第5話


「…もう笑わないの?」


 ひとしきり大笑いしてやっと落ち着いた。 まったく今日はなんて日なのだろう。

 

 わけのわからない涙を流したり、大笑いしたり、人生でこんなに忙しかった日は無いだろう。 


 でも決して悪い日じゃなかった。 それだけは言い切れる。


「べ、別に…私が美咲に男が出来ることには反対しないわよ?で、でもそうなって私のことどうでもよくなっちゃうのはそれは何か違う…ああっ!違う、私、何を言ってるの?」


「もう大丈夫ですから…私が祥子さんのことなんてどうでも良くなっちゃうなんてありえませんから」


「…本当に?」


 ジロリとこちらを見る。 でも私にはその姿はとても可愛らしく思えるのだ。


「ええ、本当ですよ…でも、あのときの祥子さんのこと思い出すと…くっくっく、ごめんなさい…やっぱりまだ駄目でした…ぷっくっく、アハハッハ!」


「もう美咲のことなんて知らないんだからね!」


「ご、ごめんなさ…っ、駄目だやっぱり無理!アッハッハッハ」


「もうっ!……ねえ、美咲?」


「は、はひっ、なんですか」


「私の詩人名って久遠って言うでしょ?その意味は知ってる?」


「いいえ…だって聞いても適当に決めたとか、好きなマンガの主人公とか言って真面目に答えてくれないじゃないですか」


「それは悪かったわよ…その、恥ずかしかったからね、でもこうなったら正直に言うわ。私の付けた久遠って名前はね?」


「…はい、なんですか」


 彼女は少しだけ顔を赤らめて、そして目をそむけながら、


「久しく遠い。 誰だって隣にいても永遠にわかりあえない。 それでもそれでもときに、ううんごく稀にわかりあえると思える人がいるかもしれない。だからその人に会えることを。 定められた運命の人、離れていてもいつかは会える存在、久しく遠い存在。 それを夢見てつけた名前がそれよ」


「はあ…そうなんですか」


「そ、それでね…そういう人が見つかったら、その人にだけ言おうって決めてたのわ、私の名前の意味」


「えっ?それって…」


「ま、まあ…考えていた人とはちょっと違うけど、親友とも違うし、なんていうか大事な人って言うか、でもそれは…その好きじゃないとはまた違って…ああ!とにかく私にとってあんたは大事な存在ってことよ…ってちょっと、なんで泣いてんのよ!」


「えっ?私、泣いてますか?」


 頬がヒリヒリとする。 流した水が夜風に晒されて乾いたところがまるで火傷のように少しだけ痛む。


「もう、拭きなさいよ、これじゃ私が泣かしてるみたいじゃない」


「ある意味、祥子さんが泣かしてるんですけどね」


「ちょっとそんなばっちいもので拭かないの、私のがあるから、本当に手が掛かるわね」


 彼から借りたハンカチでもう一度拭こうとしたが、それを強引に奪い取って祥子さんは自身のハンカチで私の涙をふき取る。


「はあ…今日は色々と疲れたわ。このあとにもう一度やんなきゃいけないのに」


「えっ?またステージに立つんですか?」


「そうよ、店の計らいでね、私だけ特別にってこと…だいたいこの間の雑誌にそのことも書いてたでしょう」


「だってステージの予定日はいつも祥子さんから直接聞いてたから…恥ずかしいからあまり見るなって言われてたし…」


「ああ、そうね…とにかくもう一回詩を読むから!ちゃんと聞いてなさいよ。それとあの男とは離れた席…ううん、向こうからきそうだし、ステージの裾にいなさい!いいわね?わかった!」


 口早にそういうと彼女は私の手をまたとってステージへとつれていく。


 行く途中、ハンカチを貸してくれた彼はマスターと何か話をしていて気づいてはくれなかった。


 それを私は残念に思ったのだろうか? ホッとしたのだろうか?


 それはわからない。 

 

 だっていまは胸の真ん中がホッコリと暖かくて、それを考える余裕なんてなかったのだから。



 やがて久遠がステージに再登壇した。


 上がった彼女はやや緊張したようにマイクを持って、少しだけ語る。


「え~、今日来てくれた方々、ありがとうございました。私は、その…これといった特技も無くて、ただ詩を書くことだけしかしてきませんでした。 なので自分でも驚くほどに駄目で、それをよく大事な人に怒られます。でもそれを許してくれる大事な人はとても大切でかけがえも無くて、だから自分でも馬鹿なんじゃないかと思えるけれど甘えてしまって…だから、その今から読む詩はその大事な人に向けて作りました。 聞いてください。



 

 それは久しく遠い存在。 それは部屋の隅よりも、世界の果てよりも、宇宙の先まで遠くて、でも懐かしいもの。


 そして願って止まないもの。


 すがりつく幸せと怒られる喜び。 もしかしたら間違っているかも。


 ときには言い争うけれど、それすらも愛しい日々 それにヒビが入らないことを祈りつつも考えて握る指先は熱い。


 一緒にいることは幸運だけれど、それが一緒ではないことはしってるの。


 それでもあなたとここにいる。 それが好き。 だからいつまでもまたここで。


 傷つき、疲れ果ててもどうかいつまでもここで。


 貴女のことを考えているのにまた背を向ける。

  

 どうしようもなく私だから、背を向けた私。 あなたのその指と指の先、触れ合う一センチにも満たないその場所だけで私はここにいられる。

 

 久しく遠い存在 久遠のあなたよ。 


 例えば熱も消え、凍えてしまいそうになってもあなたと私はここにいる。


 それだけでここが好き。 だからまたここで。


 あの場所でいつまでもここにいる。 だからまたここで会いましょう。

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