第9話

 烏が去って程なくして雄が骸となった。

 ある日に帰ってくるなり瓶のまま酒を煽ると寝ている間に嘔吐し、吐瀉物が気管に詰まり窒息したようだ。その晩は確かに無茶に呑んでいたのだが、何も死ぬまで注がなくともよいではないかと呆れ返ってしまった。或いは、あの酒の進み方は死を前提にしていたのかも知れぬが、死人に口はないのだからもはやそれも分からなかった。

 朝一番に雄の鬼籍を確認した私は拝むでもなくそれをじっとを見ると、どうしてだろうか、野良の頃に見慣れた筈なのに目を背けたく、心が騒ついた。仮初めとはいえ、主人の死に際し感傷の波に棹さし流されていたのか。いや、違う。その行為は、一種の現実逃避なのであった。私はこの時、雄の死そのものよりも、雄が死んだ事によって失われるこの先の食い扶持を擬具していたのだ。私は自身が空腹である事に気が付いてしまっていた。明日からどう生きていこうと、震えた。

 私は何とも情けなく、また恥ずかしいと思った。先日まで飢餓の中このまま死ぬのも悪くはないなと厭世を気取っていたのにも関わらず、昨日の今日で餌の心配とはとんだお笑い種ではないか。産まれ、生き、死ぬなどと達観したような言がなんとも虚しく思い出される。軽々しくも小賢しい偽りの信念が腫物のように疼いてかなわない。結局私は、腹の満たされる中であれこれと哲学紛いの妄信を撒き散らしていたに過ぎなかったのだった。そうして行き着いた先にあったものはただ一つ。死にたくない。という、命へのつまらぬ執着。死が目の前に転がり始めて気付いた己が心底。結局は私も、他の生物と同じように生き長らえる事を望んでいたのだ。思えば車に轢かれた際も死を受け入れたのではなく、突如現れた死の恐怖から目を背けていただけのように思える。死の鬼胎から逃れる為には死に行き着く他ない。私はあの時、無意識に感情を抑え、恐れぬように死に向かわんとしていたのだろう。死の持つ無への畏怖は計り知れず、それだけに、命あるうちはどうにかして死に抱く悲観を先延ばしにするか、克服するよう頭が働く。車に撥ねられた時の私は死を斜に構え、今現在は死に慄いている。一見して異なるように見えるが、その実、死に対する底知れなさは同じなのだ。

 然るに考えるは、私は生きたいのではなく、死にたくないのだと、命に拘りがないなどと言うのは嘘であったと、そういう通りなのであった。これまでの、何かにつけて諦観したような思考はすべてそういう動物的な、極めて浮泛ふはんな深層意識への自己肯定でありアンチテーゼだったに過ぎなかった。結局のところ私も、単なる犬であった。


 そうした考えに至ると、とぐろを巻いていた七難八苦がストンと腑に落ちた。これまで立てていた理屈が瓦解し、涅槃に入ったようにすら錯覚した。産まれ生き死ぬなどと勝手を言っていた時よりもはるかに快く生きなければと思え、生に対しても死に対しても、私はより真っ直ぐに事情を捉える事ができたのである。すると行動に移すのは容易であった。猪突猛進に散らばる塵を蹴散らし玄関へ。然るべく扉に向かって吠え立てれば、如何に遮音されていようが微かに漏れるはずである。私は全身を使い外部へ訴えた。誰でもいい。私を殺さないでくれと、それこそ死に物狂いで声を発した。それから幾時間が経ち、「うるさい」とか「早くしろ」とか騒ぎ立てる声と共に解錠がなされた。現れたのは、隣室に住む中年の雄(散歩に出る際にたまに鉢合わせた事がある)と、管理会社とやらの組織に属する人間。それと、大家と呼ばれる老いた雌(この雌もたまに会う事があった)の三匹。

 三匹はしきりに吼えたてる私を見て只事ではないと察したのか、顔を見合わせ塒へと踏み入いった。すると三者三様の悲鳴が聞こえ、中年は二の句を失い、管理会社の人間は落胆し、大家は念仏を唱えた後、慌ただしく何かしら事を運ぶのであった……




 

 それから雄は、たまにやってきた母親が涙を流して葬い、部屋は引き払うと大家に語っているのを聞いた。あれだけ情けない情けないと苦言を呈していたのだが、やはり母親であったかと、感心したような哀れなような、複雑な感情を抱いた。

 しかし、そんな母親でも私を引き取れないと言い放ったのは些か薄情に思えた。アレルギーだのなんだのとのたまっていたが、子の忘れ形見くらい引き取れぬものであろうか。やはり人間とは他の命を軽んずる悪癖がある。もし輪廻があるとしたら、人間にだけは変わりたくないものだ。

 差し当たり私の扱いに困った人間達の間で保健所行きかと身を縮めていた私を迎えたのは大家とやらであった。「忍びない」と撫でた骨と皮ばかりの手は皺だらけで血の温度は感じられなかったが、随分、温もりがあるように思えた。


 居を移し五年が経つと、私はもうすっかり大家の犬として定着していた。雄の部屋にいた時よりも餌の質が高くなったのは何とも皮肉な話であるが、結果的に良しとしよう。時折襲来する孫とかいう鬼共の無体さえ目を瞑れば、快適な生活である。


 雄の塒の対面に位置する大家の塒は広く庭があった。そこに野良猫がやってきて、自生している蒲公英と戯れ合うのをたまに見かける。

 私はその都度、また事故に遭ったら今度こそ死ぬだろうなと想像するのだが、そこから先には頭が回らず、何か考えようとしても微睡みが阻害し眠りにつくようになっていた。

 死に至る際。私は何を思うか。何もかも諦めてしまうのか、やはり死にたくないと願うのか、それとも、大家が雄の亡骸を見たときのようにこう唱えるのだろうか。


 南無阿弥陀。

 と。


 いずれにせよ、死ぬのはまだ先がいいものだ。


 死なば泰平ならざり。

 されど生きねば禄もなし。

 生者こそ、阿弥陀仏の加護ぞあらん。

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犬とて 白川津 中々 @taka1212384

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