それは少女のような球体
@Ytomi
1.夕暮の区画
「あぁ、少女よ!その視線の先にはあなたの眼がある。2つの瞳が1つに重なり合ったとき、目を閉じてなお広がる景色、眼底をよぎる影にはじめての恋を覚えることだろう!」
———————————————
少女が木々の合間から見上げる空は、どこまでも赤く、風はない。高い山脈に囲まれた渓谷をローポリゴンで再現した景観が、この場所のコンセプト——切り取られた夕暮れ――を完璧に具現していた。
「静かだ」
少女は隣のKへと話しかけた。
「私たちだけですから」
少し背の高いKは、右手を少女の頭に乗せながら応える。
「いいや、ここには音楽がないと言いたかった」少女は言った。「動かぬ夕暮れというのも想像以上に退屈だね」
言葉を交わしながらも少女とKの視線は交わらない。並んで立つふたりは、海浜のかもめのように同じ方向を向き、身長を優に超える長方形の鏡を覗き込んでいた。森に不釣り合いな大鏡は、揺れるふたりの身体だけをゆるやかに描画する。
「少しだけ、いいかな」
少女はにわかにKへと体を寄せ、少しつま先立ちになりながら文字通り顔を重ねた。皮膚と皮膚はぶつかることなく、Kのメッシュを突き抜けて少女の視点は内側へ入っていく。「構いませんよ」Kは少女が無理な姿勢をとらずに済むよう身体を屈めた。
彼女たちの身体は網目を塗りつぶした視覚的な膜に過ぎず、その干渉を妨げるものは何もない。空っぽな頭部に潜り込んだ少女は、瞳、白目、アイライン、まつげ、唇、舌、Kの顔を構成する模様のすべてを裏から眺められた。
本来見られるはずのない領域に踏み込んでいるという事実に少女は愉悦を覚える。
Kも少女を拒否せず受け入れ、その素直な反応が少女をさらに喜ばせた。
人型アバターSHAC-10をベースにUCOn製の獣耳を組み合わせたKの顔は、人間の顔と呼ぶには整いすぎていた。開き切ることのない物憂げな目には冷たささえ感じるが、ふとした拍子にほころぶ口元、薄紅色の頬と白い毛で覆われた揺れる耳は、見る者に庇護欲を掻き立てる種類の愛らしさがあった。いままで一体何人の人間がKを取り囲んだことだろう。少女もそのうちの一人にすぎず、Kと少女がふたりきりになったのも数週間ぶりのことだった。
少女は何かを願うかのように力強くKの内へと顔を進める。
整合的に配列されていた顔の模様は、裏返るだけで全体的形態を失った。少女の視界は不均一な薄い肌色に染まり、不揃いなパーツひとつひとつが意思を持っているかのように迫ってくる。
「自分のなかに入られるというのは、やはり妙な感覚です」
困惑を隠せないKの声とともに、口元で赤と薄紅が重なり離れ、肌色の膜にさざ波が立つ。先ほどまでの森の雄大な景色から一転、至近距離で繰り広げられる色の振動に少女は軽い眩暈を覚え、顔を前へ突き出した。平衡感覚の攪乱に確かな興奮を覚える。メッシュが完全に重なった直後、少女の顔はKの表皮を外へと突き抜けた。
しかし、同じ営みのなかにいようと、その意味付けにおいては決定的な違いがあった。
「顔を重ねるのがずいぶん好きなのですね」
Kは少女が何をどう楽しんでいるのかを理解していない。少女の高揚は独りよがりで、それをKに伝えることすら憚られるのだった。「ああ、ずっとこうしていたいくらいだよ」曖昧な少女の返答には仄かに苛立ちがにじむ。
少女はそろそろこの森を離れなければならない頃合いだとKへ伝えた。
たとえ風景が時間の流れと無縁であったとしても、もうひとつの肉体が時の経過を教える。メッシュとマテリアルの組み合わせに過ぎないものを少女の身体たらしめているのは、少女ではない男の肉体の動作であり肉声なのだから。
「僕はそろそろ行くよ」
「ええ、おやすみなさい」
右手の振り下ろしでポップアップするモニターに正確な時刻を確認すると、少女はKに別れを告げ、ログアウトする様子が見えないよう離れた木陰へと隠れた。
Menu>Setting>Exit VRChat
夕焼けの空が小さな三角形に分割され四隅から剥がれていく。グリッドに埋め尽くされた無機質な部屋に引き戻された。
これから
人生とはこんなものだ、と少女は自分に言い聞かせた——興奮と退屈、ゴムのような身体がその伸縮に耐えられなくなるまで緊張と弛緩を繰り返す。
いまから彼は夜勤に行かなければならない。
それぞれが肉体の営みへと回収されていく。
これは視線の交わらないふたりの物語なのだろう。30km以上離れたふたつの部屋で壁に向かって話しかける男たちは、少女として同じ夕暮れの森で単時的な経験を確かに共有していた。しかし、彼女らが彼らの表象に留まる限り、彼女らの身体の交わりは空虚な戯れに過ぎない。そう、この網目で覆われた虚ろな世界で、いかにして炎は木綿を燃やすことができるのだろうか。
プレイヤーを失った
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