第6話

 ようやく準備が整い連れてこられたのは桜が植えられた公園で、所々で動物の姿が見えるものの、騒がし過ぎず静か過ぎない、実に良い塩梅の牧歌的な場所であった。

 命が盛り緑が萌え実る四月の終わり。桜は散り、落ちた花弁すら飛散してしまって春を色った化粧の痕跡すら残っていない。儚さの中に美があるとしても、その残骸までに美があるとは限らず、少なくとも人間はその存在を認知していないようで、誰も花のない桜の木を見ようとしていなかった。足早に過ぎる者や日光浴をする者。野に咲く名も知らぬ花を愛でる者など人間の種類は多様であったが、誰一人新緑の葉をつけた桜を眺めないのである。花咲く桜が生だとしたら、葉桜ばかりの木々は死のメタファーとなりえるであろう。一生を花に例えるなどという軟弱なセンチメンタリズムには反吐が出るが、死に対する本質的な無関心が、現世に漂う冷徹なるペシミズムを表しているように思え私は静かに憤りを覚えた。

 しかしこの時私は自己の矛盾に気付く。人間が持つその冷徹なる享楽主義は、自身が持っている、産まれ、生き、死ぬという生命感と同じなのであると。

 生に対してこだわりなく未練がないという事は、即ち命に対する無関心と同じなのだ。花が咲いている時だけやれ桜だ風流だと酔って醜態を晒す俗物と、ただ死に向かって生きているだけだとニヒリズムに浸る私は同族なのである。このふとした悟りは実に堪えた。あれだけ度し難しと侮っていた人間と同じ土俵に立っていたという事実は、私を落胆させるのに十分な残酷さを持ち合わせていたのだった。これほどまでに打ちのめされた経験はかつてなく、車に撥ねられ瀕死となっていた時の方がまだ清々しかったと思う。


「相変わらず小難しい事を考えるんだね」


 その言葉は私に向けられたものであると理解できた。耳ではなく大気を震わせ身体全体で感じる一声。これは同類の共鳴。そして、私はこの感に触る声をかつて聞いた事があった。


「なんだい。人飼いに落ち着いたのかい。存外、手堅いね」


 嫌な奴に捕まってしまった。何かと思えば、あのお喋りな烏である。烏は皮肉とも嫌味とも取れる雑言を並べて、態々と地へ立ち小刻みに跳躍しながら私の横で「いやはや」とか「それにしても」とかつまらぬ言葉を浴びせ間抜けた品評するものだから、初夏香る陽射しが湿気を帯びた陰鬱な微明となった。間の抜けた奴は、いるだけで全てを台無しにする。


「貴様もよほど暇なようだな。せっかく空を飛べるのだ。英吉利や仏蘭西へ羽を伸ばしてみたらどうだ? 異国の墓に埋まってくれれば、私としては文句ないのだが」


「そりゃいい。だけど生憎と俺はグルメでね。毛唐の残飯は舌に合わないんだ」


 低俗で下品な鳥流の退屈なジョークである。私は可能な限りの罵倒を浮かべながら、あるいは、焼き鳥屋の短冊を思い出しながら公園内を歩き、雄の休憩と同時に地に寝そべったのだが、その際にも烏はやはりお喋りを止めず、不愉快にも私の隣で羽を休めるのだった。まったく図々しい烏ではないか。私は横目で羽を上下させる様を見てこいつは遠慮とか気遣いという言葉を知らぬのだろうと思った。すると、「あるわけないじゃないか人間じゃあるまいし」とカカと笑うのである。気に食わぬが、確かにと私も合点せざるを得なかった。


「まぁ何にせよ、安泰な生活が得られて良かったじゃないか。死ぬまで苦労せずに済む」


 安泰な生活。その一言に引っ掛かりがあった。

 烏の言葉は確かにその通りでもっともである。餌や雨風をしのぐ仮宿を探す必要のない気楽な毎日に、私は下った。何をするのも快適で、苦慮などまるでない日常。容易に命を保てる環境。生を全うするのには十分であり、申し分ない。

 しかし、その中で腹を満たし惰眠を貪る事が果たして生きているといえるのか。与えられた安楽を甘受し、いや今日も平和であったと、苦悩なく日和見に過ごす事が本当に生物としての姿なのか。仮に違うのであれば、生きるとは、生物のあるべき姿とはなんなのか。その日暮らしに過ごす事が是なのか。死なないだけの生は非なのか。私は考えれば考えるほどに混乱を極め茫然自失となり苦悩した。

 この自問は私自身に大変な課題を与えた。何せ、今お前は生きているのか答えよと、私自身が問うているのだ。斯様な支離滅裂はまさに狂気ではないか。挙句、レーゾンデートルが揺らぎ、「仮に私が生きていないのであれば、私は死ぬ他ないであろう」と、自己の否定さえ思案し始める始末である。それまで死ななければならないなどという脅迫が身を焦がした事などなかったものだから恐怖を覚え震えるのも無理はないだろう。死ななければならない。この言葉は想像よりも強大で悍ましく、苦痛であった。この津波のように圧倒的な、それでいて樹海のように深淵な虚無に呑み込まれるてしまうと思うと身が竦み呼吸が困難となる。頭の中が白いような黒いような、もしくは赤いような靄に覆われたのは、遺伝子に刻まれた抗えぬ死のビジョンが抽象的に映し出されたのだと思う。


「また難しく考えるね。小賢しいのがあんたの悪い癖だぜ」


 小憎たらしい烏の一言により、私はいつの間にか射していた常世の影から抜け出した。


「産まれ、行き、死ぬ。なんだろう。いいじゃないか。なんとなしに生きたって。それもまた生だろう」


「知ったような事を」


 カカと笑う烏は私の憎まれ口に取り合おうともせず「お達者で」と去っていった。憎たらしい事この上ない。



「なんだ。友達は行ったのか」


 雄の無駄口に私は唸りを上げて抗議したがやはり無駄骨であった。雄はまったく柔和な顔をして景色を覗み、程なくして寝息を立て始めたのだ。その緩んだ寝顔は、私の悩みなど馬鹿らしくなるほどに平和な面をしているのであった。

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