終 「グリーンカレー……じゃない!? 謎の創作エスニックカレー!(5)」

 僕がカレーを待っている間に、かなで達は食事を終わらせ、満足そうに帰って行った。


 腕時計で時刻を確認すると、現在は19時に差し掛かろうとする頃だった。高校生が寄り道して帰宅する時間だと考えると妥当な所だろう。


 僕は僕で、既に1時間近くこの店にいる事になる。流石に長居しすぎたかもしれない。


 そうこうしている内に、目的のグリーンカレーが運ばれてきた。


「どうゾ! グリーンカレーデス!」


 にこにこと愛想よく、カレーを置いてくれるプリチャさん。


「ありがとうございます」


「ごゆっくりドウゾ!」


 そうして彼女は踵を返し、忙しそうにぱたぱたとカウンターの方へ帰って行った。



 ようやく、このカレーが食べられる……!



 先程まで、かなで達が食べていたカレーが目の前にある。


 あれだけ美味そうに食っていたんだ。不味い訳がない。


 僕はゆっくりとスプーンを動かし、ライスとカレーを口に含む。



 ――これは!



 まろやかな豆乳にぴりっと効いた青唐辛子。カレースープに浮かべられた夏野菜達――即ち、カボチャ、茄子、パプリカ、ベビーコーン――は、そのどれもがしっかりと太陽の光を飲み込んで芳醇。それぞれの野菜においても、このカレースープに合うように、丁寧に調理されている。


 特にカボチャの完成度は職人のそれだとさえ思える。おそらく軽く表面を焼いた後、低温でじっくりと蒸したに違いない。一口食べただけで分かる、強烈な甘みと溶け出す触感。カレーの上には流出せず、口に含んで初めてその脅威を目の当たりにするのだ。そしてこの甘みは、優しくもパンチのあるカレーによって美味さを爆発させる。


 肉類を使わず、あえて厚く切ったエリンギを載せているのも最高だ。これだけ美味しい野菜を合わせられてしまうと、もう口の中は肉の気分ではない。とは言え、野菜ばかりというのも寂しい物だ。


 そこにアクセントとして捻じ込まれるこのエリンギ。これは最早、肉を食っているのと同じか、下手するとそれ以上の感覚だ。肉とも似た感覚を得るが、決して下品に野菜達の味を損なうことは無い。濃厚で旨味たっぷりの王者として、間違いなくカレーこの国に君臨しているのだが、しかして野菜の良さを損なう事もない。寧ろ野菜達の力を、より魅力的で強力な物に作り変えてさえいる。このエリンギは、そんな理想的な王だ。


 茄子も良い。なんだこの茄子は。どうすれば茄子からこんなに甘みと旨味が出る。この香りと癖が強めのカレーと戦うためにこそ生まれてきたような茄子だ。しかしどうだろう。初めは自己を主張するためにこそ強くなった茄子だが、今では完全にこのカレーと調和し、極限の旨味に到達している。感動して、意識が飛ぶかとさえ思った。



 ――本当に、一瞬危なかった。



 恐ろしいカレーだ。こんなに美味い物は食べた事がない。フォーの後だと言うのに、気付けば皿の上のグリーンカレーは、初めの3分の1程にまで減っていた。


 一瞬の出来事だった。この速度でガツガツと飯を食べたのはいつ振りだろうか。それこそ大学時代、馬鹿みたいに仲間たちと飲み食いしていた時だろうから……いや、何年前かを思い出すのさえもう億劫だ。過去を振り返っても仕方ない。


 今はこのカレーだ。このカレーの残りを存分に堪能して、今日は帰ろう。


 僕は再びスプーンをカボチャに触れさせ、一口大に切り分ける。



 ――その時、身体が硬直した。



 かちゃり、とスプーンが手元から落ちる。徐々に息苦しくなり、何かに助けを乞わずにはいられない。


「ぐっ……!」


 震える手でカウンターの方に手を伸ばそうとするが、上手く動かず、僕はそのまま椅子から転落した。


 腰を強かに打ち付ける。しかしそれと同時に、腹部の上の方に締め上げるような激痛が一瞬にして生まれた。


「うぉおっ……!」


「おいっ! 大丈夫ですか!」


 異変に気付いた若夫婦の夫が、僕の下まで走り寄って来た。腹を押さえて地面にうずくまる僕を、周囲の人々も何事かと困惑した様子で見ている。


「プリチャ、救急車!」


「ハ、ハイ!」


 店主とプリチャさんの声が聞こえて来る。しかしそんな中、僕の脳内には走馬灯が駆け巡っていた。



 ***


 先週の診察。やはり僕の身体はボロボロだった。内臓はあちこち弱っているし、何より胃のダメージは深刻だったようだ。


 胃の内部には小さな潰瘍がいくつか見受けられたらしい。それがどれぐらい危険なのかは分からないが、とりあえず異常だと言う事は何となく僕にも分かった。


「いやあ……はっきり言って、僕は休職をお勧めしますよ、川西さん。貴方がその調子じゃ、薬を飲んだ所で治る物も治りません」


「はぁ。とは言っても仕事辞めちゃったらやる事もないですし……何より生活の当てがありません」


 茶色い長髪を後ろに括った担当医は、俯き加減で小さくため息を吐く。


「そういうのは後から考えれば良いんですが……まあ、分かりました。僕が選択を強制する事は出来ないので。ただし、もし何かあった場合は意地でも入院して頂きますので」


「まあ、その時は……僕も仕方ないと思う事にします」


「それじゃあ、とりあえず今回も薬を出しておきますから、生活習慣には特に気を付けてください。まずは、しっかり睡眠を取りましょう。話はそれからです」


 担当医の黒縁眼鏡がずずいっと僕の目の前まで詰め寄って来たので、僕は少しだけ身体を引く。


「あと、何度も言いますが、暴飲暴食、酒、タバコは絶対NGですからね。出来ればカフェインや刺激物も摂取しないように」


「はは、分かってますよ」


 深刻そうな表情で当然の事を言う医師に、僕は少しだけ笑いが出てしまう。


 胃が悪い人間が、そんな食生活をしていい訳が――。



 ***



 それだ!



 完全に心当たりがあった。そうだった。だからフォーを頼んだのに……僕は馬鹿か。暴食と刺激物のダブルパンチで、僕の胃は限界を迎えたらしい。


「おい! 意識はあるか! おーい!」


 先ほどの若夫婦の夫が、延々と僕の顔をぺちぺちと叩きながら声を掛けている。


 しかし、何となく会った事があるような彼の顔を見て、僕は少しだけ懐かしい気持ちになっていた。


 誰だったかは、よく覚えていない。大学の講義で何回か一緒になった人に似ているとか、どうせその程度だろう。


「僕は……もう、ダメそうだ……」


「おい! 弱気になるな! しっかりしろ!」


 息も絶え絶えに、僕は何かを言い残したい気持ちだけが残る。


 意識が朦朧もうろうとしてきているが、おそらくここで気を失えば物語自体も終了するのだろう。その事に関しては、確信めいた予感がある。


 とは言え、最早この状況では目の前の青年に何かを伝えるぐらいしか、僕に出来る事はなさそうだ。


 どうしよう。何だかぼんやりと知っている人に似ているみたいだし……そうだな。


「け……」


「どうした! 辛いなら喋らなくてもいいんだぞ!」


 彼が心配そうな表情を浮かべている。おそらく似ているであろう当人さえこんな距離で見たことは無いが、やはり知っている顔だと思えた。


 遠くから、救急車の音が聞こえ始める。


「けっこん……」


「結婚? 結婚相手がいるのか? その人に何か伝えたいのか?」


 彼が焦ったように言葉を紡ぐ。でも別に、そんな人はいない。



「結婚……できた……んだね。おめ、でとう……」



 何となく、彼を祝福したい気持ちになっただけだった。



 青年は、驚いたような表情で僕の顔を見つめている。


「あなたは……?」


 それはそうだろう。知らない年上の男に突然そんな事を言われれば、知り合いかと思うはずだ。


 だが僕は知り合いではない。僕は、弱り切った時でも他人の幸せを祝福したい、ただの生来の傍観者なのだ。


「カイト! 救急車着いたよ!」


「あ、ああ! 分かった! ……おい、あともう少しだから頑張れ!」


 妻の方にカイトと呼ばれた青年が、僕を激励する。だが、僕の意識はもう途絶えかけていた。



 ――まあ死にはしないだろうが、とりあえず僕はここまでだ。



 かなで達の物語は、一旦これで終わりだ。であれば、僕の役目もここまでだろう。


 ぼんやりと――淀む意識。


 そんな中、耳元でありがとうと呟いた彼の声は、充足感を伴って僕の中に染み渡って行った。

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名脇役(バイプレイヤー)と呼ばれたい!~物語世界に端役(モブ)として転生した僕は主人公たちを眺める以外やる事がなかった~ 岸部 旭 @a_kishibe

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