いを受けてないだろうかとちょっと心配な部分はあるが、そんなことよりも、イヴの夢が叶うということの部分のほうが大切だ。私はイヴの手を握る。人間とは思えないほど、いや、人間ではないから当然といえば当然だが、スベスベと美しい手だった。

「それで、どこへ行くの? 月? 火星? それとも木星?」

「ううん。もっと遠く……」

 私は頭の中で、水金地火木土天冥海、と考える。

「なら、土星……」

「ううん。そうでもない。もっと遥か遠く。人類がまだ知らないところへ行くの」

「それって……。もしかして……。帰ってこない……つもり?」

「……うん。出発は、来週」

 私は身体が震える。そんな。まさか。私が考えていた展開とは違う。まるで違う。だって私は、イヴは当然帰ってくるものだってずっと信じていた。この一年間を耐えられたのだって絶対にイヴが帰ってくるという確信があったからだし、私がナノマシンを作ったのだって、火星や木星に行って地球に帰ってくるイヴのためだった。私はイヴが間違いなく帰ってくると思っていた。だって、イヴは私を愛しているのだから。帰ってきてさえくれるのならば、おばあちゃんになるまで私は待てた。

 私は決定的に誤解していた。イヴは帰ってくる気がない。私は愛おしい化物の手を離し、後ずさる。わからない。イヴが何を考えているのか。通じ合っていると思っていたのに。

「ウソ……」

「ずっと前から思っていたの。遠くへ行きたいって。サクラのおかげで夢が叶うの。本当に感謝してもしきれない……」

 ヴァンパイアがその美しい声で何かを喋っているようだが、私にはその言葉の意味が理解できない。

 気付けば私はナイフをその手に握っていた。私の指を切り、イヴに血を飲んでもらうために砥いできたナイフ。私はそれで何をすればいいのか、明瞭過ぎる程に理解していた。

 イヴは困ったように微笑んでいた。私の胸は高鳴る。やっぱり私はこの人を愛している。だから、この手から二度とこぼれ落ちることのないよう、永遠を手にするために、私はイヴの胸をナイフで突き刺した。

「あうっ……」

 悲鳴すらも綺麗だった。イヴは床に倒れ込む。私は馬乗りになり、イヴの胸を何度も何度も突き刺した。

 一刺し毎に血が部屋に舞い散る。まるでクッキーのような甘い匂いだ。

 絶望と共に私はナイフを突き刺し続ける。ふと気づく。ナイフとはペニスだ。私はイヴとセックスをしている。私はナイフをイヴにねじり込む度に、この世の終わりのような気分と、天国にいるみたいな絶頂を同時に味わっていた。

「ああああああああああっ!」

 そう叫んでいるのはイヴだと思っていたが、どうやら私の方だったらしい。

 涙で眼の前が霞んでいたが、急に景色が明確になる。イヴがその手で、私の涙を拭ってくれたから。

 血まみれのイヴはやっぱり、さっきと同じく、困ったような笑顔だった。

「ゴメンね……」

「どうしてっ……! どうしてぇ!」

 私のその疑問には答えず、イヴは、

「サクラは私の大事な……」

 大事な、何だろう。友達と言ったら殺そう。私は友達以上だと感じているのだから。娘のようなものと言っても殺そう。『イヴ』にとっては確かに、アダム以外の全人類は自分の子どもみたいなものだろう。それはつまり、私が特別な存在ではないことを意味しているのだから。私の気に入らない答えなら殺そう。そうするしかない。

 イヴは続きを口にする。

「……私の、大事な人だから」

 その言葉に、私はナイフを握っていられなくなり、からん、と床に落ちる。涙が溢れて止まらない。イヴはギュッと、私の手を握る。冷たくて温かい。私は泣きながら言う。

「せめて……せめて、私を殺してよぉ……」

「そんなこと、できるわけないでしょ……」

「なら、私が死んでから宇宙に行って……。一緒に居てよ……。側を離れないで……」

「それもできないの……。ヴァンパイアハンター達が力をつけている。近い内に、私を殺すほどの力を得るわ。その前に、行かなくちゃ……」

「そんな……」

 私は子どものように泣きじゃくった。そんな私を、イヴは優しく抱いてくれた。

「ねぇ、イヴ……」

「なあに……?」

 ぽんぽん、とイヴに背中を叩かれながら、私は言う。

「キス……してくれる?」

 イヴは私の眼を見つめながら、微笑んだ。そして、彼女の唇が、私の唇に重なる。

 その時、私達は本当の意味で一つになったのだと思った。注射器やナイフを男性器に見立ててセックスをする必要なんてなかった。私達のあり方はこれが正解なんだ。


 それからの一週間、私達はずっと語り合った。これまでの人生のことを。自分達がどれだけお互いのことを愛しているのかを。手を繋ぎながら。時にはキスをしながら。


 ■ ■ ■


 私はイヴの乗ったロケットを遠くから見守る。

 当然、ヴァンパイアが宇宙に行くなんて話はごく一部の人間しか知らない。私はその一部。

 イヴがどこへ行くのかは教えてもらえなかった。というよりも、誰も知らなかった。

 あのロケットはデタラメに飛んで、水や空気の存在する惑星を見つけたら、その時、着陸する。惑星が見つかるまで、イヴはコールドスリープし続ける。

 いつか人間が、いや、ヴァンパイアが住むに相応しい惑星を見つけたら、イヴは目覚め、ロケットに積んだ冷凍精子で妊娠し、子を産む。

 イヴはもう一度、イヴになるのだ。


 私はロケットを見送った後、父の残した研究所へと戻る。


 私はガソリンをバラマキ、火を放つ。これでナノマシンに関するデータは全て消える。私の手元にあるこのナノマシンを残して。

 しばらく注射器を眺めた後、私は自分に注射をする。このナノマシンは、人を不老不死にするもの。イヴのためにあれこれナノマシンをいじっているうちに出来た副産物だ。

 これで私は死なないし、老けない。だが、ヴァンパイアではない。イヴはこう言った。「サクラは大切な『人』」だと。そう。私は人だ。

 私には無限の時間が出来た。イヴにも、無限の時間がある。であれば、きっといつか、また出会える。

 もう一度彼女にあったら、何を言おう。ゴメン、だろうか。もしくは、ありがとう。それとも、愛している?

 考える時間は無限にある。私は燃える研究所を見ながら、イヴの笑顔を想像した。

 セロトニンとナノマシンが頭の中で暴れまわっているのが、理解できた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グッド・バイ・ミス・ヴァンパイア 藤井 @hujii_njima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ