癒えない傷、忘れた名前

樹一和宏

癒えない傷、忘れた名前

 その日、起床と同時に憂鬱になっていた。名状しがたいくすぶりが、腹の底に沈殿している。

 あんな夢を見たのは、もうすぐ開催される高校の同窓会のせいだろうか。

 カーテンの隙間から入る朝日に照らされて、宙を漂うホコリが煌めいていた。

 隣で眠るの頬に光りが差していて、僕は思わずその頬をつついた。一瞬眉間に皺が寄り、逃げるように寝返りをうった。

 これ以上睡眠を邪魔しないように、そっとベッドから滑り降りると、出勤の支度を始めた。

 起きて十分もすれば、夢の内容なんて曖昧になって、明瞭に思い出すことは困難になる。

 朝食の準備をしながら、何となしに夢の尻尾を追い掛けたが、思い出せたのは高校時代の友人達の夢を見たことぐらいだった。夢の中で彼らと何をしたのかまでは、思い出せない。しかし、特別嫌いだったという訳でもない彼らのことを思い出して、こんなにも憂鬱になることはありえない。何しろ思い出しかないのだから。

 ならどうして、こんなにも晴れない気持ちが続くのか。理由は明白だった。

 君のことを思い出したからだ。

 君のことをこうやって、考えるのいつ以来だろう。少なくともここ数年、いや五年近くは頭から抜け落ちていた。当時はあんなにも毎日君のことばかり考えていたのに、気付けばあの頃の熱が嘘のように消えてしまっている。

 思い出そうとすれば、あやふやな記憶が朧気に映るだけ。

 君が他の男子と話していて嫉妬したことも、席替えの度にドキドキしたことも、メールの返事が来なくて落ち込んだことも、冗談を言って怒らせてヘコんだことも、色々あったはずだ。だけどどの場面も、すぐには鮮明に思い出すことが出来なかった。

 未練はもうないし、僕にはもう婚約者がいる。なのに、ふと君が僕の中で大切に扱われていたことを思い出しただけで、またすぐに君はしばらく僕の中に居座りだす。

 それはかつて、同じ制服でごった返す人波の中で君だけを容易に見つけられたみたいに。

 寝室のドアが開いた。重たそうな瞼をぶら下げた日向子が、ゆらりゆらりと歩いてくる。


「ごめん、起こした?」

「いや、喉渇いただけ」


 淹れ立てのコーヒーが丁度目の前にあったので、飲む? と日向子に差し出すと


「バーカ、飲むわけないでしょ」


 と横を素通りして、冷蔵庫の水を一口飲んだ。


「あれ、いつだっけ」


 日向子が唐突に言った。同窓会のことだとすぐに分かったが、最近日向子が妙に気にしている手前、


「あれって?」


 と身に覚えがないふりをして、同窓会に興味がないアピールをした。それがどの程度効果があるかは分からないが、不安視している日向子を煽るよりはいいだろうと思った。


「同窓会のこと。もうすぐでしょ?」

「あー、明日だよ」


 日向子はそっか、と興味なさげに返事をすると、もう一眠りに寝室へと引っ込んでいった。

 朝食を食べ終え、歯を磨き終えると、いつもの出社の時間になった。

 アパートを出ると、冷たい風がスーツの隙間に入り込んできた。そろそろコートを出した方がいいかもしれない。

 大通り、駅の中、通勤通学で大勢の人の中を、僕は一度として見たことがないのに、無意識にあの頃ように君の後ろ姿を探した。当然見つかるはずがない。分かっている。でも世の中、どんな奇跡や偶然が隠れているのか分からないもの。

 僕と日向子が偶然出会ったみたいに、予定調和にいかないことなんてたくさんあるから。


 

 君と初めて会ったのは、高校の入学式の日だった。

 目覚まし時計がタイミング良く電池切れしてしまい、僕は壮大に三十分遅刻してしまった。

 自転車で通学路を駆け抜ける。昔から登校の時間に見かけていたこうの生徒達が全く見かけられず、焦りと共にペダルに込める力が一層増した。

 校舎が見え、更にスピードを上げる。

 これなら間に合う。

 そう確信した瞬間だった。角から飛び出してきた人影に目を見開いた。耳に響く女性の悲鳴。両手でブレーキを力いっぱいに掛け、ハンドルを思いっきり切った。

 体側面に掛かる慣性に引っ張られて、踏ん張りの利かない体が宙に投げ出される。上下左右が一瞬にして目まぐるしく入れ替わり、地面へと衝突する。

 自分でも何が起きたのか理解できず、声が掛けられるまで痛みさえ感じなかった。


「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」


 顔を上げると、そこには荒く口呼吸をする女生徒がいた。同じ学校の制服、同じ学年色の赤リボンを付けていた。


「あ、あぁ、うん、大丈夫大丈夫」


 立ち上がろうとすると、途端、膝やら掌に痛みが走った。


「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」


 女生徒はあたふたとしてしまっていた。それを手で制したものの、痛みで思わず顔をしかめてしまう。


「保健室……それとも救急車……」


 携帯を出してどこかに掛けようとする女生徒を「待って」と止めると、


「なんとか歩けるから保健室に行くよ。悪いんだけど、自転車押してくれる?」


 と頼んだ。女生徒は「はい」と小走りで倒れた自転車を起こして、僕と一緒に歩き始めた。

 罰の悪そうな顔を浮かべる女生徒がなんだか不憫に思えて、僕は軽口を叩くことにした。


「まさか僕と同じで、初日から遅刻する人がいると思わなかったよ」

「ごめんなさい……」

「あ、いや、謝らないで。遅刻で謝るなら僕だって謝らなきゃ」


 女生徒は小さく笑うと「そうですね」と表情を和らげた。

 校門をくぐる僕らの上には、入学生を迎える桜が満開に羽を広げていた。


「あの、名前を教えてもらっていいですか?」


 まさか女生徒の方からそんなことを聞かれると思っていなかった。僕は出来る限りの明るい表情を作り、ぐらしけい、と名乗った。


「君は?」


 尋ねると、恥ずかしかったのか、少し間を空けてから意を決したようにしてから言った。


「私は――」


 

 突然のクラクションに、我に返った。咄嗟にアクセルを踏み込むと、助手席のいなが声を漏らした。


「あ、ごめん」

「それはいいんだけど、どこに行くつもりだ? 取引先は今の交差点左だぞ」

「あ、ごめん」


 近くの飲食店の駐車場で切り返す。お店から出てくる家族につい目がいってしまう。


「同窓会で昔好きなだった子に会えるからってボーッとすんなよ」

「そんなこと考えてないから」

「あんまし仕事に影響が出るなら啓戸は欠席にするからなー」

「大丈夫だって。稲瀬だって、この前ツナ缶と間違えて猫缶買って、奥さんに怒られたって聞いたぞ」

「な、お前、それ誰から聞いた!?」


 秘密、と僕はニヤリ答えると、取り乱す稲瀬の姿に笑った。

 そんな表面で笑う僕の裏側には、どうしても笑いきれない自分がいた。

 それは、君の名前が思い出せなかったからだ。

 用もないのに、大したことでもないのに、君と話がしたいがために何度も名前を呼んだのに、君の名前が全く思い出せない。

 稲瀬に尋ねることは出来た。でも、たった今『そんなこと考えてないから』と否定したばかりで、訊くことなんて出来るはずがなかった。

 まるで喉に刺さった小骨みたいに、違和感が少しの痛みを発している。

 忘れてしまったことは少なからず、ショックだった。



 それは一段と暑い夏の日のことだった。

 連日最高気温を更新する猛暑日。止めどなく汗が滲み出て、眩しいアスファルトに映える建物の濃い影が、恋しくて仕方がなかった。

 その日、陸上部の練習で夏休みに学校に来ていた僕は、稲瀬を含む陸上部員達と一緒に、基礎練として校庭を走っていた。

 トラックを十周すると、一度休憩が挟まれ、僕達はペットボトルとタオルを持って体育館の影へと避難した。


「こんな日に外で走れとか、遠回しに死ねって言われてるようなもんだよ」


 稲瀬の小言に付き合っていると、一人の部員がヤバイよヤバイよ、と極めて抑えた口調で、でも隠しきれない興奮を露わにして駆け寄ってきた。


「どうした?」

「体育館裏で今、コクってる奴がいる」


 僕と稲瀬は目を合わせると、すぐさま現場へと急行した。

 体育館の角を曲がると、男女の二人組の姿があった。バレないように腰を落とし、息を殺し、茂み伝いに近寄っていく。


「何言ってるか分かんねぇんだけど、ホントにあれコクってんの?」


 稲瀬が文句を言うと、発見した部員が


「さっきはそれっぽいこと言ったのが聞こえたんだよ」


 と反論した。そんな二人に僕は「静かにしろ」と背中を小突いた。

 ジリジリと近づく。話しているのは分かるが一向にして会話の内容までは判然としない。こんなにおいしい状況、滅多にないと逸る気持ちとは裏腹に、前を行く二人が突然止まった。

 早くいけよ、と訴えると


「駄目、茂みがここで終わってる」


 と稲瀬の小声が聞こえてきた。

 仕方ない、とアンテナのように首を伸ばす。隣の二人も僕と同じことをしだして、稲瀬がに至っては手で双眼鏡を作り始めた。


「あれ、男子の方はA組のバスケ部の奴だよな…… 女子の方はあー、後ろ向いてて分かんねぇ、ラケット持ってるからバド部ってのは分かるんだけどなぁ……」


 男子の方は僕にも見覚えがあった。だが、この場において男子の正体はどうでも良かった。問題は稲瀬が分からないという女子の方。僕はその体操着の後ろ姿にとある人物に面影を感じ、戦慄していた。

 稲瀬が分からないというのも無理はない。女子の体操着なんて見慣れてないし、髪をポニーテールにしている人なんて普段はいない。


「どっちがどっちに告ったの?」


 稲瀬の質問にもう一人が


「たぶん男の方。さっき片手差し出して頭下げてたから」


 と部員が答える。

 二人の男女はそれから変わらない距離感で少し会話をすると、部活の休憩時間が終わるのか、足早に去って行った。


「俺達も戻ろうぜ。休憩が終わる」

「結局よく分からなかったな」


 稲瀬ともう一人が骨折り損したように、ダラダラと肩を落として去って行く。

 僕はというと、嫌な予感が、胸いっぱいに広がっていた。

 部活が終わるとすぐに、僕は君に『今日部活だった?』とメールをした。

 しばらくすると『うん、部活だったよ!』と返信が来て、携帯をベッドに放り投げた。



 仕事から帰ると、一日休みだった日向子が夕食を作ってくれていた。

 今日何していたとか、テレビを一緒に見て、普段通りの時間を過ごした。ソファでくつろぎ、手を繋いでいる間でも、僕の脳裏には薄らと高校時代の映像が流れていた。

 きっと今日の夢にも出てくるだろう。あの頃の苦い思いに馳せられないように、僕は日向子の温もりを強く求めた。


 

あれから、君がA組のバスケ部の人と一緒にいる所をよく見るようになった気がする。

 移動教室の合間や、遠目から見かける部活の姿、偶然すれ違った廊下で、二人が喋っているのをよく目撃するようになった。

 真偽は分からない。誰かにあの二人付き合ってるの? と質問をして、変に僕の気持ちが勘ぐられるのは嫌だったし、本人に訊く勇気も持ち合わせてはいなかった。だからといって二人の関係を聞けるような仲の人もいなかった。

 そうこうしていると季節は移り変わって、あの息苦しさすら覚えた夏は、残暑すらも消えて、色褪せたみたいに、至る景色が寂しくなった。

 落ち葉を踏むと、紅と黄色が小気味の良い音を鳴らした。

 そんな枯れ色の中、ある日、急に君の元気がなくなった。

 いつも見ていたからその違いにすぐに気が付いた。目元、口元、頬、声など、細かな所が普段より心なしか下がっている。


「大丈夫?」


 何て声を掛けても、返事はいつも「何のこと?」と首を傾げるだけだった。

 友達の輪の中で笑う君の表情は笑いきっておらず、どこか温度差を感じてしまう。

 どうにかしたかったが、僕にはどうすることも出来なかった。出来るのはただ毎日、くだらないことを言って、君の気持ちを紛らわすことだけだった。いや、実際それが出来てたかどうかも怪しい。困ったように笑うのをよく見たような気もする。一人で空回りしていただけかもしれない。

 秋はそれだけだった。



 同窓会当日になった。行くのが、少し億劫になっていた。昨日の夜、日向子にそのことを伝えると


「たまには羽を伸ばしてきなさい」


 と背中を押された。

 カーテンを開けると、霜が張っていて、外の気温は昨日よりもグッと寒くなっていた。

 もう冬だとは言い難いが、秋はもう終わったみたいだった。


  

 雪が降った。町は静かにゆっくり死んでいくみたいに、全てが白く染まっていく。

 吐く息も白く、突き刺すような冷気は体の末端からその感覚を奪っていく。耳の先なんかは、学校に着く頃にはいつ取れてしまってもおかしくない。

 そんな中、凍える指先を動かして、僕は携帯を開いて受信箱を覗いた。増えていないのを確認して、センターに問い合わせをしてみたが、新着のメールはやっぱり来ていなかった。

 溜息を吐くと、一瞬にして白く凍って消えていく。

 このままこの憂鬱が全部、白く消えていってくれたいいのに。

 君にはバスケ部の彼氏がいる(たぶん)。それでも僕は一度でいいから、君と二人で遊びに出掛けてみたかった。冬の寒さで人恋しくなったからかもしれない、あと数ヶ月で終わる高校生活に寂しさを覚えたからかもしれない。

 何にしろ僕は、君をデートに誘ったのだ。しかし、土日を挟んでも、そのメールに返信はなかった。

 マフラーの中に亀みたいな首を引っ込めると、僕は歩みを早めた。

 やっとの思いで下駄箱に辿り着く。廊下の時計を見上げると、時刻は朝八時五分前だった。

 一刻も早く教室に行って、ストーブに当たりたかった。この時刻ならもう、あの人が来ているはずだ。

 僕はクラスでも早く登校する部類だが、一番ではない。

 どのクラスにも一人は異常に早く登校する変わり者が存在する。特に変わった性格でもないけど、クラスに一番で来ることが自分のアイデンティティーみたいな人が。

 教室に入ると、想像通りその人はいた。ストーブの前に椅子を置いて、一人優雅に当たっている。僕の存在に気付くと、読んでいた本を閉じた。


「おはよう、日暮くん」

「おはよいけうちさん」


 僕は池内さんの反対側に陣取ると、ホッと息をついた。池内さんがくすりと笑った。


「今日も寒いね」

「参っちゃうよ」


 いつもの池内さんの台詞に、僕もいつもの返事をする。それを皮切りに、僕らは昨日の話や、今日の授業の話をし始める。僕らの会話は次の生徒が来始める約十分間続く。

 二人だけの教室で、ストーブが出ている期間の間だけ。

 池内さんとは特別仲が良いわけではなかった。機会があれば話す、それだけの仲だ。

 僕自身、池内さんを意識してなかったし、君のことが好きなのは変わっていなかった。

 だからその時、池内さんが


「日暮くんって、好きな人いるの?」


 と訊かれて、僕は思わず「え」と声を漏らしてしまった。

 池内さんを見ると、眼鏡の奥の瞳がどこか照れくさそうに震えて、明後日の方向に逃げようとするのを必死に堪えているようだった。頬が赤いのはストーブに当たりすぎただけだろうか。

 何て答えればいいのか分からなかった。

 欲を言えば彼女は欲しかった。君には彼氏がいて、僕の願いが叶わないのは知っている。でも、だからといって、池内さんと付き合って、どうこうというのは想像がつかなかった。

 いや、そもそも、こんな質問だけで池内さんが僕に気があるなんて考えが飛躍しすぎかもしれない。だとしたら、この質問に何の意図があるのだろう。

 とりあえず僕は、池内さんとの距離はこのままでいたいと思った。

 しばらく考えた後に、答えを決めた。


「……今はいない、かな」


 ドサッ、と後ろでものが落ちる音がした。

 振り返ると、クラスの真ん中に君が立っていた。信じられないものを見たというような表情を浮かべ、弾かれたように教室を飛び出していく。


「待って、――さん!」


 僕が動いたのは反射的だった。普通ではないその形相に、焦りが胸に満ちる。

 幾つもの机と椅子にぶつかって、廊下に飛び出す。角を曲がっていくのが見えた。あの方向は特別棟の方だろうか。

 廊下を駆けると、暖まったはずの体が一瞬にして冷めていく。

 どうして逃げたのか分からない。池内さんとの会話に何か引っかかることがあったのか。

 とにかく僕らを見て、走り出したことは間違いない反応だった。

 階段を上り、渡り廊下を駆け抜ける。


「待って!」


 僕の声は聞こえているはずなのに、一切の反応を示さない。明らかに僕を無視しているようだった。

 ――さんが、今度は階段を駆け下りる。あともうすぐで捕まえられそうになり、僕は階段を飛び降りた。直後、階段の陰から体育教師が現れ、ブレーキの利かない体は吸い寄せられるように、ぶつかった。


「おい、あぶねぇだろ!」


 二人して倒れておきながら、未遂で終わったかのような言い草の教師。無視して追い掛けようとしたが、当然、見逃してくれるわけもなく、僕は職員室まで連行されることになった。

 体育教師と生活指導の二人掛りで、高三にもなって何やってんだ、そんな調子じゃこの後の人生も――どうこうとみっちり絞られ、教室に戻る頃にはクラスの注目の的になっていた。仲の良い奴らに茶化され、笑って誤魔化しつつも、教室を見渡して、君の姿を探した。

 どこにもなく、授業が始まれば戻ってくると思っていたが、結局その日、君の姿を見ることはなかった。メールの返事もなかった、翌日には出席してきたものの、わざとらしく外される目線や離される距離に、僕は話しかけることが出来なかった。

 

 それから幾ばくかの日々が過ぎ、卒業式を迎えた。

 大泣きする稲瀬と僕は固い握手をした。それから四年後に大学を卒業した僕らが偶然にも同じ職場になるというのを、この時は想像すらもしていなかった。

 君はというと……一体どうしていたのだろう。

 結局あれから一度も声を掛けることすら出来なかった。君の進路すら知らず、校門を出て去って行く後ろ姿。きっともう二度と会話することが出来ないだろう。そうは理解しているのに、今引き留めなきゃ絶対後悔すると分かっているのに、一歩ずつ遠ざかっていく君の後ろ姿を、ただジッと見つめていることしか出来なかった。



 洒落たホテルの一室、というわけではなく、会場は居酒屋だった。

 仕事を抜け出せたのは開始時刻と同じ午後六時だった。それから電車で移動して、店前に到着したのは四十分後。

 引き戸に手を掛けた所で深呼吸をした。磨りガラス一枚隔てた向こうからは楽しげな声を聞こえてくる。

 同窓会の手紙が届いてから今日に至るまでに、何度と十年前のことを思い出した。今日というこの瞬間に、不安と億劫さが入り交じる。

 意を決し、引き戸を開けた。視線が集まり、そこら中から歓声が押し寄せてきた。


「啓戸おせーぞ!」


 有休を取り、先に来ていた稲瀬がそう言うと、一部がざわついた。


「え、ホントに日暮くん?」「言われれば確かに面影あるかも」「随分変わったな」等々。


 稲瀬の手招きで隣に座ると、見覚えのある面々が笑顔で挨拶をしてきてくれた。それだけで知らず、億劫さも消え去ってしまう。

 知らず僕は笑顔になっていて、あれこれと皆と近況を報告し合った。

 十年で、変わった人もいた。変わってない人もいた。正解とか間違いとか、そんなのないはずなのに、羨ましく思ったり、こうならなくて良かったと思ったりしてしまう。

 僕はどうなんだろう。大学を卒業して、就職して、婚約して。皆はいいなーって言ってきたけど、僕からしてみたら当然苦労はあったけど、こうなることは当たり前だったことのような気がする。端から聞いたら模範通りの人生な気もする。

 そうこうしていると、ガラガラと引き戸が開く音がした。


「わー、皆いるー」


 ふと蘇る当時の君の声。ハッとして振り返った。女性陣の歓声の向こうに、君がいた。

 長かった髪が首元まで切り揃えられ、スーツを着て、ヒールを履いて、大人の女性になった君がいた。

 僕とは違うテーブルに座り、周りの人達と談笑し始める。

 何度と経験した既視感のある光景だった。同じ空間にいるのに、声を出せば届くのに、君は僕とは違う人達と楽しそうに会話をする。

 知りたかった。確かめたかった。僕達の距離感は十年経っても、今も変わらないのかって。僕だけの片想いのまま、君のことを遠目から見続けないといけないのかって。

 直後、目が合った。目を見開いてしまう僕に、君はそっと微笑んで、手を振ってくる。


「そういや、日暮くん婚約したんでしょ?」


 手を振り返そうとした瞬間、横から顔を出してきたのは池内さんだった。


「え、あ、うん、そうだよ」

「どんな人? どこで知り合ったの?」

「看護師。大学時代に知り合ったんだよ」


 横目で君を見ると、あの視線は既に、なくなっていた。

 

 会は九時過ぎまで続いた。途中から十年分のブランクがなくなり、皆口々にまた会おうと話し、連絡先を交換している人達もいた。

 居酒屋を出ると、出来上がった稲瀬は仲の良い連中と二次会に行くそうだった。僕も肩を組まれたが、明日も仕事だからとその腕を組解いた。

 半分ほどいる帰る組。駅に着くとそれぞれのホームにちりぢりに散っていく。

 駅までの道、ずっと隣にいた池内さんが別れ際に連絡先を訊いてきた。断る理由もないので教えていると、電車を一本逃してしまった。時刻表を見ると、次の電車まで二十分あった。

 ホームに降りると、向かい側の電車が発車した瞬間のようで、無人のホームに寒々とした風が吹き抜けた。同窓会の喧騒を終えて、ポッカリと空いた穴の埋め場所を探すように、乗り口を選んでいると、視界の隅に誰かいることに気が付いた。

 僕を見ると、その人物が椅子から立ち上がった。


「帰り道一緒かなって」

「ごめん、今は引っ越して反対なんだ」

「なんだ、それは残念」


 お店じゃ話せなかったから、と付け加え、君が僕の目の前に立った。

 僕は未だに君の名前が思い出せないでいた。卒業アルバムを見れば、すぐに分かるが、そのためだけに態々実家に帰るのも面倒くさい。


「久しぶりだね。いつ以来だろ」


 君が小首を傾げて言う。


「十年ぶりだよ」

「それは分かってるよ」


 冗談のように微笑んだ君の笑い方は何も変わっていなかった。

 僕らは仲が良かったあの頃のように話し合った。十年分の空白を埋めるみたいに、今だからこそ出来る当時の答え合わせをする。


「結局バスケ部の人とは付き合ってたの?」

「うん、付き合ってたよ。確か三ヶ月ぐらいかな」

「あの時、何で逃げたの?」

「あの頃は若さ故っていうの? 自分でも誰が好きか分からなくなってたんだよねー。未練もあったし、いつも気に掛けてくれる君がずっと傍にいたし、それで若干君の方が好きかなーってなってる所に池内さんの『好きな人いるの?』って質問と君の『今は好きな人いないかな』ってのを聞いたらワーってなっちゃんだよね。それで池内さんが君のこと好きなら中途半端な私は身を引こうって思ったの」


 聞けばなんともない話だった。傷つけあったわけでもないのに、僕らは傷ついて、傷の分だけ少しずつ今の僕らに成長してきた。

 今交際している人がいるのか、はたまた、もう結婚したのか。気になりはしたが、そんな質問をすれば、僕らはまたあの頃の熱を取り戻してしまうような気がする。

 黄色い線の内側まで下がるようにと、アナウンスが流れる。見ると、暗闇の向こうに電車の光が迫ってきていた。


「またお別れだね」


 君が一歩前へ行く。直後、胸を掻きむしったのは卒業式のあの時に感じた焦燥感だった。


「――ねぇ」


 思わず声を掛けてしまった。振り向く君は素知らぬ顔をしている。

 名前を聞こうと思った。だけど、名前を聞くなんてそんな失礼なこと、相手を傷つけるに決まっている。

 逡巡している間にも電車が到着してしまう。アナウンスと、乗り降りする人達の往来が僕の鼓動を煽り立てる。渇く喉に鞭打ち、僕は口にした。


「ごめん、その、名前なんて言うんだっけ?」


 怒るか、失望するか、ショックを受けるか、僕は悲しむ君の顔を覚悟していた。だけど、君は僕の予想に反して、アルバムを捲る一時ひとときのような儚げな微笑みをした。


「……もうすぐ変わるんだ。じゃあね」


 君が電車に乗ると、それを待っていたようにドアが閉まった。

 手を上げ返すことに精一杯で、じゃあね、なんて言い返せなかった。

 電車はゆっくりと速度を増し、窓越しの君と振り切れるまで目を合わせた。やがて視界から消え、遠ざかる光だけになっても、僕はその小さな光が消えるまで目を離すことは出来なかった。

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癒えない傷、忘れた名前 樹一和宏 @hitobasira1129

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