第8話
惰弱な雄の活力がますます衰えてきたのは夏至から幾週を跨いだ暑中の事であった。日にしに生気が薄れ窶れていく様は、さしもの私も気扱いする程である。雄の心労は何故に起因するものであるのか皆目見当つかぬし、知れたところで犬である私にはどうする事もできない。しかし、食うも食わずに酒ばかりを呑むのだから(最近は外ばかりではなく部屋でも飲酒をするようになっていた)憂慮くらいはするだろう。一応、私はこの雄の
「何で生きてるんだろうなぁ俺は。死んだ方がいいなぁ。あぁ、死んだ方がいい。死んだ方がいい」
唄でも詠むように下手な調子を取る雄は自棄になっているよう見受けられた。会社とやらで何ぞ腹に据えかねる文句でも言われたのか、それとも取り返しのつかぬ失態でも犯したのか。ともかく雄は虚ろな目をして遅くまで酒を飲み、半ば不眠で朝外へ出かけるという日を続けていたのだった。塒は散々な有様で、そこいら中、いたる所にごみが置かれ足の踏み場も危うい事態となっている。うだつの上がらぬ人間でも掃除だけは欠かす事はなかったのだが、この頃は会社に行かぬ日は床に伏すだけの時間を過ごしていた。おかげで私も散歩に出られず、掃き溜めの中で無為に寝ていなければならなくなるわけであるが、そうなると、私の方までなんだか気力が削がれていくように思え、一切合切が面倒この上なく煩わしくなってくるのだから不思議なものである。一応、私の餌と水は用意されるのだが左様な状態ではとても食欲はでず、かといって食わぬわけにもいかず、仕方なしに、一口を随分かけて胃に入れるという何とも不健康な食事を続けたのであった。
惰性で摂る餌の何と不味い事が。まるで砂利でも食んでいるかのように心胆に響く。生きる為とはいえ、さすがにこれでは救われぬ。
ならば食わねばよいのではないかと、一抹に耽った。
生きる為に食わねばならぬのであれば、食えぬようなった今こそ死に時ではないかと、このまま食を断ち徐々に朽ちて枯死していくのも悪くないように思えたのだ。貧すれば鈍するとは魯庵とやらの言葉であるらしいが、まったくその意味の通り私は鈍していた。命に繋がる糸が弛み、意識が希薄となっていくように錯覚するのだ。不思議な事に死を意識するとそれまで尖鋭だった五感が急に鈍り始め身体の自由が効かなくなってくる。視界が暗くなり、呼吸は重く、音と臭いは遠くへ消えて、四肢は糊付けでもされたように触れている物が認知できなくなっていた。雄がいなければ横たわり、雄がいれば横たわる毎日。このまま頓すれば死際に釈迦の説法でも聞けるかなと頭の悪い妄想に駆り立てられれば、何故だか急におかしくなってやたらと尻尾を振りたくなるのであった。
これはどうした事だろう。さてはとうとう狂気に足を踏み入れたか。
そう思ったのだがどうやらそれは違ったようで、私の頭は変わらず正常であった。そう認識できたのは酒しか飲まぬ雄を見て、あぁやはりこいつは馬鹿なのだなと所感を抱く真っ当な思考を持っていたからである。
ではなぜ私は愉快で堪らなくなったのかというと、それは、斯様な馬鹿者の陰鬱が伝染してしまった己自身の脆弱への自嘲でろう。馬鹿な人間に感化され堕ちた自らの浅はかさを笑わずにはいられなかったに違いないのだ。まったくとんだ間抜けだと自分でも思ったが淀んだ精神はもはやどうしようもなく、自身の愚に気付きながらも是正できず緩やかなる死を意識しては気狂い地味た笑みを浮かべる。それは私がかつて惰弱と嘲笑していた精神そのもので、笑えば笑うほど、あのやかましい烏のように飄々とした存在になれたような気がした。
「冗談じゃない。俺は餓死なんざごめんだね」
突如響いた同類の声。少しだけ開いたカーテンの隙間から、窓のさっしに止まった黒い羽が見える。それは紛れもなく、あの烏であった。
「何の用だ」
私は情緒もなく、現れた烏にそう尋ねた。
「ご挨拶だね。相変わらず、あんたには愛嬌が欠けている」
「烏におべっかを使ってどうするのだ。益体もない」
「それもそうだ」
カカと笑う烏に対して親和の情を抱いていたと知ったのは後になってからであったが、この時にそれが自覚できず、また、相手に悟られなくて良かったと思う。二度と会う事のない相手だ。気心を知らぬままの方が惜別なく締まる。
「何の用だ」と、私が再び尋ねると烏は言った。「お別れの挨拶さ」と。
「なんでも、烏ってのは十年二十年と生きるらしい。そんな長い間、この辺ばかりを飛んでちゃ退屈だと思ってね。旅に出ることにしたのさ」
「そうか」
「そうだとも」
「ならば、達者でな」
「あぁ。お達者で」
烏は笑いながら去っていった。立つ鳥後を濁さずとはいうが、確かに、綺麗さっぱりといなくなってしまうのだった。
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