3.夜明の二人

「おはよう」

 Kが目覚めると、少女が目の前に立っていた。

「おはようございます」応えるKの声は鈍い。

「朝からで申し訳ないけど、会ってほしい人がいるんだ」

 Kの顔を覗き込む少女との距離が縮まる。口元から鼻を抜け額にいたるライン、おそらく左右非対称であろう少女の表情が、少し強張っているようにみえる。昨日話した時と様子が違い、リムライトのせいだろうか、少女の輪郭が朝日の中に際立っていた。

「もちろん、いいですよ。時間ならあるので」Kはその真剣な声に疑問を挟まなかった。「どこかへ移動しますか?」

「こちらへ」

 そういうと少女はポータルを開いた。


 白い部屋だった。その白は無機質で、あらゆる目的を受け入れる。

「今日のために用意したんだ。あっちの鏡の方へ行こう」ここに鏡を設置するスイッチがあるよ、と少女はKを誘導し、鏡の前へ立たせ、自分の身体を鏡とKの間に滑り込ませた。Kと少女が向かい合う。


「その、会ってほしい人というのはどこに?」Kの質問に少女が応える

「ごめん、その前に少しだけ話を聞いてほしい」

 少女は語り始めた。

「どこから話そう。unityからアバターをアップロードするとき、VRC-SDKではビューポイントの設定に灰色の球体が使われてたのを覚えてる?ユーザー側のカメラの座標を指定するときに出てくる灰色の球体。たぶん僕は、VRChatに入るとき、自分があの球体になっていると理解してたんだ。この少女のアバターを通して、内側から世界を覗き見るような」少女は左手を伸ばし、人差し指をKの眉間へと突き刺した。「この裏あたりかな。Kのビューポイントは。」急に突き付けられた指先に、Kは額をピンで留められたかのように動けなくなってしまう。心臓を直接握られるというのはこのようなことをいうのだろうか。


「アバターの裏から世界を覗き見ているというのは、今となってもやはり実感としては間違ってなかったと思う。僕とこの少女は、容姿もパーソナリティも全く似つかない。表象にすらなりえない。何より、いま話しているのは僕自身だしね。でも」少女は一度、言葉を切った。「でも、ここに身体がある。僕の思い通りに動く身体なのに、少女の身体で。それは少女の身体であると同時に、僕の身体だったんだ。」


 気が付くと、白い部屋には柔らかなメトロノームの音が響いていた。心なしか、Kの目には少女の輪郭がぼやけて見える。

 ゆっくり落ち着いてリズムに任せて少女の言葉を聞くよう、少女が語り掛けてきた。少女の語りが、Kの心の深くに抵抗なくすんなりと入ってくる。


「たとえば、右手」少女はKの右手を指さした。「少し持ち上げてみてほしい。Kの右手で、あなたは自由に動かすことができる」少女はKの右腕に触れない程度に左手を添え、Kの右腕がゆっくりと上がるのに沿って動かした。初めてひとりで包丁を握る子供の手に添える親の手のように仰々しく、その手が手であり間違えないように。


「左手も、右足も、左足も」少女はその手を這わせながら、ひとつひとつKの身体を確認していく。「腹がある。胸がある。首、白い澄やかな顔がある」これが身体なんだと少女は繰り返す。


「そろそろ、はじめよう」


 突如、Kの右手が綻び始めた。いままでその身体を成していた多角形ポリゴンが解れ、端から小さな立方体の集合となって四散していく。手の先から何かに食べられているかのように、先ほどまで五指だったものが細かく立方体へと噛みつぶされ、消えていく。

「何ですかこれは?何が起こってるんですか?」痛みのない身体の喪失に、Kは驚き少女を責める。話している間にも、右手は次々に侵食されていた。

「鏡を見て」聞こえた声に顔をあげる。

 Kは驚きに息を飲んだ。鏡のなかのK——SHAC-10をベースとした白い女性——は、、澄ました顔でこちらを見返していたのだ。

 自分の右手を確認すると、それはもう二の腕のあたりまで消えかかっていた。どうして、自分の右手は消えているのに、鏡の向こうの彼女の右手は消えていないのか。

「彼女がKなんだ。あなたの想像力が生み、そしてあなたと分離することで誕生した。そして最後にあなたの肉体を得る——受肉したKなんだ。」

 右手だけじゃない。左手も右足も左足も、順番に多角形ポリゴンが解れていく。追い立てられるKの焦燥に対し、鏡の中のKは悠々とこちらを見返していた。


 身体をなしていた多角形ポリゴンの分解は勢いを増し、ついに下腹部から首にかけてKの胴体をすべて立方体に分解し、消滅させてしまった。崩壊はそのままの勢いで顔まで進む。

「あ、消えてしまう」ついにKはその顔を失った。

「さようなら、後はごゆっくり」こちら側のKの身体がすべて消えたのを確認すると、少女の身体もまた細かい立方体となり崩壊した。


 そして、鏡の向こうのだけが残った。


「ここはどこなんですか」鏡の中のKは彼女らしく落ち着き払った声で少女へ説明を促す。

「鏡の中だよ。彼らは鏡の外にいる。別にオブジェクト自体がなくなったわけじゃないからね。ちょっと見えなくなってただけ」ほら、少女がそういいながら鏡の外を指すと、そこには一度は消えた身体が再現していた。しかし、先ほどまでとは様子が違う。「いま、あの身体は私たち鏡の中の動きを模する傀儡に過ぎないよ。彼らは自分の身体を見失った。その間だけでいいんだ、私たちの時間としようじゃないか」少女はKへと近づく。なにしろなんだ、少女は溢した。

「やっと君に会えた」

 少女は両手をKの頬へと伸ばし、その顔を包み込む。

 瞬間、Kは肌に電流が走るのを感じる。少女に触れられた部分を中心に赤いグラデーションがかかっているかのような、視界外なのにもかかわらず、少女がいま彼女の表皮と交わっていることが確かに感じられる。これが触れられるということなんですね、Kの言葉に少女が口元をほころばせた。

「温かい」これがそういうことだ、と少女はつぶやく。

 少女の両手がKの両肩にすべり、上腕から肘を通り手首へと流れる。血が流れるというのはこういうことなのだろうか、Kは腕に自分の意思が流れ込むのを感じた。Kの右手が前に出る。少し大きな掌が、少女の掌と合わさる。


「ぱくっ」少女がいたずらそうな顔でKの人差し指を口に含んだ。指先が視界から消えてしまうと、上目遣いでKを見上げる少女の顔に、Kは恥ずかしさで身を震わせた。指先の一点に意識が集中する。少女が首を左右に振ると、先端を包む艶やかな触感がKの全身を貫いた。


「息が上がってるね」はぁはぁはぁ、少女に指摘されてKは部屋に響く荒い息が自分のものだと気付いた。

「次は君に動いてほしい」

 少女はKの頭に手を添え、屈むように促した。Kの顔が少女の下腹部の前に突き付けられる。

「顔を前に動かして」

 朦朧とする頭でKは少女の声を聞き、言われるがままに顔を白いワンピースのなかに潜り込ませる。

「熱いっ」視界一面を白く染める熱さにKは顔を跳ね戻した。「もう一度!」少女が上気した声で手をKの頭に押さえつけると、Kは再び顔を少女の下腹部へと沈めた。白だけじゃない、火花のような黄色い煌めきがいくつも炸裂する。耐えかねて顔を引き下げるが、次は自分から顔を前へ押し出した。

「そう、もっと早く!もっと早く!」

 目まぐるしく切り替わる色彩、熱冷の入れ替わりにKは意識を集中させる。次第に動きは滑らかに、少女の下腹部を抉り取るように変化する。

「くっ…!」少女から漏れ出た艶めかしい声が、Kの脳内で何かを弾けさせた。鼻から溢れる声とともに、Kは最後の一振りを少女へと打ち付ける。

「あぁ!」思わず上げてしまった声にKは羞恥を覚えながらも、絶頂の後の倦怠感のなかへと静かに潜り込んでいくのだった。



「いつも顔を重ねるとき、こんな風に感じていたんですか」

 向かい合わせに座った少女へKは尋ねた。

「どうなのだろう。あれは私を造った彼の興奮だといった方が正確なのかもしれない。もちろん、同時に私も経験してはいたのだけれど。」少女は言った。「いや、でも私だったんだと思う。私に同化させようとしたら、彼に言われたんだ。『他でもない君にKと触れ合って欲しいんだ』って。笑っちゃったよ。彼の行いは独善的な自慰行為だったとは思うのだけど、その自慰行為が彼を排除することでしか成就しないというところに彼の苛立ちがあったんだろうね」

 Kは少女のそばへ寄り、黒髪に覆われた頭へと手を載せた。

「この後、私たちはどうなるんでしょう」

「わからない。でも、君も私も彼らの執着と想像に端を発して生まれた存在だ。彼らの肉体のどこかにも居場所はあるだろうよ。またこうやって会おう。いままでとは違う。次は私たちが彼らの肉体を使えばいいんだから」

 少女とKは、何かを確かめ合うようにふたり見つめ合っていた。



 それぞれが肉体の営みへと回収されていく。ひとりは仕事場へ、ひとりはコンビニへ向かって。人間の肉体を被った彼女たちが歩き始める。30kmを隔てて存在するふたつの肉体は、いまや彼女たちの生存のために維持され更新される。

 ぬらりと光る角膜の奥から、少女たちの眼球が世界をのぞいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それは少女のような球体 @Ytomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ