麻雀
@namamuginamagome
麻雀
「悠馬くんはあんなに頑張っているのに、大輝と言ったら・・・」
これは母の口癖だ。いや。母だけでなく近所の人間のほとんどがそう思っていたのかもしれない。
それだけ幼馴染の河野悠馬と俺の人生は明暗はっきりと分かれていた。
河野悠馬といえば、今ではその名を知らない者はいない天才プロ野球選手である。今年、高卒2年目にして三冠王を達成した彼には早くもメジャー移籍の話もあがっているほどだ。
「俺だって・・・」
俺だって中学の頃までは悠馬から三振を取れるほどのピッチャーだった。高校で肩を壊さなければ甲子園のマウンドにも・・・
「ロン!」
目の前に座る色黒の中年男がいやらしく金歯を覗かせた。
「大輝くんだいじょうぶう?もうこれで五十万だよう?」
「なんだか今日の大輝くんは張り合いがないなあ」と上家(*自分の左隣)に座る白髪混じりの男も笑う。周りを囲む野次馬たちの蔑みの目が背中に浴びせられるのを感じた。
「五十万円・・・」
大学生の自分にとってあまりにも現実離れした数字を受け入れるのに時間がかかった。どうやら俺はまたいつものように現実逃避をしていたみたいだ。上手くいかないことが起こるたびに悠馬のことを考えてしまう。自分こそ誰よりも悠馬と自分自身とを比べているらしい。
一度咳払いををして周りを見渡す。俺は駅前にある「みんなの雀荘」という麻雀荘にいた。みん荘と呼ばれているその雀荘は東村という五十代の男が一人で経営しているのだが、そこでは夜になると常連たちによって賭け麻雀大会が開かれる。野球をやめてからずっとのめり込んでいたので麻雀には自信のあった自分は風の噂でそのことを聞いてから、小遣い稼ぎに頻繁に出入りしていた。オヤジたち相手に金をかすめるのは実に簡単なもので、賭け麻雀のおかげで俺はバイトもせず楽に暮らしていくことができた。
しかし、今日はいつもと勝手が違った。原因は下家(*自分の右隣)に座るマスク姿の男だ。新顔のようだが、こいつが卓にいるせいでずっと自分のペースが崩されている。俺が高い手で上がろうとすると安い手でさっと上がり、俺以外の二人を助けるような捨て牌をすることもある。上級者になれば一人をマークして上がれなくするのは簡単なことだ。きっと俺に巻き上げられてばかりのオヤジたちがプロを雇ったに違いない。オヤジたちも自信満々に賭け金を引き上げていたくらいだ。俺を貶める絶対的な自信があったのだろう。そういう思惑があると分かっていたにも関わらず、いつか自分にもツキが回ってくるという根拠のない自信のせいで俺はもう引き下がることのできない状況まで追い込まれてしまっていた。
「どうするう、大輝くん?まだ続けるう?」
金歯男が俺の目の前で札束をひらひらと振ってみせた。財布に手を伸ばさなくてもわかる。今の俺に五十万なんて手持ちがあるわけない。現時点で俺には二つしか選択肢が残されていなかった。一つはここで頭を下げてオヤジたちに借金すること。そしてもう一つは勝負を続けて負けを取り戻すことだ。
マスクの男と俺の間に運だけではどうにもならない実力差があることは分かった。ここで一番現実的なのは潔く負けを認めることだろう。しかし自分にはそれがどうしても出来なかった。極限まで追い込まれた自分は下を向くことしかできない。腿を握りしめる両手のひらに脂汗が噴き出すのがわかった。俺が弱れば弱るほど、周りを囲んだ野次馬たちが色めき立つ。いつも自分たちから巻き上げているバチが当たったと大喜びしているのだろう。
そんなとき、突然店の奥の方から何人かの歓声が上がった。卓を囲んでいた者たちも一斉に声があがった方に注目する。
「これでわかんなくなってきたぜ。野球はツーアウトからだっつーの」
酒焼けしたダミ声が聞こえてくる。どうやら店の奥に置かれたテレビで日本シリーズの中継を見ている者がいるようだ。今日は東京ジャイアンズと埼玉ライオネスの第7戦で、3勝3敗ずつの両者はどちらが勝ってもその時点で日本一という大一番だった。地元チームのライオネスを応援しようとその日は街中が大騒ぎだったが、野球から距離を置いている俺にとってはどちらが勝とうがどうでもよかった。
『9回裏ツーアウトから最後の望みとなるランナーが出ました!』
実況が声を高ぶらせて言う。スコアは3対0でジャイアンズがリードしていた。一番バッターが出塁したものの、ライオネスにとって絶望的状況なのは変わりない。
テレビカメラがライオネス側ベンチを映し出す。そのとき、俺は一人の男と目があった気がした。
「悠馬・・・」
そうか。悠馬はライオネスの四番だった。敗戦ムードのベンチにおいてもただ一人鋭い眼光で前を見据えている悠馬にはテレビを通しても伝わってくる威圧感があった。
「オレはあみんかな?おじさん長く待たされるのはあんま好きじゃねえんだよ」
金歯男の声に先ほどまで無かった怒気がこもる。野次馬たちからも苛立ちが伝わってきた。
「一つ、賭けをしないか?」
俺はテレビから目を離すことなくその場にいる者たちに訊ねた。
「いやいや。賭けならさっきからずっとしているでしょう」
白髪混じりの男が笑う。
俺はテレビを指差しながら
「この試合、四番の河野がサヨナラホームランを打って埼玉ライオネスが優勝する」
と、言い放った。
「はあ!?」
その場にいる全員が驚きの声とともに俺の方を見た。ダミ声の男だけが「それは本当かい!」と嬉しそうにしている。
「俺はそれに賭ける。もし俺の言う通りにならなかったら倍の百万払ってやるよ。だが本当に河野のホームランでライオネスが優勝したら今日のところは俺を見逃せ」
「そんなアホみたいな勝負あってたまるか!」
金歯男が顔を真っ赤にして俺に詰め寄る。
「でも・・・面白いかもしれません」
マスクの男が低い声で言った。対局中以外でこの男の声を聞くのは初めてだ。
「二番打者の小林の出塁率は2割8分9厘。次の広田の出塁率は3割2分。このツーアウトの状況で四番打者の河野まで打順が回ってくる確率は8.96パーセントしかありません。加えて、シーズン中驚くほど打っていた河野もこの日本シリーズ全七戦で一本もヒットが出ていないという沈黙ぶり。河野がサヨナラホームランを打つなんて、きっと天文学的な数値でしょう」
マスクの男はなぜライオネスの選手の出塁率なんて知っているのだろう。この男の底は計り知れない。
「確かに。今日まだヒットが三本しか出ていないライオネス打線がここで息を吹き返すとは思えない」
白髪混じりの男もマスクの男に同調するようにつぶやいた。
すると、それまで我を忘れていた金歯男は一度周りをぐるりと見渡すと、
「そうかそうか!いいだろう。それに私はジャイアンズファンだ。ジャイアンズの優勝と百万円が一緒に転がり込んでくるなら願ったり叶ったりだよう」と、にっこりと笑った。
金歯男の言葉にその場が沸き立つ。思いがけないイベントにその場にいた者たちの注目が26インチの小さなテレビ画面に一気に集まった。
しかし、ひとまず手詰まりの状況を脱したとはいえ最悪な状況には変わりない。一人でもアウトになってしまえば俺に百万という大金がのしかかる。俺は祈るような思いで試合の行方を見守った。
『小林に対する1球目は高めのボール球から入りました』
打席に立つ小林の顔は分かりやすくこわばっていた。自分が最後の打者になってしまうかもしれないという恐怖は相当なものにちがいない。
『ここで牽制です!投手、一塁ランナーの足を警戒しています』
「こんな状況で盗塁なんかしねえよばあか」
ダミ声が野次を飛ばした。確かに、普通この状況だったらランナーなんて気にせず打者だけに集中するのが正しいはず。しかし、ここまで好投してきたジャイアンズの投手はきっと今日初めてのプレッシャーを背負っているのだ。3点も余裕があるのだから何も気負う必要はないのに、なぜか一塁ランナーが気になってしまう違和感。足元からじわじわと不安が上ってくる気持ちの悪さ。勝利を決める最後のワンアウトを取る大変さをピッチャーだった俺は痛いほどよく知っていた。だからこそジャイアンズの投手は気持ちを整えるためにも牽制球を投げたのだ。
「あ!」
投手が2投目を投げた瞬間、俺は思わず声をあげた。
『デッドボールです!小林選手の背中にボールが当たりました!これでツーアウト一、二塁です!』
一体ピッチャーはどうしたのでしょうかと実況が解説に訊ねている。しかしそんな話の内容など、みん荘に居合わせた誰の耳にも届いていなかった。信じられないことが起こったとでもいうような顔で誰もがテレビ画面に見入っている。そして確実に流れがライオネスの方に向き始めていることを感じ取っていた。ベンチへと戻る小林にスタンドから拍手が送られ、代走の選手がグラウンドへと飛び出した。
三番打者の広田が左打席に入る。そしてベンチから悠馬がネクストバッターズサークルへと入った。
この打者さえ塁に出れば悠馬に打席が回る。悠馬ならきっと打ってくれるはずだ。
『広田選手は今日チームでただ一人2安打を記録していて調子は抜群です!』
さきほどの小林と対照的に打席に立つ広田は自信に満ちた顔つきをしていた。普段から勝気な性格で知られている広田はこの大舞台でも物怖じしない度胸を持っているようだった。
ストライク、ボール、ストライクと続きカウントは1ボール2ストライクとなった。ジャイアンズの投手は前よりも強気な態度でコーナーを攻めている。後がない状況での気合いの入った投球に広田も必死で食らいついていた。
投手から4球目が放たれる。広田は軸足に溜め込んだ力を前方に移動させ、右脚で思い切り地面を踏み込んだ。
しかし、ここで広田の勝気な性格が裏目に出てしまう。ジャイアンズの投手が選んだ勝負球はチェンジアップだった。タイミングを完全に外された広田は最後の意地でどうにかバットに当てたが、打球は力弱くころころと三塁側に転がった。
「よし!」
金歯男が歓喜の声を上げた。万事休すである。全国のライオネスファンのため息が聞こえるような気がした。
「ミスしろタコ!」
ダミ声がテレビ画面に向かって叫ぶ。ダミ声の叫びに動かされたのかのようにジャイアンズの投手がマウンドを駆け下りた。打球の方向を考えると、ここは三塁手に任せるべきである。三塁線の打球を投手が捕球すると、一塁に投げるのに難しい送球体勢になってしまうからだ。自分が試合を決めるという意気が投手の判断を誤らせたのかもしれない。案の定、ジャイアンズの投手が無理な体勢で一塁に送球したボールは外野の方向へとそれた。一塁手が思い切り腕を伸ばす。一塁手はなんとか捕球したがベースから足が離れたような気がした。一塁塁審が腕を広げる。
『セーフです!ライオネス、暴投で首の皮一枚つながりました!』
テレビを囲んでいた男たちが一斉に声をあげて喜んだ。麻雀にしか興味がないと思っていた者たちもどうやら地元チームの勝利を密かに祈っていたらしい。金歯男が周囲を睨みつけると男たちは即座に押し黙った。
「おいおい、にいちゃんの言った通りになってるよ!」
ダミ声は俺のことを預言者とでも言うようにありがたがっている。しかし、勝負はまだ終わっていない。
『この男まで打席が回ってきました!若き大砲!球界の至宝!河野悠馬!球場の熱気はすでに最高潮です!』
ゆったりとした足取りで悠馬は打席へと向かった。この男だけは、自分に打席が回ってくると確信していたのかもしれない。
打席に入った悠馬が真っ直ぐな眼で投手を見据える。
『河野選手はこの日本シリーズで一本もヒットが出ていませんが、監督は代打は送らずに四番に全てを託すようです』
代えろという野次と応援の声が入り混じってスタンドは異様な雰囲気に包まれていた。奇跡的な展開を目の前にして、みん荘の中は驚くほど静まりかえっている。悠馬の一挙一動に誰もが息を飲む。
「おい!みんな野球みろ!すごいことになってんぞ!」
みん荘の扉を開いて慌ただしく何人かの男たちが入ってきた。しかし勢いよく入ってきた者たちに目もくれず、テレビを凝視し続ける俺たちの姿を見た男たちは黙って輪の中に加わった。
グラウンドでは投手と悠馬の壮絶な一騎打ちが繰り広げられた。そして投手の気迫のピッチングを前にして悠馬は簡単にツーストライクに追い込まれた。
「よし、次で決まる。どうせこんな若いのに大舞台は無理なんだよう」
金歯男が再び勝ち誇ったような表情を浮かべる。
3球目も投手は遊ぶことなくストライクコースに投げ込んだ。悠馬はインコースの球を肘を折りたたんで振り抜く。打球は一塁側ベンチの方向へと飛んでいった。
『振り遅れながらもファールにしました!河野選手、もの凄いスイングです!』
4球目、5球目もファールだった。ファールの度にその場にいる全員が安堵ともため息ともとれるような声を漏らす。
誰かが外で「河野打てー!」と叫ぶ声がした。外に目をやって見ると、いつもこの時間はみな寝静まっているはずのマンションの窓から光が漏れている。きっとこの街にいる誰もがライオネスの優勝を祈っているのだ。弱冠20歳の悠馬は数え切れないほどの期待を背負っていた。その背中は力強く、大きい。
「いけ!悠馬!」
投手が6球目を投げる瞬間、俺はテレビに向かって叫んでいた。テレビを囲んでいた男たちも前のめりになって何か叫んでいたが何を言っているかまでは分からない。みん荘はいつの間にか湿っぽいほどの熱気に包まれていた。
投手の投げた球がキャッチャーミットに向かって伸びていく。しかし腰の高さに甘く入ったストレートを悠馬は見逃さなかった。ゆったりとした構えから鬼のような力が全身に走ったと思った次の瞬間、驚くほど速いスイングスピードで悠馬はバットを振り抜く。
その場にいる全員が反射的に立ち上がった。それほどまでに圧倒的な打球は美しい放物線を描きレフトスタンドの上段にまで届いた。
一斉に湧き上がる観客で中継の画面が揺れる。飛び上がって喜ぶみん荘の男たちと外でも大騒ぎの人々で街中はお祭り騒ぎになった。
『優勝です!優勝です!河野選手の劇的なホームランでライオネスが逆転日本一を決めました!』
逆転サヨナラ満塁ホームラン。しかも日本シリーズでやってのけるなんて今まで聞いたことがない。信じられない状況の中心にいる若きヒーローはそれでも控えめにガッツポーズをしてみせるだけだ。
「やっぱり最後には決めてくれるなー河野くん」
ひとしきり大騒ぎして一息ついたダミ声が満足そうにうなずいた。
「いや・・・こんなバカバカしいことがあってたまるか。俺は認めんぞ・・・」
金歯男は怒りに身を震わせた。こんな勝負無しだ無しだと言い放っている。
「そんな駄々が今更通じるか。一度乗った賭けじゃないか。ほら見てみろ!事実、河野のホームランでライオネスが優勝した!」
俺はテレビを指差す。テレビ画面では悠馬のヒーローインタビューが行なわれていた。
「だがしかし・・・」
「もう潔く負けを認めましょうよ」
マスクの男が封筒を金歯男に差し出した。
「頂いたお金は返します。ひとまずはこれで収めてください。今日はいい勝負が見れました。僕はそれで十分です」
俺がマスクの男の行動に驚いていると、マスクの男は俺の方に振り向いた。
「ギャンブルに一番必要なのは度胸です。その点で百万を張った君の選択は見事でした。しかし、残念ながら君は麻雀に向いていない。せこせこした賭け麻雀なんかもうやめて何か新しい事を始めてください」
「麻雀で飯食ってるあんたに言われても何の説得力もないな」
最後に目尻だけで笑ってみせるとマスクの男はみん荘を出ていった。その場にいたものたちはしばらく黙ってその場に残っていたが、金歯男が愚痴をこぼしながらみん荘を後にしてからはその他の男たちもぞろぞろとみん荘から出ていった。一人残された俺はポケットから携帯を取り出す。
数コール後に母が電話に出た。
「もしもし、母さん?」
「大輝?どうしたの急に」
「悠馬、見た?」
「うん今見てたわよ!す」
「すごいよな、悠馬は」
「ええ・・・そうね」
「俺さ、もっと頑張るわ」
「頑張るって、何を?」
「わからないけど、頑張るよ」
「・・・わかった。頑張ってね。応援してるから」
「ありがとう」
電話を切った俺は、いつか悠馬に飯をおごってやれるくらいの人間になってやるという根拠もない漠然とした、しかし確かな決意を胸にみん荘から外へ出た。
十一月の夜の街は笑ってしまうくらい寒かった。
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