2.夜更の幽霊

 そこは雪の降る夜だった。廊下からふすまを通り座敷へ入ると、他に動くものは誰もいないと知りながら、少女は部屋の中央へと進んだ。


「K、聞こえる?」


 少女は足元で蹲るKへと身をかがめ、静かに話しかけた。足音も衣擦れも体温すらない仮想の世界では、視野の外から気付かれぬように近付くことは容易く、マイクを通した声のみが接近を知らせる手がかりとなる。しかし、その声にも当の人型アバターが反応する様子はない。


「今日もぐっすり眠っているんだね」


 Kは寝息すら立てず、まるで机や布団Static Objectかのように静かだ。


 だが、いまの少女にとっては決して静的なものではない。

 少女のがまた始まる。

 

 仰向けに眠るアバターの前へ這うように回り込むと、右手をその腹へと伸ばした。少女は水面をなでるような手つきで右手を往復させ始める。視覚的な膜に過ぎないと知りながら、Kが身に着けているフリース素材を模した寝巻に柔らかな外見ならではの抵抗を感じ取る。


 聞こえるはずのない音に少女はより深く、まるでKの内臓を撫でているかのような幻覚を覚え始めた。

「ちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ」

 コントローラーを握る手にはじっとりと汗がにじんでいる。

「じゃぷじゃぷ、じゃぶじゃぷ」

 それは左手も加えて次第に激しくなり、あるはずのない胃を、小腸を、大腸を、そして子宮をかき乱し、混ぜ込んでいく。冷たい表皮の内側が、これだけ熱く感じられるのは何故なのだろうか。

「じゃぶじゃぶ、じゃぶじゃぶ」

 突然「すぅぅぅぅぅ」男は息を吸いながら顔を大きく反らし、勢いよくKの腹へと頭を振り下ろした。

 冷たい表皮で区切られながらも男の手を無防備に受け入れる腹へ向かって、両手に感じた内臓とKの全てが混沌としているであろう腹に向かって、コンマ数秒の間に男の脳裏には鮮烈なイメージが駆け巡る。

「どちゃぷっ」

 セーラー服を着た少女のビューカメラが、Kのアバターのメッシュを突き破る瞬間、少女の興奮は絶頂に達し、力尽きたかのように首をぶら下げた。

 




 突如現れた少女の声に、少女の肩が跳ねる。「たとえそれが君にしか意味を持たない行いだったとしても、寝ている人の身体をまさぐるなんて人道に悖ると思わない?」ふふふっ、少女を鼻で笑う声が少女のなかから聞こえた。


「誰なんだ」眠るKと少女しかいないはずの部屋で声を出したのは誰なのか。問いかけながら、少女たる男は直感的に理解していた。もちろん直感できることと、理解できることは異なる。しかし、いま自分に問いかけているのは、自分がこの空間において自らの身体として把持している、、なぜか男は疑うことができなかった。体温が急激に下がり、それにも関わらず、じっとりとした汗がにじむ。


「そんなに怯えないでよ。私を造ったのは君だろうに」軽やかな笑い声が響く。「そうだな、私のことはメッシュの織り成す表皮に宿った意識だとでも思ってくれればいい。君ならこの説明が一番わかりやすいだろう?」


 目の前の鏡に映るのはひとりの少女。しかし、今はふたつの異なる声が交わっていた。少女は続ける。


「私のコンセプトは<白いワンピースの少女>だったっけ。安直だとは思うけど、それが君の執着だというのはわかるよ。掌から続くしなやかな五指に汚れを知らない乳白の爪、淡白なレースから覗くほんのり色づいた膝の丘陵、そして一本一本に動きを宿したなびく黒髪!これは何日も何か月もかけて私を生み出した君の執着なんだよ。私のことだから。わかるよ。私にはわかる。だから、どうか安心して聞いてほしい。」


「すまない、少し待ってくれ」男は少女の発言を遮った。「混乱しているんだ。おそらく最も理解しやすい説明は、この声が幻聴の類だと言い切ってしまうことだと思う。仕事でずいぶん疲労がたまっているうえ、自分は眠っているKにしたことをたぶん後悔している。もし罪の意識があったなら、おかしな精神状態になっていても驚かない。」


「説明の方法なんてどうでもいいよ。罪の意識?もし悔いていたとしても、それはKに対する罪悪感じゃないでしょう。これくらいで混乱するほど君の倫理観は確固としたものじゃない。言うまでもないね。君が一番わかっているのだから。」少女は滔々と語る。「君が自分を恥ずかしい存在だと感じたのなら、それは私がいるから。他でもない、この私の身体で、くだらないことをしたのを後悔しているのよ。」


「そのアバターの実存を前提にしたような語りぶりをやめてくれ。アバターは私にとってガワに」

「ガワに過ぎないというんでしょう。遠隔地の人物とのコミュニケーションを円滑にする媒介に過ぎないと」少女の声が男の発言を打ち切らせた。

「くだらない反論。このアバターを着るとき、君は君の肉体では絶対にしないだろう動きをするでしょう。ほら、こうやって持て余した手を可愛らしくひらひらさせたり、スカートを翻したり」少女の手がひらひらと揺れる。「もしアバターが、確固とした君自身を伝えるための透明な媒介でしかないのなら、そんなことは起きないはずよ。アバターを身に着けることで、君の行動はアバターの身体に寄せて変換される」そのまま少女は少女らしい動きで身体を回転させ、ワンピースを膨らませた。

 この手は、身体は、少女が動かしている。しかし、男は身体/アバターの主導権が誰かに奪われたとは不思議と思えなかった。少女が動かしたいと思うのと同時に、男もまた動かしたいと思ったとしか表現のしようがない。身体の瞬間的な同期に男は身震いした。

「そろそろわかるでしょう。特に君の場合、私を造りすぎたのよ。それも君自身に深く根付いた欲望に従って」少女がすべてを語らずとも、男はもう理解していた。「君が私について考えていた時間は、ただ私を造っていた時間だけじゃない。君が職場で鬱屈とした感情に殺されかけているとき、かつて教室で苛立ちを隠せなかったとき、抑圧された君の全てがいま形をもって現れたのが私。」

 少女の声は畳みかけるように続ける。

「私と君はによって結び付けられているの。私を真摯に見つめる人は君を見つけ、同時に君を真摯に見つめる人は私を見つける。ならば、君自身が君を、私を真摯に見つめなくてどうするの?」


 鏡の中の少女が少女を見つめている。


「だから、早く、死んで私になりなさい」


しかし、そのとき男の脳裏をよぎったのは、他でもないKの顔だった。

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