Dear my ......
@yoll
第1話
-1-
一人の男が初春の快晴の空の下、ぎぃぎぃと耳障りな金属音を立てながら錆びの浮いた物置のドアをゆっくりと開けていた。
中天の日差しは物置の奥まで照らすことは無かったが、砂利だらけの地面で反射された陽光が薄っすらと積み上げられた荷物の影を薄れさせている。
物置の中にはチャイルドシートやベビーベッド、ベビーバスなど幼児用の大物が綺麗にビニールシートに包まれて鎮座していた。多少の汚れはあるものの比較的綺麗な状態に保たれているのが薄暗い物置の中でも良く分かった。
男はそれらを少し物置の端に寄せ、奥から一台のロードバイクを引っ張り出すとそれを青空の下に持ち出した。暖かい日差しに照らされた真っ黒いフレームには白い文字でCannondaleと書かれている。
そのロードバイクは長いこと物置の中に仕舞い込まれていたのだろう。本来であれば室内で保管しておくべきだろうアルミフレームのロードバイクは、所々に薄っすらと錆が浮いていた。ワイヤーやチェーン等も分厚い錆によって茶色く変色し、タイヤは完全に空気が抜けており物置の底に接触していた部分が変形している。
男は小さく溜息をつきながらもう一度物置の中へと戻ると、今度は自転車のメンテナンス用品が入った赤いツールボックスを取り出しロードバイクの隣に静かに置いた。
暖かな日差しの下、男はゆっくりと向かい合うようにしてロードバイクの部品交換を行っていく。幸いにもツールボックスに収められた消耗品関係は勿論万全の状態からは程遠いものの、それなりの状態を保っていた様だ。
チェーンやワイヤー、スプロケット等の部品を油にまみれながら交換をしてゆく。額には珠のような汗が幾つも浮かんでは顎を伝い砂利の上に落ちていった。
-2-
最低限の部品だけを交換したロードバイクはコンポーネントの調整不足からだろう、変速時などには不満を漏らしながらも最低限度の仕事をこなし男を乗せて風を切った。
男は記憶の中の相棒との違いに思わず苦笑を浮かべながら目的地までペダルを踏み込み続ける。サイクリングコンピュータの台座には何も取り付けられていないため、今の速度がどれ位なのか正確にはわからない。男が学生の頃であればチラチラとサイクリングコンピュータの画面に目を落としていたが、今はそんな数字に囚われず、ただひたすらにペダルを踏み込んでいた。
男は川に掛かる橋を越え、川に沿って続くサイクリングロードに入る道を進んだ。道なりに進んでいくと現れてきた緩やかな下り坂をブレーキをかけながら下りてゆく。
すると恐らく千回以上は往復しただろう見慣れていた道が男の視界に飛び込んでくる。記憶の中ではもう少し道路状況が良かったはずだが、この数年の内に劣化をしたのだろう。アスファルトには幾つものひびやうねりが走っていた。
まだ風が吹くと寒さを感じる初春のサイクリングロードは平日の昼間ということもあり、片手の指で足りるほどの人しか見当たらなかった。それも全てがランニング目的でロードバイクの姿は見当たらない。
もし、知り合いに会ったらどうしようかと気を揉んでいた男は安心からか、長い息を吐くと再びペダルを漕ぐ足に力を込め、徐々にスピードを上げ始める。
川沿いの木には小さな緑色の木の葉が既に幾つも芽吹いていた。真っ直ぐに降り注いでいる陽光を残さずに受け止めようと、その小さな体を目一杯広げている。
そんな春の生命力にちらりと目をやり、少し驚いたような表情を見せながらもペダルを漕ぎ続け、サイクリングロードの終点に到着すると今度は一般道へと通じている上り坂を上ってゆく。
斜度としては5%程度なのだろうが、ここ暫くは運動すらまともにしていなかった男の体にはそれなりに堪えたようで頂上まで登りきると一度地面に足を下ろし、顎を伝って流れている汗を掌で拭い捨てた。
短い休憩だったが息が整った男は再びペダルを漕ぎ始める。右手には鬱蒼と茂った林が見える。左手にはここ4、5年で造成された新興住宅街が目に入ってきた。そのまま暫く道なりに進んでいくと十字路の右側手前にはバスの停留所が見えてくる。
誰もいない停留所を見ながら右折をする。暫く直線が続き左手には大きな公園が見えてくる。そこで行われるクリテリウムという自転車のレースには男も出場したこともあり、その公園を通り過ぎる際には少しだけ速度を落としながら走行していた。だが、それも僅かな時間だけで直ぐに速度を上げながら目的地までロードバイクを走らせていった。
-3-
幾つかの市街地を抜け、川を越え、畑の間の農道を走り抜けると霊園が見えてきた。男はその霊園に入っていくと一つの墓で完全に速度を落とした。
ロードバイクが停まった前に佇んでいるその墓には霧島家之墓と彫られている。
男はロードバイクを降りるとゆっくりと墓石の前に腰を下ろした。顔は俯き加減で表情は見ることが出来ない。
その顔を向けた先、つまり真新しい墓石の周りには2、3センチほど伸びた雑草が芽を出していた。男は腰を降ろしたまま、手の届く範囲の雑草を丁寧に一本ずつ抜き始める。
そうして暫く無言のままそうしていたが、手の届く範囲にもう抜ける雑草がなくなると少し座る位置をずらし、また再び手の届く範囲の雑草を抜き始める。男はその動作だけを何度も繰り返していた。
三十分ほどもしただろうか。墓石の周りの雑草が全て無くなった頃には指と爪の間にはびっしりと土と緑色の草の汁がこびりついていた。男はパンパンと掌を叩いて指の先の土を雑に払い落とし、ズボンで草の汁を拭ったたあとに一度長く息を吐くと墓石の正面に座り直し、碑銘を見上げるように顔を上げた。
男の表情はまるで親に怒られた子供のように歪み、今にでも泣き出しそうな顔をしている。
手を伸ばし、墓石に手を触れるとゆっくりと口を開いた。
なぁ。相変わらず色んなことがあったよ。
お前がいなくなってから、麻衣もずいぶん大きくなったよな。
夜泣きすることも随分減ったかな。体重もあの時から倍以上に増えたよ。服のサイズはそろそろ90かな。まだ相変わらず一人で子供服売り場に入るのが一寸恥ずかしくてさ。髪留めとかなんてさっぱり分からないの。留め方なんてもっと分からないしさ。でも、何とか頑張ってるよ。三つ編みはまだまだ無理そうだけど。
保育園に行く時も泣かなくなったしさ、俺の作るお弁当も随分と残さないで食べてくれるようになったよ。先生には入れる量が多すぎますって言われるんだけどさ、中々上手くいかないもんだな。二人分って。
でもさぁ、自分でもそこそこ料理は上手くなってきたと思うんだよな。本棚にあった料理の本、随分と読み込んだよ。自分でも新しい本を買ってみたし、休みの日には実際に作ってみたりもしてみたよ。
想像できないだろ?俺が料理してるんだぜ?卵焼きも上手く作れなかったのにさ。もっとお前に料理教えてもらえばよかったな。ああ、でも家にいたらやっぱりお前のご飯が食べたいから俺が作ることもなかったのかな。
今だったら家事の大変さがわかってるから幾らでも手伝うと思うよ。何時もありがとうな。本当に感謝してる。
ああ。もう一度お前のご飯が食べたいなぁ。麻衣にもお前のご飯食べさせてやりたかったなぁ。
なぁ、聞いてくれよ。
今日はここに来るのに自転車に乗ってきたんだぜ。お前はどう思うのかな。
怒るのかな。それとも困った顔をするのかな。多分きっと、呆れた顔でもしてるんだろうな。でも、しょうがないなぁって言ってくれるんだろうな。
俺さ。あの後から自転車に乗れなくなって、ずっと物置に入れちゃってさ。見ての通り相棒がボロボロになっちゃったよ。酷いことしちゃったよな。
何となく今日自転車に乗りたくなって、昔のこと思い出して、必死に整備をしてここまでやって来たよ。もう整備のことも大分忘れててさ、実際に走り出すまで少し不安だったけど体って憶えているもんなんだな。万全とまでは行かないけれど、ちゃんと走れる状態まで整備できたみたいだよ。
……絶対に事故る訳にはいかないもんな。わかってる。今度お店に行ってしっかりと整備してもらってくるよ。
ああ、麻衣は保育園に行ってるんだ。たまたま今日は午前中で仕事上げさせてもらうことが出来てさ。ちょっと申し訳ないんだけどお前に逢いに来ることを優先させてもらっちゃった。勿論延長保育にならないように帰ったら直ぐに迎えに行くから安心してくれよ。
だから今日はもう少しだけ、ここにいてもいいかな。美里。
でも何で自転車に乗ろうって思ったのかな。
そろそろ前に進めってことなのかな。
まだ良く分からないや。
でもさ、今日自転車に乗ったら色がついたんだ。
色がついたんだ。
サイクリングロードの木の葉が緑に見えたんだ。
びっくりした。灰色だった俺の世界はまた色が戻ったよ。
もしかしてお前のお陰かな。麻衣の前で何時までも辛気臭い顔してんじゃないよって。
見かねて魔法でも掛けてくれたのかな。ありがとな。本当に。
ありがとう。
本当は麻衣のことをもっと教えたいって思ってたんだけど。何だか自分のことばかり話しちゃってごめんな。
でも、ずっと俺たちのこと見守っててくれてるだろうから、わかってるかな。
だから今は少しだけ。少しだけ甘えさせてくれよ。
お前の前で位は泣いたって許してくれるかな。もう泣いてるから今更かな。
逢いたいなぁ。逢いたいよ。
愛してる。
―――――。
じゃあさ。また来るよ。次は麻衣も一緒にさ。今日はありがとう。愚痴ばっかり聞かせちゃって。少しすっきりした。これでまだまだ頑張れそうだよ。腰とか肩とか痛くなってきてるけど、仕方ないか。年取ってきたもんな。写真のお前は何時までも綺麗で可愛いままなのが少しだけ羨ましいよ。
俺もその内そっちに行くから可愛いままでいてくれよ。俺は大分爺さんになってるかもしれないけどさ。
うん。それじゃあ。
ま、家に帰ってもこうやって話はするんだろうけど何か気分ってやつだよな。はは。また家でな。
男はゆっくりと立ち上がり頬を伝う涙を掌で拭うと、ロードバイクに跨りペダルを踏み込みその場を去って行った。
暫くすると、春の風が積み上げられていた萎びた緑を綺麗に何処かへと吹き散らし、残された墓石は静かに傾きかけた陽の光を浴びて鈍く輝いていた。
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