第3話

 次に加奈子が弾き始めたのは、《サンタが街にやってくる》だった。《ジョイフルジョイフル》に比べると、やや迫力に欠けるものの、こちらも軽快な曲だ。


 そして、サンタは、65あるテーブルの半分以上に菓子を配り終えていた。天野が指示したので、例のカップルのテーブルにサンタが辿りつくのは、最後となる。指輪を渡される予定の彼女は、サンタの訪れを喜んでいるように見えた。音楽に合わせて、小さく手拍子をしている。

「彼女、楽しそうですけど?」

「それは、目の前の彼氏さんを持て余している時に、サンタさんが現れたからです。よく見てみてください。彼女さん、彼のほうに全く顔を向けようとしていないでしょう?」

 加奈子に言われてみれば、そのとおりだった。伊佐美の恋人の目は、ひたすらサンタに向けられていた。伊佐美が話しかけているようなのに、そちらに視線を向けようともしない。


「一種の現実逃避なのだと思います」

 加奈子が冷淡に分析する。

「ここでピアノを弾いていると、時々ああいうシーンに出くわします。お互いの気持ちに温度差があって、ひとりの気持ちは熱いままなのに、もうひとりは、すっかり冷めている」

 そういう時、加奈子は選曲に迷うのだそうだ。 

「甘ったるいラブソングは失礼かもしれないし、かといって別れを連想させる曲も弾きづらいでしょう? でも、元気な曲はもっともっと場違いな気がするんですよ。そんなの弾いたら、冷めている方が完全に白けてしまいそうだから」

「となると、《ジョイフル・ジョイフル》と《ハレルヤ》の組み合わせは、あのカップルにとって最悪ってことになりますね」

 天野は、加奈子の言うことに一応の理解は示したものの、なんとなく信じきれずに、「でも、あなたの勘違いってことはないですか?」と、念を押した。


「いや、勘違いどころか、大当たりっすよ」

 加奈子の代わりに天野に耳打ちしていったのは、例のカップルのテーブルから空になったメインディッシュの皿を下げて戻ってきた若いウェイターの佐久間だった。 

「彼女の気持ちは、冷め切ってます。あそこに座ってからというもの、しゃべっているのは彼氏ばっかりですよ。彼女は、話すどころかニコリともしない」

「あの彼氏、ここに来た時から、はしゃぎまくっていたもの」

 他のテーブルから皿を下げてきたウェイトレスの浅海が、擦れ違いざまに天野に身体を寄せて報告する。

「『僕の親父の伝手で、やっと取れた予約なんだ!』『人気のホテルだから、本当だったら、取れなかった予約なんだ』『でも、親父の伝手があったから』『親父のおかげで』『親父が!』って恩着せがましく繰り返すものだから、彼女、ドン引きですよ。あれじゃあ、百年の恋だって一瞬で冷めますって」

「あ~…… それは痛いなあ」

「それに、指輪を渡してプロポーズって、私は嫌だな」

「そうなの?」

「そうですよ。婚約指輪って、一生ものじゃないですか。もらったのが自分の好みに合わなかったら、もう最悪。自分で選びたいですよ。ね? 加奈子さん」

 ウェイトレス浅海がピアニスト加奈子に同意を求める。 

「そうかもしれませんね」

 加奈子が肯定とも否定ともとれる曖昧な笑顔を浮かべた。

「一般的に女の人のほうがアクセサリーには詳しいでしょうから、ファッションに関心がある人ほど、お店に行って自分で指輪を選びたいと思うのではないでしょうか」

「なんてこった」

 天野は、額に手をやると、天を仰いだ。伊佐美のために良かれと思ってやったのに、伊佐美の恋人にとっては、サンタの演出も含めて、やってほしくないことばかりであるようだ。「そういうことは、先に言ってほしかった」と天野が愚痴ったら、「知りませんよ。私たち、フロアで忙しくしていて、サンタが出てくることなんて知らなかったんですから」と反論された。その通りなので、天野には返す言葉がない。やり場のない怒りを飯田青年にぶつけてやろうかとも思ったが、彼は天野以上にショックを受けているようだった。「伊佐美が、『彼女と俺は愛し合っているんだ』って自信たっぷりに言うから、僕は、僕は……」と、その場にしゃがみ込んで、うわ言のように呟いている。


「どうしましょう? 中止にしたほうがいいでしょうか?」

 膝を抱えた飯田が、途方に暮れたような顔で天野を見上げた。だが、全てのテーブルに菓子を配ることにした以上、いまさらサンタを引っ込めるわけにもいかない。 

「ここまできたら、続けるしかないな。指輪をもらったら、彼女も機嫌を直すかもしれないし」

 楽観的な希望を胸にピアノの物陰から天野たちが見守る中、サンタが、伊佐美と彼の恋人のテーブルにたどりついた。 

 まずは、他のテーブルでもしてきたように菓子が女性の掌に、それから、限りなく立方体に近い小箱がテーブルに置かれる。


 さあ。箱をもらった彼女はどうするだろう? 


 喜ぶだろうか? それとも……


「あの人、箱、睨んでますよ」

 しかも、両手は膝の上に乗せたまま、彼女は箱に触れようともしない。視線にわずかな怒りを滲ませて、赤い包装紙と金色のリボンで飾られた小箱を見つめているだけである。ただそれだけのことなのだが、そんな最小限の彼女のリアクションは、目の前にいる男に対して怒れる恋人が取りがちな行動――例えば『怒鳴る』『泣く』『叩く』『引っ掻く』『席を立つ』といった行動以上に、彼女を見守る天野たちに寒々しい恐怖感を与えた。


「なんだか、背中がゾクゾクしてきたな」

「エアコンの温度を上げてきましょうか?」

 身を震わせる天野に気付いたウェイトレス浅海が腕をさすりながら提案する。 どうやら彼女も寒いらしい。

「気のせいですよ」

 ピアニスト加奈子が止めた。

「心の温まる光景を見ると、自分もあったかい気持ちになるでしょう? 逆に寒々しい光景を見てしまうと、自分の心も冷える。心だけではありませんよ。いい音楽を聴くと気持ちが良くなるように、目から取り込まれた情報によって、人は実際に暖かさや寒さを覚えたりするものです。今の私やあなたは、あの女の人を見ているから寒いと感じているだけです」

 つまり、自分たちの体感温度に合わせてエアコンの設定温度を上げると、あのカップルを見ていない他の客は暑いと感じてしまうということらしい。 


 ちなみに、女性の冷たいオーラを間近で一身に浴びている伊佐美は、寒さなど感じていないようだった。天野に対して背を向けているので伊佐美の表情は読み取れない。だが、彼女に指輪を渡して戻ってきた田代サンタによると、伊佐美は、彼女の冷たい態度にも頓着せず、実に楽しそうであったそうだ。 

「『びっくりしたね。サンタさんが君だけに特別なプレゼントをくれたよ。君がとっても素敵な人だからだね』って、盛んに場を盛り上げていたよ」

「それはそれで、寒い」

 ウェイター佐久間がコメントする。もっとも、詳しい事情がわからないまま指輪を渡しにいっただけの田代サンタは、「あんな冷たそうな女と結婚したい男の気がしれないなあ」という感想を述べた。

「そんなことないですよ。いつもの彼女は、とても優しい人です」

 飯田が、友人ではなく彼女のほうを、ムキになって庇った。だが、天野は、サンタの言うことにも一理あると思った。男も問題だが女も悪い……のかもしれない。結婚間近まで付き合いを続けた仲なのだ。プロポーズという大事業を前に舞い上がっている男の気持ちを汲んでやる優しさが、彼女のほうにあってもいい。


 しかしながら、天野が心情的に伊佐美の肩を持ったのも、束の間のことでしかなかった。婚約指輪が入っている指輪を見つめたまま固まっている恋人に対して、伊佐美は、次の手を繰り出してきた。

 伊佐美は動こうとしない恋人の代わりにプレゼントの包装を解くと、指輪が入っているのであろう紺色の箱の開口部を、いそいそと彼女の正面に向けた。それから、指輪の小箱と一緒に包装されていたと思われるカードを、「おやおや? こんなところにメッセージが」と、ワザとらしく拾い上げた。 


「箱を開けるには、魔法のステッキで呪文を唱えなくてはいけなんだって」


 カードに目を通した伊佐美が彼女に教えた。そして、「だったら、これを貸してあげるよ」と、立ち上がった彼が女性に差し出したのは……



 魔法のステッキであった。



 どこに隠し持っていたのか、伊佐美が彼女に渡そうとしているそれは、おもちゃ屋の店頭やテレビのコマーシャルなどで見かける、プラスチック製の水色のステッキに他ならなかった。なにやら仕掛けがあるらしく、彼が彼女にその棒を突きだすと同時に、ステッキの先端につけられた円盤がキラキラと回転し、同じくキラキラとした効果音がレストランに鳴り響いた。


「さあ! 呪文を唱えて!」


 周りの目を気にしながら嫌そうにステッキを受け取った女性に、伊佐美が大きな声でうながした。その声も箱の包装を解いてからの彼の一方的な彼女とのやり取りも、そして、キラキラの効果音も、しっかりと天野の耳にまで届いていた。 

 当然のことながら、伊佐美を中心とし天野までの距離を半径とした一円の中で食事をしている客も、客の給仕をしていたホテルのスタッフも、天野と同じ音を聞いていた。少し前から食事の手を止めて、訝しげに伊佐美と彼女とのやり取りを眺めていた客たちは、魔法のステッキの登場と「呪文を唱えて!」という伊佐美の言葉に、一様にげんなりした顔になった。持っていたフォークを手から落とした客もいた。魔法のステッキに注意を削がれたソムリエは、グラスからワインを溢れさせてしまって平謝りである。 

 天野は、これまでは女性の周囲にだけ漂っていた寒々しい空気が、フロア全体に徐々に広がり始めていることに気が付いた。これは、さすがになんとかしなくてはいけない。フロアを預かる責任者として、天野は焦りはじめた。ピアニスト加奈子も焦っていた。

「天野さん。わたし、本当に《ハレルヤ》を弾いてしまってもいいのでしょうか?」

「総支配人を呼んできたほうがいいですか?」

「いい。こんなことで総支配人を煩わせるな」

 天野は、ふたつめの質問にだけ答えた。この程度のことで総支配人を頼るわけにはいかない。否、こんなことさえ自分ひとりで対処できないと総支配人から思われるかもしれないことが、天野は怖かった。彼にとっての総支配人は、上司である以上に憧れの対象であり目標である。彼は、総支配人に認められたい一心でここまできたのだ。

「浅海さん、このあたりだけ、エアコンの温度を上げてきてくれるかな?」

 取り急ぎ、天野は、ウェイトレスに指示を出した。無駄なことかもしれないが、その場しのぎにはなるかもしれない。だが、ウェイトレス浅海がエアコンの操作盤にたどり着く前に、伊佐美の声がレストラン全体にこだまする。



「呪文は、こうだよ。ピピルマピピルマ パンプルピン!」



「……。今の、なんだ?」

「最強魔法少女ミナミちゃんの呪文ですよ。娘たちが大ファンなんです」

 呆然とする天野に、デザートを運搬中だった中堅ウェイターの吉川が教えてくれる。娘どころか妻もいない天野にはよくわからない世界だが、最強の二文字を冠するだけあって、ミナミちゃんの呪文の効果は絶大だったようだ。 


 伊佐美の呪文は、春の日差しのようにフロア全体を満たしていた客たちの笑い声と楽しげなおしゃべりを一瞬にして吹き飛ばすと同時に、吹雪のように痛みを伴った冷気と完全な静寂をもたらした。


 誰も笑わない。誰も話さない。


 客たちは、ただ息を飲んで、おかしな呪文を唱えた哀れな男と、彼の目の前にいる冷たい眼差しの女を見つめている。

「エアコンの温度を、全体的にもっと高くしますか?」

 皿を下げかけたまま、ここに居座ってしまった若いウェイターの佐久間が訊ねた。天野が返事をする前に、「それで、愛が取り戻せるなら」と、重々しい口調でサンタが答えた。佐久間は、動くのをやめた。


 ピアニスト加奈子は、かなり追い詰められているようだった。 

「ねえ。《ハレルヤ》、どうしたらいいでしょう? こんな状態で弾いてもいいの?」

 加奈子が、なにがあっても鍵盤から離さなかった指を止めると、すがるような目をして天野の上着の裾を引っ張った。

「どうしようって言われても……」

 天野はうろたえた。彼がここまで狼狽したのは、新人の頃に、とあるパーティーの席で、某大手企業の元会長が彼が運んでいたワインを口にするなり心臓の発作を起こし、胸をかきむしりながら倒れてしまって以来である。 

 あの時は、当時はまだその任になかった総支配人が迅速に対応してくれたおかげで、客たちはパニックを起こすこともなく、元会長はホテルに逗留していた医師のおかげで一命を取り留め、天野は殺人の疑いもかけられず、警察にもしょっ引かれずにもすんだ。だが、この場に総支配人はいない。彼に代わって全体を指揮するのは、天野の役割である。


「もう少し様子を見よう」

 天野は言った。伊佐美にしても、ここまで彼女に冷たくされれば、彼女が彼のプロポーズに応えるつもりがないであろうことに気が付くに違いない。

「そうですね。彼女さんが良い返事をしてくれないだろうとわかれば、彼氏さんには《ハレルヤ》などという晴れがましい曲をリクエストする理由がありませんものね。合図がなければ、私は弾かなくてもいいんですものね」

 加奈子の顔が、少しだけ晴れた。だが、ふたりがそんな会話をしているうちにも、伊佐美の計画は、どんどんどんどん――おそらく悲しいエンディングへと向かって突き進んでいた。


 どうしても呪文を言わせたい伊佐美の勢いに押された彼女は、いかにも面倒くさそうに魔法のステッキの先端で指輪の入った箱を小突きながら、小さく口を動かした。

 伊佐美が身を乗り出し、中身を彼女に見せるようにして箱を持ち上げる。箱の中身は、婚約指輪なのだから、それ相応の価格のダイヤモンドの指輪かなにかなのだろう。これが普通のカップルだったら、ここは、驚いた彼女が目を輝かせつつ、じっと彼を見つめ返すところだ。涙のひとつもみせるところかもしれない。だが、伊佐美を除くこの場の全員が充分に予想できたことだが、彼女は、指輪を目の前にしても一切のリアクションをしなかった。


 彼女にここまでされたら、さすがの伊佐美も脈がないということを悟るだろうという天野の期待もむなしく、伊佐美が、加奈子に手を上げて合図を送ってきた。

「え? やっぱり弾けってことですか? ど、ど、どうしましょう?」

 動揺した加奈子が、天野に助けを求める。なかなか曲が始まらないことに伊佐美は苛立っているようだった。彼は、恋人の方に向き直っても、加奈子に対して手を振り回し続けていた。「さっさと弾け!」ということのようだ。 

 自分の配下のスタッフに対して横柄な態度で命じる伊佐美を見た途端、天野は、あの男のひとりのためにオロオロしている自分が馬鹿らしく思えてきた。

「……。弾いてやれよ。本人が『いい』と言っているんだ」

 天野は言った。彼が守りたかったディナーの雰囲気は、伊佐美のせいで既にぶち壊しだ。伊佐美の気の済むようにしてやればいい。それでどうなろうと、天野の知ったことではない。


「もう! どうなっても知りませんからね!」

 泣きそうな顔で警告しながら、加奈子が両手を鍵盤に叩きつける。 

 神を讃える荘厳で華麗な《ハレルヤ》のメロディーは、クリスマスを外国のお祭り程度にしか考えていない日本人の多くを敬虔な気持ちにさせるだけでなく、最強魔法少女の呪文を打ち破る効果もあったらしい。 

 それまで能面のような顔で伊佐美の前でじっとしていた彼女が、音楽が始まった途端に、驚いたようにこちらを向いた。

 その視線が、ピアノを弾く加奈子から天野を素通りして、サンタになりそこねた飯田のところで止まる。飯田を目にした途端、伊佐美の前では氷のように冷たく頑なだった彼女の表情が、ほろりと解けた。彼女は、驚いているようでもありホッとしているようでもあるが、困惑しているようでも、戸惑っているようでもあった。喜んでいるようにも見えたが、ひどく怒っているように見えないでもなかった。

 ただ、今の彼女は、さっきまでの彼女よりもずっと幼げで、天野は、ようやく母親に迎えにきてもらえた時の迷子の顔みたいだとも思った。


 しかしながら、彼女が、そんな複雑な表情を浮かべていたのは、ほんの一瞬のことでしかなかった。彼女は口を真一文字に引き結ぶと、伊佐美に向き直った。そして、彼が渡そうとしていた婚約指輪入りの箱を閉じると、腕を伸ばして彼の手元まで押し返した。

「なんで?! どうして?!」

 伊佐美が叫ぶ。


「『なんで』じゃなかろう」

 サンタや天野が呆れながら見守る中、彼女が伊佐美に何かを言い返した。

「『つきあってもいない』って、そんなことないよ!」

 テーブルに手を突いた伊佐美が激しく首を振った。

「そりゃあ、いつもは飯田とか理子ちゃんとか堀田とかがいて、ふたりきりで会ったことはないけど」

「普通、そういう状態を『つきあっている』とは、言わないでしょうね」

 《ハレルヤ》を弾きながら、加奈子が苦笑する。ふたりのやり取りに聞き耳を立てていた周囲の客も、馬鹿馬鹿しくなってきたようだ。彼らは、冷笑混じりの表情を最後に伊佐美を見限ると、身体の向きを戻して食事に専念しはじめた。天野も、ぼんやりとしているスタッフに仕事に戻るように命じた。ついでに、温度を高くしたエアコンを元に戻すように指示する。


 フロアは、再び、楽しげな会話と笑顔に満たされていった。ただ一か所、伊佐美のいる場所だけが暖かな雰囲気とはほど遠い状態で取り残されたが、彼だけが、そのことに気が付いていないようだった。彼女の気持ちが自分にないことについては、ようやく悟ったようではあったが、それでも、彼はまだ、なんとか彼女の気持ちを自分に向けさせようと足掻いていた。だが、彼が必死になればなるほど、彼女の気持ちどころか傍観者の天野の気持ちまでもが、冷たく乾いていく。

「嘘をついたことは、悪かったと思っているよ。 飯田のことは始めから誘ってない。今日は君と食事したくて、君だけを誘ったんだ」

 伊佐美が必死になって彼女に言い訳している。

「なんて奴だ。彼女を騙して連れてきたのかよ」

 天野は、無理をして伊佐美のために席を用意したことを後悔した。


 一方、ピアニスト加奈子は、伊佐美の同じ台詞から天野とは別のことを察したようだ。

「飯田さんが来ると聞いたから、彼女さんは、伊佐美さんの誘いに乗ったわけですか」

 加奈子は独りごとのように呟くと、「ところで、あなたは、彼女さんとあの男の方とが『つきあっている』と思っていらしたんですか?」と、飯田にたずねた。

「彼女とは深い仲になっていると伊佐美から聞いていましたから」

「彼女のほうは? 彼女が伊佐美さんと付き合っていると言うのを聞いたことはありますか? あるいは、彼が好きだとかそういう類のことは? たずねたみたことは?」

 矢継ぎ早に、加奈子が立ち入った質問を飯田にぶつける。

「訊いてみようと思ったことはあるんですけど」

 飯田が首を振った。

「彼女にひどく怒られてしまいました。『私が誰と付き合おうと、あなたの知ったことではないでしょう?』って」 


「……なんだよ。そういうことか」

「そういうことなのでしょうね」

 面白くなさげに呟く天野に、加奈子が楽しそうに微笑む。飯田だけは、わかっていないようだ。「え? どういうことなんですか?」と首をひねっている。


 そうこう言っているうちに、彼女が、とうとう席を立った。「さようなら、もう二度と、もうお会いしません」と伊佐美に宣言し、こちらに歩いてくる。天野を見ながら向かってくるところをみると、彼に用があるようだ。叱責を覚悟しながら営業用の笑顔で応じた天野に、彼女が、財布から取り出した3万円を見せた。

「お食事の代金。私の分だけ、払いたいんです。テーブルに伝票が置いてなかったんですけど これだけあれば足りますか?」

「充分でございます。お待ちください。ただいま、おつりを」

「いりません。チップとして、そこのウェイターさんにでも、あげといてください」

 彼女は飯田に目をやると、「馬鹿! 大っ嫌いっ!」という言葉を投げつけてレストランを走り出ていった。


「ま、真琴さん?!」

 飯田が彼女の名前を呼んだ。 

「そういうことだよ」

 うろたえている飯田に天野が教えてやる。

「まだ、わからないのか? 君が来るって聞いたから、彼女はここに来たんだ。君が最大のライバルになりそうだから、伊佐美くんは君に対して彼女と付き合っているような嘘をつき、道化みたいなサンタの役目を押し付けたんだ」

「え? え?」

「彼女、走って出て行ったから、コートを忘れていったんじゃないかしら? 外は寒いから薄着だと凍えちゃいますよ」

 加奈子が天野に加勢してくれる。天野は、飯田の背を押すようにしてレストランの出口へと誘導すると、クロークから持ってこさせた彼女のコートと彼の荷物を押しつけた。


「ほら、早く行ってやれよ。今すぐに誤解を解いておかないと、一生後悔することになると思うぞ。そのウェイターの服は、後で返しにきてくれればいいから」

 笑いながら、天野は飯田をうながした。ついでに、サンタが持っていた白い袋も渡してやる。袋の底には、飯田自身が用意した、彼女の好物だという子供用の菓子の詰め合わせが大量に残っているはずだ。

「はい。すみません ありがとうございます」

 コートとプレゼントの袋を手に、飯田が駆け出していく。


「よいクリスマスを!」

 飯田の背中に向かって天野は声をかけた。 

 このレストランを出たら、天野たちができることは少ない。コートと飯田が、散々なクリスマスディナーを過ごした彼女の気持ちを温めてくれることを、天野は願った。

 ピアニストの加奈子も、彼と同じ気持ちであるようだった。《ハレルヤ》を弾き終えた彼女が演奏し始めたのは、バラード調にアレンジされた《レット・イット・スノウ》。天野の記憶が確かなら、この曲には、雪の夜に中学生並みに初々しい恋人たちが寄り添いあって温かく過ごすというような歌詞がついている。


 良い選曲だと思いながら、天野は、満足げにフロアを見回した。客たちが、美味しそうに料理を口にしながら、それぞれのパートナーとの会話に興じている。加奈子の奏でるメロディーが、温かな紅茶の中に放り込んだ角砂糖のように、彼らの笑い声の中に甘く解けて混じり合う。音楽の中をたゆたうように、ウェイターやウェイトレスが、各テーブルの食事の進行状況を見ながら手際よく料理を運んでいく。

「一時は、どうなることになるかと思ったけれども」

 見慣れているけれども愛おしい風景に目を細めながら、天野は、安堵のため息をついた。しかしながら、責任者としては、『これでお終い』とするわけにはいかない。 


 フロアには、彼女にフラれた伊佐美が残っていた。彼は、彼女が去って行った方向に顔を向けたまま、その場に立ち尽くしていた。加奈子のピアノも周囲の楽しげな様子も、彼の目にも耳にも届いていないようである。天野の目には、まるで目に見えない雪が、重く冷たく絶え間なく彼の頭上に降り積もっているかのように見えた。

 やがて、見えない雪の重さに耐えかねたかのように伊佐美がうつむき、席に腰を下ろした。膝に置いた手を握りしめたまま顔を上げない所をみると、泣いているようである。


「伊佐美さまにホットワインを」

 天野は厨房にオーダーを出すと、湯気と一緒にスパイスの香りを立ち上らせているそれを、自ら伊佐美のテーブルに運んだ。


 恋をなくしたばかりの男に寒空は堪えるだろう。独りで外に出ていく前に、少しでも温まってもらいたいと思ったのだ。 


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クリスマス☆さぷらいず 風花てい(koharu) @koharukaze

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