第7話
しかしこの雄。こうしているとまったく悩みなどないように見えるが、実のところ生粋の精神薄弱を患っておりたまに手に負えぬ事がある。部屋で私が寝ていると、突然遅くに帰ってきてはメソメソと鳴き始め、その日晒した羞恥を吐き出す事が度々あるのだ。その際は決まって酒の匂いが強く支離滅裂となり不覚である。人間は赤提灯とかいう場所で理知を消す作用を持つ酒なるものを飲むそうなのだが、きっとそれなのだろう。
「俺は死んだ方がいいんだ」
頰を真っ赤に染め上げ、雄はそう言う。口から出るのは決まって会社とやらの愚痴であり、うだつの上がらぬものであった。雄はまるで私に懇願するように床に膝を付き、時には悲涙すら落とすのだが、私にどうにかできるわけでもなく、仕方なしに一鳴きし同情してやるのが常であった。
そんな雄が私はどうにも解せなかった。呂律が回らず聞き取れぬ部分も多分にあるのだが、愚痴の内容の多くは責任転嫁と満たされぬ自意識への不満であり、斯様な世界に生まれてしまったのは悲劇だと呪詛を吐くのである。私はこの雄がどうして自らの生に責を背負わぬのか分からない。愚痴をこぼして事態が好転するわけではなし。ましてや犬に向かって上手くいかぬと喚いてなんになる。己が歩いている道は自らが決めたのだろうに、何故あぁでもないこうでもないと外因にばかり目を向け非難するのか。そもそも仕事というのは狩りの代替行為であろう。やらねば生きてはいけないのだろうが、その為に身心を崩したら本末転倒である。合わぬなら合うよう努力精進すべきだし、さもなければ辞めてしまえばいいのだ。それをせずに自身は悪くないと開き直るのは頗る醜悪でありまったく稚拙痴態。責任転嫁に他ならぬ。それを咎める良き隣人が不在であるのが、この雄の最大の不運ではなかろうか。
もっとも雄に小言を述べる人間がいないわけではなかった。その人間はしばしば雄が仕事に出ず怠惰に過ごしている日にやってきては「情けない」と苦言を呈し、雄に煙たがられていた。この雌は雄から「母さん」と呼ばれていた為、雄の母親であると理解できた。
この母親の言う事は一々正論であり雄の至らぬ点を悉く指摘するのだが、肝心の雄は右から左馬耳東風。真っ当な叱責を煩わしいといった様子で聞き流ながすのだから始末が悪い。この母親は良き隣人とまでは言わぬも理解者である事は確かであり、その提言をまるで聞かないとするのはオスの精神的向上心のなさが伺える。
「そんなんじゃ結婚もできないんだから」
なんやかんやと言った後、母親は最後に決まってそう吐き捨てる。
結婚とは番を作る事であろう。子孫繁栄の為にはより優れた遺伝子を残さねばならぬのが摂理であるのだから、母親の言う通りこの雄は確かに溢れると思われる。生物として、この雄の雄としての魅力は皆無に等しく、進んで此奴の種を残宿したいと感じる雌はまずいないだろう。それは体内を流れる血がそうさせるのだ。弱者が自然淘汰されるのは世の理。優位性を持たぬ個体が滅びるは宿命である。自然界は適者生存であり必ずしも強者が繁栄するとは限らないのではあるがそれはあくまで結果論に過ぎず、現環境で行き詰まる個体はやはり孤独に死ぬ他ない。
そうすると、この雄の生に果たして意味はあるのだろうかという疑問が浮かぶ。繁殖という生物としての絶対的な目標が達せられぬ以上、種の中で個体としての使命はない。或いは人間がサバンナで生きる群体であれば、天敵から群れを守る為の贄となる役目はあったであろう。しかしここは栄華を極めた、理不尽なまでに命が保たれる人間の社会である。何も成し遂げられない雄の生存にどのような意義があるのか。漫然と生を保つ事を、この雄は忍べるのか。いや、無理であろう。自ら酩酊という倒錯した状態に陥り、意識だけ逃避させ立ち向かうべく困難から目を背けるような軟弱者に、この先ある三界無安を耐えられるはずがなく。また、それすら理解できず、自分ではなく周囲に非があると犬に語るような輩である。つまり、この雄は戦えぬのだ。窮鼠となっても噛むのではなく弱音を言うだけの口しか持たぬのだ。であれば、先延ばしにした苦厄に呑み込まれ死に至るのは明白ではないか。産まれてきた事がそもそもの間違いとも言える。
しかし、それでもこの雄は産まれてしまった。産まれてしまったからには、生きなければならぬ。
例え種に益を為さぬ無意味な個体であったとしても、その生を否定する事は何者にもできない。何も成し得ず、意味もなく産まれ死んでいく命だとしても、個体には確かに意思があり、生きているのだ。ならば、死が最良の救済だとしても、その個体は死ぬまでは生きねばならぬ。そこには是非も理由もない。ただ生きているから、生きていかねばならぬのた。
雄は相変わらず逃避し私に語る。そうする他ないのであれば、そうするがよかろう。意味なく産まれた貴様は、そうして生き、死んでいくのだ。己が不幸を呪い存分に嘆くといい。それが貴様の生なのだから。
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