第2話

土曜日の二十時。 店の中はそこそこ混雑していた。


「今日はいつもよりお客さんが多いですね」


「ああ、そうなんだ久遠ちゃんが雑誌に乗ったでしょう?それ目当てなんだよ」


 久しぶりに増えたお客の姿にマスターは喜びを隠せないようだ。 忙しそうでも嬉しそうに注文を受け取っている。


 はあ、祥子さんの人気が出てきたのは嬉しいけど、また機嫌が悪くなるだろうな。

 

 祥子さんは意外に気難しく、また人見知りでもある。


 『ステージに立って自作の詩を披露してるのに』と私が言うと、『そりゃしょうがないでしょう?自分の本当にやりたいことなんだもん、それくらい我慢するわよ、私だって大人だしね。』


 本当の大人は掃除もちゃんとするし、来た服はちゃんと片付けるでしょう?


 そう言うと「なんかお母さんみたい」と言うから、私は「誰がお母さんですか!祥子さんの方が年上でしょう?とうっかり言ったのならばまた、例のおばさん扱いした~がはじまるので私ははいはいと受け流す。


 それはたまにイラっとすることもあるけれど、意外に私はそれを楽しんでいることに気づく。


 はあ、彼氏も出来ないで年上の女の人の世話なんて我ながら枯れてるなとは思うけれど。


「君も久遠目当てなの?」


 不意に声をかけられて、振り返る仕立ての良いスーツに眼鏡と爽やかそうに前髪をあげた男が立っていた。

 

「え、ええ…まあ…」


 まさか同棲してますなんて言えないから曖昧に答える。


「僕もそうなんだよ、ほら、この雑誌を見てさ」


 彼が広げたのは件の雑誌の特集ページだった。 


すぐ開けるようにページには折り目がされていて、その雑誌の末尾に載ったイベント告知の日付には赤マジックで大きく○が着けられていた。


「いや~、久しぶりに現れた詩人だからね、僕も大学の時にポエトリーディングやってったから思わず来ちゃったんだよね、ほら、ここに載せてあるこの詩がいいんだよね」


 なんだろう? 祥子さんが評価されてるのは嬉しいはずなんだけど、なんか変な違和感がある。 


 この気持ちは一体なんなんだろう? 心がざわつくようなチクチクするような。


 その男の人はその後も熱っぽく久遠の詩のここが良いとか語っていて、そこは私も好きなフレーズだったから会話自体は盛り上がった。


 大丈夫かな? ぎこちなく笑えてないかな?


 それでもやはり彼が久遠を褒めるたびに心は落ち着きをなくしていく。

 

 もしかしたら嫉妬してるのかな?


 確かにこの人はそんなに悪いわけじゃないけど、さすがにそれは早すぎるよね。


 やがて会話が途切れた。 それも薄暗い店内全体が。


 まるで時間が止まったかのように不意に。 


「ほら、出てきたよ」


 耳元で囁く彼の声に心臓がドキンと跳ね上がった。


 あれ? 私、どうしたの?


 それを振り払うようにステージに視線を向ける。


 祥子さんは…ううん、久遠はいつものようにステージに立っていた。 


 まるで優れた絵画、彫刻のように誰もが目を離さない。 強いられたかのように。


「いや~、やっぱり華があるね、彼女は」


 マスターも今は仕事を忘れてステージの久遠に魅入っている。


 リーディングは静かに始まった。 


 それは歌うように。 叫ぶように。 ステージの上から降り注ぐように感情の豪雨が降り注ぐ。


 誰かがため息をつくのが聞こえた。 それは隣だったかもしれない。 あるいは周囲? この狭い店内?


 どうでもよかった。


 あの人は私とは違う。 何も無い私とは違う何かを持った稀有な存在。


 居間のソファでダラダラと文句を垂れていた姿は幻で、一緒に居ることはもしかしたら儚い夢だったのかもしれない。


 ちょんちょんと肩を叩かれた。

  

「わかるよ、彼女凄いもんね」


「えっ?」


 差し出されたハンカチを一度見て、彼をまたもう一度見る。


 そこで私は泣いていたことに気づいた。


 ああ、これは何の涙なんだろう? 悲しいとも嬉しいとも違う。 


でもそのどちらかでもあるようにも思えるし、また別のようにも思える。 

 

 必死で考えるけれどわからない。 でも涙だけはただ止めどなく瞳からあふれ出すのが止められない。


 ハンカチを受け取って、何度も瞼を拭うけれど、いつまでもハンカチが湿るのをやめてくれない。


「うん…わかるよ、わかるよ」


 隣の彼は優しく背中を擦りながら私を慰めてくれる。


「…………」


 ふと、見上げると祥子さんが私を見ていた。 その、細い眉と少し吊りあがった切れ長な瞳で渋い顔をしながら。

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