3 秘部の風

 重い足を引きずりながら、家路へとつく僕は、駅前のファミレスに寄り道した。ここで少し時間をつぶして、両親が寝るのを待つという魂胆だった。

 ファミレスの天井につけられたテレビでは夕方のニュース番組が流れていた。

 ニュースでは、家庭内暴力と子どもの成長をテーマに各分野の専門家が議論をしている。ふと、ウグイス色のカーディガンを羽織った厚化粧の教育評論家は立ち上がって言い切った。

 「子どもというのは、背中にも目や耳がある。その背中の目や耳は24時間365日開いています。つまり、私たち大人が子どもを監視している以上に子どもは大人の一挙手一投足を常に見て聞いて育っているのです」

 会場では、観覧していた数多の主婦と思われる観客から大きな感嘆がいくつも出た。


 背中の目や耳…。 

 三つ目がとおるじゃあるまいし…。

 そんな戯言…。

 いや待てよ,、、。


 ふと、僕は二十数年の天井のシミを思い出した。


 僕は小さいころ、ひどく病弱でおたふくかぜ、百日ぜきを立て続けにひいた。そんな時はたいてい、父は三兄弟を育てるために必死で常に外出していたので、看病役は母であった。

 とある日、至ってなんの体の不具合もなかったが、僕は病院に連行された。しかも、いつも行く病院ではなく初めて行く街で一番大きい総合病院だった。真白な壁に飾ってあった微笑する少女の自画像や床に敷かれたリノリウムが放つ蛍光灯の光に、小さい僕を怖がらせた。

 元来、ぺちゃくちゃしゃべって世話を焼かせる性格ではなかった僕だったが、不安と緊張からか母に「なにしにきたの」と繰り返し聞いた。母は、担当医の話を聞いていて返答してくれない。ずっと母のセーターの裾を握っていた。

 いよいよ分厚い眼鏡をかけた担当医が小さく見えるレンズ越しの目で私を見た。

「やっぱり痛いかな?」

「・・・」

「すぐに良くなるし、立派な男の子になれるよ!」

「・・・」

「ん?緊張してるかな?…じゃ、お母さん 息子さんを横に」

 子ども特有の人見知りが激しかった私は、体を固くしながら、真一文字の口でかび臭い枕に頭を乗せた。

「じゃあ、ボク、ズボンおろしてみようかー」

 この一文だけだと読者の中にはエロチシズムの極みを感じざる得ない方もいらっしゃるのではないか?だが、これはとある地方都市の中規模総合病院の一隅の診察室で白髪の角ばった顔のおじさんにいわれたのである。集合住宅の知らないスレンダーなおばさんの家のリビングでの話であれば、変態読者の興味となるかもしれないが。


 恥ずかしながらもズボンを下ろし、担当医は僕の許諾なしにパンツを下した。担当医のペンライトで照らされた僕の「ボク」は僕以上に委縮していた。

 担当医はゴム手袋して、先端の切れ口を触ったり無理やり剥こうとした。そのたびに強烈な痛みを感じ、幼き僕は街全体に響き渡る声で絶叫した。母は、僕の両手を押さえ、暴れないようにしながら先生の話を聞いていた。


 泣き疲れ、気が付くと病室のベッドにいた。隣には母が寝ていた。上を見上げると白いタイル生地の天井があり、その中にポツポツと黒いシミのような模様があった。今思えばあれが、いわゆるアスベストではなかったのかと思う。

 病室はすごく静かで、隣のベッドからは小さな寝息が聞こえていた。おそらく深夜だったのだろう。また眠くなってきた僕は、再び目を閉じた。


「…なし来んとかいな?息子の手術なんに…」

「仕事の忙しかけん来れんとよ…」

 読書灯のボヤボヤとした光の中に母と祖母の声が聞こえた。無事に手術らしいものが終わったせいなのか麻酔が効いていて、声は鮮明ではなかったものの父のことを言っているのは分かった。

「仕事、仕事っていわっしゃあけど、こやんまで仕事せないけんと」

「三人ば育てないけんけ、そりゃ大変かろうもんて」

「あんたにまかせっきりちゅうのもおかしかと思うとばってん」

「私しか見る人おらんかろうもん!あんただって三人育ててきたんやけ知っとろうもん」

 母方の祖母も順序こそ違えども2男1女の3人兄妹を育ててきた母である。しかしながら、祖母から聞いた話によれば、遊覧船を家業に祖父と共働きしていて、まともに育てることもできなかったというから、この話はどちらかと言えば愛らしい孫への過保護から生じた言葉だったのかもしれない。

 こんな言葉を、僕は天井の黒いシミと共に聞いてきた。父は仕事で来ていなかった。祖母は母に父の行為をとがめている。母は3人も子どもがいるのだから仕方ないと憤怒している。きっと僕が聞いていないと思いながら話は終わった。


 「子どもというは時に残虐である」

 とある雑誌のコラムでエッセイストが言っていた。それは、不意に大人の範疇、テリトリーに侵入してくることがあるから、常に親は子供が周りにいるときは気を配っておかねばならない。しかし、そうすればいつか親は気疲れを起こす。だから、子供は残虐ということである。

 果たして大人は子どもにどうやって建前として話し、本音をどこで隠せるというのであろうか。子どもは背中にも目や耳があるのなら…。子どもと大人の境なんていっそのことなければいいのに…。


 さて父は、三人の子供を育てるために危険な仕事も昼夜問わずやっていった。それなのに、咽頭がんの悪魔は無差別に父を狙った。いや、実際に罹患した父だけではなく咽頭がんの悪魔は私たち家族まで病巣へいざなったのである。

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風の吹く先に 筑前防人 @ry0404

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