2 偽善の風

福岡に対して道化師である僕は、郷土研究会というボランティアサークルに入った。参加者の平均年齢は60オーバー、いわゆる生涯学習という名目で地域の高齢者が余暇を楽しむサークルなのである。

私がそんな年寄り集会に入ったのは、福岡が好きという理由でないのは、読者自身が一番理解していると思う。それではなぜ僕はサークル加入を決意したのか?

答えは単純明快である。


「休みの日にも家にいたくなかった」


福岡に戻ってすぐ、一人暮らしをすることも考えた。以前勤務していたG社では、社宅という形式で仕事場のドア挟んで向かいに小さな部屋を与えられ、寝食をそこで過ごした。

初めての一人暮らしに最初はやっと家族や福岡と離れることができた喜びから楽しくて仕方なかった。自分で何を食べるか決めれる。多少は部屋を汚していても怒られなかった。休みの日には誰とも会わなくてもよかった。本来なら大抵の人が大学生のうちに感じる思いを数年遅れて感じていた。

だが、その思いもある時を境に急激に変わっていった。変わった原因は赴任した先が広島という慣れない土地であったのもあるかもしれない。

でも、それ以上に私は福岡からの「束縛状態」から完全に抜け出せていなかったからこそ、2年も経たずに辞めてしまったのである。


まず、G社の本社は福岡であった。言わずもがな上司は福岡人(厳密には福岡在住の人)である。

仕事場は基本正社員である私一人と広島人である清掃パートのKさんや大学生のフロントアルバイトMさん、無口な男性フロントアルバイトのSさんしかいなかったが、毎日福岡の本社の人間とは少なからず連絡を要する。


ここからの話は、福岡人だからというよりは、G社そのものの社内体質がおかしいと思って読んでほしい。


とある日、ふと社宅費が給与から引かれていることに気がついた。入社前にほんの触りだけ「住宅手当を支給し社宅費として手当額そのものを差し引くので、実質社宅費は0円です」という説明は受けた。

しかしながら、この社宅費の算出方法については全く聞いてなく、追々調べるとG社の社宅の中でもベスト3に入るくらいの高さなのである。ちなみに基本給が大学生が冬休みに卒業旅行の費用のために必死に一ヶ月働いたらもらえる程度の額の給与だったので、千円単位でも安い方が手元に入る額は変わってくる。


このことを上司に問いただすと担当に確認するので、の一点張り。上司の担当確認の返答は、回答先送りだということを既に知っていた僕は「本日中に回答頂きたいです」と強く懇願した。今までと違う態度に業を煮やした上司は、小さい声ながらもはい、とだけ答え電話を切った。


その後、つつがなく仕事を終わり、仕事終わりにやっと仲良くなったパートのKさんと会社の愚痴を肴に飲んでいた。Kさんは私より在勤歴は長く、その分会社についてのいろんなことを知っていた。だから、僕も聞いてためになることばかりで、会社に対してある種の敵愾心もKさんと仲良くなるにつれ、芽生え始めていた。


そんなKさんと爆笑しながら空になった缶をいくつか作り上げていた頃、僕のスマホが鳴った。

相手はあの上司だった。上司のお疲れ様です、の第一声にちょっとした怒りが見えた。恐らくあなたに連絡するためになんで私の時間取らせるの?みたいな感情の表れだった。

「担当と確認して、社則にも記載があるとのことですが、会社から貸与されているお部屋の広さによって、金額が変わるようですねー」

「広さですか、、、。あれ?私のところは〇〇さん(同じく広島地区に赴任している方)のお部屋より狭いはずなんですが、、、」

「お部屋自体は確かに〇〇さんの方が広いんだけど、お風呂やトイレもお部屋の一部に考えてるからどうしても社宅費は今の金額になるんです」

だけど、ですねーの後に聞こえるようにする溜息にも憤りを感じたが、私が初めて知る社宅費の算出方法に高いことが当たり前と言わんばかりの態度に僕は初めて会社に失望した。Kさんの話も聞いていただけに初めて正社員となった私は会社の在り方そのものに不信感を募らせるきっかけとなった日だった。

その電話連絡の最後に上司は「福岡の本社の皆さんも同じくらいの給与で頑張っていらっしゃるので、引き続きよろしくお願いします」と早口に言われ、また福岡かと知らない街で悲観した。


福岡という地から逃れてやっと手に入れた自由をまた福岡に奪われてしまうと気がついた瞬間だった。

それから僕は仕事に対しても今まで以上に意欲を失っていき、仲良くしてきたKさんにも裏切り行為をしてしまうまで心がやつれてしまった。それほど会社という毒牙、そして福岡という2文字に痛めつけられたのである。しかしながら、Kさんは僕の過ちを許してくれたばかりではなく、会社の態度にもある程度の理解を示してくれて、私がG社を退職するのと前後してKさんも去っていった。

読者の中にKさんがいたら、この過ちを改めて侘びて、二人でよく行った焼き鳥屋でまた恨み節を肴に飲み食いしたいと思う。


そんな訳で私はG社を辞め、すぐに福岡に戻る気にもなれず、群馬の山奥で皿洗いの仕事に就いた。

朝は6時から中休みはあるものの夜は23時まで働いた。慣れるまでは苦しかったが、同僚たちも同じ境地であること、3ヶ月契約というゴールが近かったこと、そして何よりも福岡と地理的にも遠く、心が穏やかになれた。


契約更新してもっと長くいたいと感じていた時、母からラインが来た。

「お父さんの癌が再発した。声帯を取らなければ窒息して死ぬらしい。お父さんは取りたくないらしい」という内容だった。


父は数年前に咽頭癌と診断され、一度手術をしていたが、また同じ箇所で再発が認められ、今回は再発箇所の全摘出でないと、腫瘍によって気道が塞がり窒息死するという。


初めて迎える身近な死に恐怖と悲しみを感じるかと思ったが、それよりもまた福岡が私を引き戻しに掛かっていると窓の外に降り積もるパウダースノーが体中を締め付けるような束縛感が再来した。

長男であるし、手術をすることを説得しに行かなければならない。母の精神的負担も軽減させなければならない。さらに、声を失った父のサポートもしなければならない。考えは全て帰福一択となっていった。

一人暮らしの選択肢も父母のサポートを近くでしなければという思いから叶わなかった。


「···ニ代目忠之公は、黒田家菩提樹である崇福寺ではなく東長寺に墓を作らせたんですね。先祖と異なる墓に入ることをなぜ決意したんでしょうか」

郷土研究会では、黒田家を今月はテーマに論議をするらしい。

白髪の会長は、パイプ椅子に深く座り直し、皆々を見回して意見を求めた。

私の隣に座る米寿を迎えた婦人は、しわしわの手で手招きして、耳を貸してと言ってきた。私はこの婦人に孫のように厚遇されている。

「お父ちゃんが長政さんやし、世間にもたいそう名の知れ渡った人やけん、お父ちゃんのこと嫌いやったかもね」

そういうと婦人はしわくちゃに顔を歪まして笑った。


父嫌いかあ、、、。


今の僕と同じだと気づくにはそう時間はかかからなかった。

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