第36話

「「かんぱーい!」」


週末の夜。華金だ。

僕の片手にはいつもの並々に注がれたビールが7:3の黄金比を保っている。


これが最後だと暫し感傷に浸りつつ、僕はそのビールを口に近づけて...


「おい、月見里!俺と乾杯したか?してないよな!」


「月見里さん、あれだけ真面目だったのにいつの間に...。ま、乾杯ですね!」


口元まで近づけたグラスの中身は僕の胃に流れることなく、みんなとの乾杯によって泡が地面に零れる。


「おいおい...」


嫌なわけじゃない、みんなの優しさが嬉しいだけだ。


「月見里が居なくなると寂しくなるな。辞めようと思ってる、からほんの一カ月で退職届け出すなんて恐れ入ったよ」


「部長からはなんて言われたんだ?」


やっぱり気になるのはそこだろう。


「引き留められたけど、丁重にお断りしたよ。別に怒ってる感じでもなかった」


「もうめんどくさくなったんじゃないか」


同僚がもっともらしいことを言うので、僕はその通りだといって腹を抱えて笑う。


「月見里の退職祝いだっていうのに、いつもと同じ会場で悪いけどな」


「そんなこと気にするなよ。場を設けてくれただけでも僕は嬉しいから」


今日は出社最終日だ。辞めるまでにあれから二カ月かかった。有給はほとんど使ってたから退職するまでに必要な期間だけ残っておさらばだ。


退職する日のみんなへの挨拶はちょっと泣きそうになった。そこでようやく辞める人の気持ちが分かったってところだろうか。それでも後悔はなかった。


盛り上がってる最中で、ずっと隣にいた千羽が声をかけてきた。


「お疲れ様でした」


覇気が無いように見える表情でお酒の入ったグラスを近づけてくるので、二度目の乾杯をする。


「千羽。お疲れさま」


それ以上言うでもなく、僕はビールを飲んで「ふー」とゆっくり息を吐いた。千羽が何か言いたげなのは分かってたからそれとなく待つ。


「...挨拶では濁してましたけど、次って決まってるんですか」


いきなりそこを付いてくるか。


「速攻だね。千羽にだけ言うけど」


千羽には話していいと思う。部下だから、口が堅いからそういうわけじゃなくて、心のどこかで申し訳ないと思ってる自分がいたから。まだ教えられることはあったし、伸びしろも十分だ。まぁ彼女は僕より仕事ができるから、誰の下についても十分な活躍をするだろう。


「次はゲーム関連に行くことになる」


「どこにいくんですか」


「...気になる?」


「はい。気になります。後輩なので」


声のトーンはいつもより落ちているはずなのに、言ってることはいつもより真っすぐな千羽に嘘は付けないなと思う。


「実は会社じゃなくて、個人でゲーム作ってるやつと一緒にやろうと思ってるんだ」


「インディーズってことですか」


「いんでぃーずって?」


僕は知らない単語が多いらしい。ちょっと専門用語になるとてんでダメでオウム返しを余儀なくされる。


「はっはは」


千羽は僕の問いに答えるでもなく、ただ小さく笑って顔を下に下げたまま笑っていた。


「なんだ。そういうことですか」


それだけ言うと、持ってたグラスに入ってたお酒をグイッと飲み干す。結構な量だ。


「あんまり無理しない方がいいだろ。千羽には来週にも仕事が」


「先輩はあれですか?仕事辞めて夢、追っちゃう系ですか?」


その口調にいつもの元気はなくて、口元だけが微かに笑っている。バカにしたようなものじゃなくて諦めが入ったようなそんな声色。


「そうだね。青臭いかもしれないけど、ようやく目標が見つかったんだ」


「甘くないと思いますけどね。夢を追うってことがどれだけ大変か」


「千羽...?」


「そんなことより、先輩聞いてくださいよ。先輩の代わりに来る上司が怖そうなんで私も有給欲しいです!」


いつもの千羽。通りの良い甘ったるい声になる。それでも一瞬だけ見せた彼女の表情が頭から離れなくて僕は反応に遅れた。


「いや、そんな理由じゃ有給とれないから」


「人が少ないせいで、先輩の仕事私にたくさん回ってきましたし。引継ぎ資料信じていいんですよね?ですよね?」


「心配なのは分かる。僕が目を通したから多分大丈夫だ」


「この場合の多分はダメなやつだと思います」


人間だししょうがないよなと苦笑いしつつ、1つだけきがかりだったことを聞いてみる。


「千羽はこれからもこの会社にいるの?辞めようかなって話は聞いたことがあるけど」


「迷ってます。先輩も居なくなっちゃったし、ここに残る意味あんまりないかなって感じです」


「千羽は出世とかどうでも良さそうだもんね。ちゃんと働けば上を目指せる能力があることは僕が知ってるし」


難しい所だと思う。どうしても残業した人間、頑張っている姿勢をみせた人間が高い評価を受けやすい会社だと、千羽のように効率よく仕事を済ませて定時帰りするタイプには目が届きにくい。直属の上司ならまだしもそれ以外の人間に千羽のことがどう見えているかは分かりづらいものがある。


これだけは相性ってやつで。


「評価してくれるのは嬉しいです。先輩の言う通り上に上がる気もなければ、他に行くところも無くて」


ははは、と力なく笑う千羽。


「さ、私のことは気にしないでパーっといきましょう。今日は先輩の祝っての集まりなんですから。ほんとは私お寿司が良かったんですけど」


「僕にそれ言うかな?あ、でも千羽さえよければ呼んでくれれば寿司でも何でも奢るよ」


思えばあんまりご飯も一緒にできなくて、先輩らしいことが出来たかといえば怪しい。


「それでこそ私の先輩です。いやーほんと先輩の部下でラッキーでした...」


「千羽」


「先に行っててください。いつかまた会える気がします」


「ごめん」


「なんで先輩が謝るんですかぁ...」


返事をする代わりに、僕は黙ってハンカチを差し出した。

笑ってお別れをするのは難しい。


「いや、大丈夫です。自分のがあるので」


強く否定してから千羽は鞄からハンカチを取り出していた。


それからは周りに泣かせたな月見里!と言われて、誤解を解くのに時間を使って、お開きの時間になった。


みんなとはまた会おうとお決まりのフレーズでおさらばとなり、


「奢りの件、忘れちゃだめですからね?絶対ですよ」


千羽には念には念を押されたので、近いうちに会うこともあるかもしれない。


みんなを見送ってからその足で、僕は家に帰って支度をしてから何時もの場所に向かった。



「おじゃまします」


リビングのドアを開けて見回すと怪訝な顔をした月坂が僕を見て言う。


「もうすぐ深夜なのによく来たわね」


「月坂の家が一番集中できるんだ」


当たり前のように柚白は最新のゲームで遊んでいる。今回はVRじゃなくてテレビゲームだけど、ヘッドフォンをしているので僕が入ってきたことに気づいてるかも怪しい。


「ま、いいけど。今日は退職日って聞いてたから、来ないと思ってた」


「そのせいで今日何も書いてないから落ち着かなくて」


呆れた顔をして作業に戻る月坂を横目に僕もテーブルにPCを乗せて、テキストを開く。


月坂と出会ってもう半年が過ぎようとしている。勿論不安はある。だけど選んだ道を後悔しないために僕はこれからも走り続けようと、そう強く思った。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕が会社を辞めるのは、彼女(ニート)のせい? 宙いるか @mugic

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ