バルジ廟のトドラ
空を飛んでいる時だけ、谷渡りは囁きから逃れる事ができた。
谷渡りに対して海や山の人々のするそれではない。比喩ではなく常にその耳に注がれる囁きがあるのだ。〈重い翼〉、その声。
風の音にかき消されるほどの小さな声は、けれど見えない羽虫のようにいつまでも彼らにつきまとい、こころを乱す。
「トドラ、荷を谷に運ぶ前に一度バルジ廟へ戻る」
「ああ」
「お前の『ウガリ・ナジ』の手入れも終わる頃だろう。そのままシタアバルまで飛べ」
子島を後にしてすぐ、静かな重い翼の中でそう声をかけられた時も、トドラはその囁きに気を取られていた。
囁き。本当にそう呼ぶのが正しいだろうか。
しかし耳の奥に直接文字を刻まれるようなこの感触を、ほかにどう言い表せばよいのかトドラは知らなかった。
「聞いているのかトドラ」
「聞いてる、アザマグ」
「お前の
「何かしてれば気になる程じゃない」
アザマグと呼ばれた谷渡りはその厳めしい顔にわずかばかり何か言いたげな表情を浮かべたが、結局ため息でそのすべてを吐き出してしまう事にしたようだ。
いつもの事であったので少年は分かっていますよとばかりに両手を上げ、望まれているであろう言葉を返す。慣れきったやり取りだ。
「やかましいなら早く飛ばしてやれ、だろ。分かってる」
「なら構わん。トドラ、お前はもう私の弟子ではないんだ。こちらの手伝いなどせんでもいい」
「あいつを預けている間だけだ。どうせ飛ばせないなら誰かの手伝いでもしてたい。アザマグもいちいち気にしないでいいよ、俺は好きでやってる」
「……そうか」
窓の外を見つめたままアザマグはわずかに目を細める。黒く焼けた横顔、緩く束ねた白い髪、淡い金の瞳。男を彩るそのすべてに隠しようもない老いをみとめて、唐突に少年のこころにわき上がったのは寂しさだった。
十年。トドラがこの谷渡りに初めて会ってから十年たつ。
親兄弟などあっても知らぬ谷渡りにとって、飛び方を教わる師父はそのまま親代わりと言ってもいい。それでも山と海とを飛び回って暮らす谷渡りである以上、独り立ちすればもう年に何度も顔を合わせる事すらなくなる。
お互い生きている間に、あとどれだけこうやって語らう事が叶うだろう。どうしようもない嘆きだと、少年はその思いを胸の奥底に沈めた。
トドラはもうひとりで重い翼を飛ばせる一人前の谷渡りだ。そして同時に、彼はまだ十五歳のこどもだった。
囁きなどに耳を貸すからいけない。
トドラは静かに奥歯を噛み締め、窓の外に広がる果てのない海を睨め付けた。
無視しようと思えばできるくらいの声でしかない、それを無抵抗に受け入れるからこんなふうに乱されるのだと己に言い聞かせ、少年はいつものようにこころの内で唱える。
凪を持て。己が内に。
それはいちばん初めにアザマグから教えられた、谷渡りの心構えだ。
バルジ廟へトドラを降ろすと、アザマグの重い翼は留まる事なくコロナの谷へと飛び去った。数ある重い翼の中でも特に大きなそれは、けれどすぐに山の影に隠れて見えなくなった。
「おや坊や、戻ったんだね」
見送る背にかけられた声に少年は振り返る。近付いて来たのは見知った老婆だ。谷渡りのつとめを果たし終えた彼女はこのバルジ廟に住んでいる。
日に焼けた黒い肌、少しばかり黄ばんだ白い髪、そして影にあっても輝く金の瞳。アザマグと同じだ。いずれ自分もこの色合いを纏うのだと、何故なのかトドラはふいにそんな事を思った。
目にかかる髪はまだ黒い。肌はもうずいぶん焼けた。瞳はずっと、初めから金の色。
「お前さんの重い翼は……うむ、なんだったかね」
「ウガリ・ナジ」
「ああ、そうだ、ウガリ・ナジだ。施しは済んだよ。また元のように飛ばせる筈さ」
「分かった」
「場所は分かるね?」
頷いて彼は別れの言葉も告げずに、自分の重い翼を納めた安置所へと歩み出した。
あまりに素っ気なくともすると不躾な彼の退場を、老婆は咎める事もしない。昔からずっと少年はこうだったし、それでなくとも三日あけて己の重い翼に向かう谷渡りなら皆こうでもおかしくないからだ。
重い翼は囁く。かすかに、だが常に。
飛ぶ間だけは黙するそれを、そう何日も放っておける谷渡りはいないだろう。かすかな囁きは、けれど次第に耐え難い反響をもって彼らを苛む。谷渡り自身のこころを塗りつぶしてしまうほど、ささやかな囁きは絶え間なく続く。
トドラの重い翼の囁きは、比較的静かなものではあった。それでも何かで気を紛らわせなければならない程の重みも確かにもっていた。
そうなるものだと分かっていながらわずかな間とはいえバルジ廟へ預けたのは、重い翼が前よりも長く飛べなくなってきたからだ。トドラが谷渡りになって始めての事だった。
バルジ廟は黒い岩山を丸ごと螺旋に削り出して、荘厳な回廊と安置所を成したような霊廟だ。元は何もなかった荒れ野へ、いつぞやのヨルの国の王がたったひとり一晩で造り上げたものなのだと言う。
ヨルの国の王は総じて魔法使いだ。故にそれを魔王と揶揄する者もいる。当世の王も例に漏れず強大な魔法使いなのだとトドラも聞いた事があった。
だがいくら凄まじい力を持った魔法使いの王だろうと、本当にこの場所へ霊廟を造れたのだろうかと少年は疑わしく思ってもいた。ヨルの国の王がそうであるように、民もまた皆がみな魔法使いだ。そして古くからの血が濃い者たちは、決して国の外へは出てこない。山や谷の民との混血ならば問題なく国境を往き来しているようだが、それでも魔法使いは日のひかりを厭うため谷より下へは降りて行かないのだ。
民ですらそれなのに果たして王がこの土地へ赴く事ができたのだろうか。それともヨルの国から出る事すらなく、その王はこの廟を造り上げたのか。
決して自らの手で谷渡りも重い翼も救おうとはしない、王そのひとが。
思案しながら暗い石造りの回廊を行くうちに、篝火の灯された安置所がひとつ、その口を開けて待ち構えている事にトドラは気付いた。風が吹く。大きく火が揺れ、黒い岩壁に刻まれた古竜の浮き彫りを舐めた。
ようやく少年は囁き続ける重い翼――ウガリ・ナジと再会を果たした。
“かえりたい”
“かえりたい”
“かえらせて……”
もの言わぬ真白の骨が囁いている。
「……ああ。俺も帰りたい」
ウガリ・ナジの囁きに、トドラはぽつりと言葉を返した。どこになど彼自身にも分からない。当て所ない渇望だ。そしてそれは誰にも届かない返答でもある。重い翼の囁きはそもそもが残響であって、どうやっても会話にはならない。
“かえりたい”
“かえりたい”
“かえらせて”
“かえりたい……”
重い翼はいつまでも囁きを繰り返す。
飛ぶ事は弔いだ。谷渡りは重い翼を空に駆り、その悲壮な願いの手向けとする。
遥か昔。悪しき古竜との戦いの折り、魔法使いによって呪われ命を落とした罪なき竜がこの霊廟に納められた。長い弔いでいくつかの亡骸は海に帰ったが、まだそれでもすべてではない。
だから今でもヨルの国に産まれながら魔法を得る事のない、金の瞳を持つ者たちだけがその弔いを担っている。
トドラは金の瞳を持って産まれた。帰る場所など初めから持たなかった。
シタアバルのこどもたち 杏野丞 @anno_j
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