第5話

 かくして私は惰弱な雄の元へと身を移す事に相成った。

 しばらく寝ていた病院ではケージとかいう箱に閉じ込められ兎に角窮屈で堪らなく、囚人にでもなったような気分となりまったく惨めであったが、雄の部屋は存外広く、横になる際に前足を曲げなくとも十分な間は確保でき良好であった。小綺麗というか、床と卓と箪笥があるだけの部屋は殺風景ではあるものの、無闇に物が散らばっているよりは心地よいのでしばらくは居着いてやってもいいように思えた。


「困ったもんだなおい。あそこの獣医、犬なんて押し付けるんだから」


 雄は私を部屋に入れた後でも、しばらくは盛んにそんな事を言っていた。いつまでも女々しい事だし、そも私を厄介がっているのだから内心おもしろくはなかったのだが、この雄はどうにも病的に精神不安定である事から腹を立てても仕様がなく、諦観するのが最も適当であるという結論に至った。疾患を患っている者にあれやこれやと文句を垂れても糠に釘である。放っておく他ない。

 とはいえ、私は他の駄犬のように吠え立てる事もなければ所狭しと暴れる事もないのでこの雄が困るような事態にはならないと自負している。故に困った事など起こるはずがない。殊更下事情の粗相など以ての外で、雄が会社とやらに出かけた隙を見計らっては水洗便所なる利器を使いこなし痕跡すら残さないようにしていた。紙を巻くのがちと不便であったがやってできない事はなく、慣れてしまえばどうというものではなかった。雄は私の寝所の隣にシートを敷きそこで用を足させようとしていたが(気が狂っている。貴様は床の隣で排便するのかと問いたい)いつまでたっても真っさらなシートを不審に思い、ついにはあの薄情なドクターの所に私を連れて行って何やら診せたのだが、問題なしと診断されると狐につままれたような顔を晒し傑作であった。


「お前は変な犬だな」


 ある時雄がそう言ったのを聞き思わず「貴様がおかしいのだ」と小さく唸ったのだが、こちらの意思など当然伝わるはずもなく、雄は言うだけ言って薄気味悪い卑屈な笑みを浮かべるのであった。意思疎通ができぬ事がこれ程辛いとは思わなかった。一方的にあれやこれやと言われるのは随分癪に触る。仮に私が他の犬と同じように極めて獣めいた刹那的な動物であれば斯様な苛立ちは覚えなかったであろうが、しかし、不運な事に私はものを考え理解する不要な知性を持って産まれてしまったわけなのだから考えずにはいられなかったのである。元より思慮の浅い人間である為なおの事である。にも関わらずあの雄。終いにはお手だの伏せだのと曲芸を仕込もうとしてきたのだから救い難い。その際、堪え兼ねた私は雄が用意した便所シートを咥え思い切り投げつけてやったら大人しくなった。それ以来、さすがの木偶の坊も何を言わんとしているかを理解できたのか調教はすっかり諦めたようである。普段手間をかけずにしてやっているのだ。それ以上を望む方が業腹ではないか。


 このように、私は愛玩動物として実に模範的な生活をしていると思う。事なかれ主義とは言わぬが取り立てて騒ぎ立てるのも無益で馬鹿らしく、それならば日がな一日寝ていた方が健全であるとお行儀よくしていたのだから、これを困ったなどと言われる筋合いはない。以前に無頼を気取っていたが、どうやら生来の質が人飼い向きだったようでなんとも皮肉な話である。存外今の生活は自分に適していると感じ入る事も少なくはない。恥辱だ地獄だと悲観していたが、快適な住処と餌の保証があるというのは大変気楽である。家主である雄にはしばしば腹を立てる必要はあるが、それを差し引いてもこの安楽は身を緩め捨て難く得難いと日和見が芽生えた。文明の利器は利便の麻薬であり、なるほどこれは人類も堕落するだろうと微睡みながら実感するのである。つい先日まで野良の矜持だのなんだのとのたまっていたのだが随分と変わったものだ。もっとも、如何に安楽な生を甘受していたとしても長らえたいとはやはり思えぬのであるが。





「怪我も治ったのだから、散歩に連れて行かねばまずいだろう」


‭ 雄がそんな事を言い出したのは春の終わりであった。この前に「完治したね」とドクターに宣告され、晴れて通院の面倒から解放された矢先の事である。

 首に縄をつけられ歩かされるのは気に入らぬが、身体の訛りも看過しがたい。私も自我はあり、人間に引っ張られるなどおぞましいのだが、側から見れば一介の犬。ただの獣である。であれば、散歩に連れ出されるのも極々自然の成り行きであり、微塵も憚ることはないであろう。


「おや。おとなしいじゃないか。先生は暴れるかもしれないと仰っていたが、拍子抜けだな」


 相変わらずうるさく感に触る独り言であったが一々応じても仕方がない。私は雄が不器用な手で首輪を付けるのを静と待ち久方ぶりの遊歩に想いを馳せた。一ヶ月の安静療養においては身体の調子こそ取り戻したものの精神の活力は失われていく一方で、決して健全とは言い難い生活であった。外の空気を吸わねば肺は腐り脳は溶けていくばかりである。陽の光に当たるのも、善き事であろう。

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