最終回 鮎飯
「石女のお前に何の価値も無い」
そう言って顔を歪める義母。そして、詰られる自分を見て見ぬ振りをする夫。醜悪な二人の顔にハッとして、碧は身体を起こした。
「夢か」
目が覚めた碧は、夢だとわかって胸を撫で下ろした。
もう二度と、関わりたくはない二人。何故、夢にまで現れたのか。
(忘れたと思ったはずなのに……)
身体には、じっくりと汗が滲んでいる。梅雨が過ぎ去り、野州夜須藩は初夏を迎えようとしていた。あんな夢を見たのは、昨夜が寝苦しかったからもしれない。
あの辛い日々は、もう過去の話だ。繰り返す事は、二度とない。そう思い込みたかった。前の夫とは、完全に縁を切っている。何度か店に現れたが、今は全く姿を見せていない。勿論、義母とも関わる事はない。そう思っても、不意に記憶が蘇ってしまう。
碧は身支度を済ませると、昨夜鬼八から持ち帰った味噌汁を火にかけ、冷や飯を入れて煮込むと、最後は溶き卵に葱を加えて、手早く雑炊を拵えた。
六蔵が鬼八に来てからというものの、我ながら料理の腕が上ったように感じる。時々、その手ほどきを受ける事もあるが、見ているだけでも学ぶべき事が多々あるのだ。特に、六蔵は段取りの良さは白眉だった。板場を散らかさず、何事も計算して動いている。無駄な動きが無い六蔵の姿には、思わず惚れ惚れと見入ってしまうほどだった。
独り、雑炊をかき込む。婚家を出されて出戻りになった時、碧は一人の方が気が楽だと言って、熊吉が住む実家には戻らずに三本松町の裏店に家を借りた。誰にも気を使わない生活は、快適だった。炊事や掃除を怠けても、何の文句も言われない。店が休みの日は、好きなだけ寝て、好きな時に起きる事が出来る。これほど、一人が快適とは思わなかった。
しかし、今は違う。ふとした瞬間に、漠然とした寂寥感が押し寄せてくるのだ。
目を覚ました時。夜遅く帰宅した時。床に入った時。あれほど良かったと思った独りの生活が、どうしようもなく寂しく感じられるのだ。
(あの人さえいれば)
そう思う。あの人がこの家にいたら、どんなに幸せな事だろうか。しかし、それは叶わぬ事だろう。あの人には、夢がある。その夢を自分の為に、諦めさせてはいけない。それに、あの人が自分を好いてくれているとも思えないのだ。
碧は雑炊を平らげると、白湯を飲み干して立ち上がった。
「さて、行くかね」
自由を与えてくれたこの長屋を、碧は嫌いになっていた。そして、あの人がいる鬼八は一層好きになっていた。
鬼八の暖簾を潜ると、熊吉と六蔵が難しい顔で向かい合っていた。
小売り酒屋鬼八は、同じ建物の中で昼は小売り酒屋、夕方からは居酒屋を営んでいる。しかし、この日は酒屋を閉めて、暗い店内で二人して何やら話し込んでいた。
「なんだい、なんだい。店も開けないで。鬼八は今でこそ居酒屋で名を上げたけども、酒屋も立派な稼ぎになっているんですからね」
不穏な空気を振り払うように碧が一声を上げたが、熊吉は腕を組んだまま、口を真一文字にしたままだった。六蔵はただ目を伏せている。
「ったく。お父ちゃんどうしたんだい? そんなしかめっ面してさ。六蔵さんも」
「どうもこうもねぇや」
碧が訊くと、熊吉が鼻を鳴らした。
「なになに、大の男が喧嘩?」
「んなわけあるかい。直衛様の事だ」
「直衛様って、若宮様が連れて来た?」
「そうでぇ。お前らが俺のいぬ間に安請け合いした、直衛様に料理を作るってあれだよ」
「それが何よ」
邪険に吐き捨てた熊吉に、碧は口を尖らせた。
「かぁ、何て脳天気な野郎なんだ、お前は」
「何よ、その言い方。直衛様が何だって言うのよ」
「六蔵、この馬鹿娘に言ってやってくれ」
すると、六蔵は出されていた茶を一度口に含むと、碧の顔を見据えた。
「碧さん、落ち着いて聞いておくんなさい」
「……」
「直衛様というのは仮のお名前で、その実はお殿様なんでさ」
「え?」
「夜須藩主、栄生利景様でございやす」
眩暈すら覚える衝撃に、碧は思わず六蔵の並びの椅子に座り込んでいた。
「つまり、直衛様があたし達のお殿様って事?」
「ああ、そうさ」
と、熊吉が割って入った。
「ちょいと前に、若宮様が来られて、知らせてくれたよ。片手拝みで、『騙してすまん』とさ」
若宮様こと栄生帯刀の話によれば、二十日後に帯刀の屋敷に利景が来るので、そこで料理を出してくれとの事だった。そして、饗応役の役人を一人差し向けるので、十分に話し合って欲しいとも。
「お殿様が、鬼八に……」
夜須藩主・栄生利景と言えば、先代藩主の三男でありながら家督を継ぎ、藩主になるや否や、長く藩政を壟断していた犬山梅岳を追い落とし、人材を一新。財政・農政に改革の手を入れ、今や夜須藩中興の祖と呼ばれる名君である。
市井に生きる者にとっては雲の上の存在であるが、碧を含め皆が利景を尊敬していた。それは、彼が単なる改革者だけではなく、民草に目を向けた殿様であるからだ。波瀬川の堤防工事支援金の件では、一時的に領民から反感を抱かれたものの、百姓の暮らしを守る為だと高札を通じて説いた事で、かなり和らいでいる。
(でも、だからと言って……)
料理を出すのは恐れ多い。しかもその場所が、利景の叔父である帯刀の屋敷というから、尚更である。
「碧よ。お殿様に、鬼八の料理が出せるわけがねぇだろう?」
「そりゃ……」
「しかも、何か粗相でもありゃ、これもんよ」
と、熊吉は手で首を斬る仕草をした。
「お殿様に限って、そんな事はしないと思うけど」
「知るもんか。所詮、どんなに善いお殿様でも、俺達とは違ぇんだ。なのによ」
熊吉がそこまで言うと、六蔵に目を向けた。
「どうしたの六蔵さん」
「こいつが、料理を出してぇって言うんだ。料理の事ばかり考えて、頭が変になっちまったんじゃねぇのか?」
「それは言い過ぎよ、お父ちゃん。ねぇ、六蔵さん。料理を出したいって本当なの?」
すると、六蔵が力強く頷いた。
「どうして?」
「こんな機会、多分一生ねぇですから。しかも、お殿様があっしの料理を実際に食べて、選んでくださった。板前としちゃ、これほど名誉な事はございやせん」
「でも、下手をすりゃ打ち首になるかもしれないのよ?」
「そうかもしれねぇですが、そうならねぇかもしれねぇです」
六蔵が俯いた。碧も熊吉も、次の言葉を待った。
「……それにあっしは、相手がお殿様だろうが小汚い貧乏人だろうが、命を賭して料理を作っておりやす。それには変わりやせんし」
「だからって」
「あっしの料理を求めた人に、食わせてやりてぇんです。もし、これが貧乏人でも、あっしの料理が食いてぇと言うんなら、喜んであっしは」
六蔵らしい、愚直な考えだった。求める人に食べさせてやりたい。これが盗賊から料理人になった六蔵が、辿り着いた答えなのであろう。
「ですが、あっしは鬼八に雇われている身。それ以上に恩義もございやす。店に迷惑も掛けられねぇし、旦那や碧さんが反対するのなら、あっしは……」
「馬鹿野郎」
六蔵の言葉を、熊吉が遮った。
「『求める人に食わせてやりてぇ』って立派な考えを、迷惑が掛かるからって覆すんじゃねぇ」
熊吉の一喝に、碧はすかさず
「何よ、自分は反対してたのに」
と突っ込んだが、熊吉は聞く耳を持たなかった。
「六蔵の覚悟を聞いた日にゃ、反対するわけにゃいかねぇだろうが」
「じゃ、旦那」
「店がどうなろうと気にすんな。お前ぇらしい料理を作りゃ、必ず喜んでくれるさ。お前ぇの料理はそれだけのもんがある」
六蔵が深々と頭を下げた。熊吉がその肩に手を置いたのを見て、やれるだけの事は全てしようと碧は思った。
次の日。仕込みに追われる鬼八に、饗応役の武士が現れた。
「あっ」
と、碧が声を挙げたのは、その男が平山清記だったからだ。
夜須藩内住郡代官。首席家老の添田甲斐や帯刀と一緒に店に来ては、黙々と酒を飲み料理を食べる。口数は少ないが、決して乱れる事が無い控え目な男だった。
「殿が、顔見知りの方がいいだろうと申しましてね」
清記は、そう言うと軽く微笑んだ。
仕込みが忙しかったが、碧は六蔵と熊吉と一緒に話をする事にした。何やら、色々と伝えなければならない事があるという。
「此度は、込み入った事情がある席での料理である。故に、おぬしに頼んだという事もあるが」
「平山様、その込み入った事情というのは?」
熊吉が訊いた。
「殿が、前の首席家老であられた犬山梅岳様を追われたのは存じておろう」
「へぇ」
「して、その梅岳様の嫡男で
「……」
その辺りの事情はよく知らないが、兵部の生母の身分が賤しい為に栄生家には入れず、故に犬山家へ養子に出したという話は聞いていた。武家は武家で、複雑な事情があるのだと、聞いた時は思ったものだ。
「殿から見れば、異母兄の兵部様は政敵の子。兵部様から見れば、殿は義父の仇になられる」
「そりゃ、難儀な話で」
「しかし、お二人共に過去にこだわるようなお人ではない。御家の為に、兄弟手を取り合おうと決められた。そこで、殿は義父と共に蟄居している兵部様を許し、和解の為に一席を設けた」
「つまり、それが今回の」
清記がゆっくりと頷いた。
「殿と兵部様との関係だけでなく、夜須藩の今後を占う場となる。何故なら、これが最近城下を騒がしている、殿と忠義党との争いに終止符を打つからだ」
平山の低い声に、一同は息を呑んだ。
夜須藩では、藩主の利景が藩政改革を推し進め、それに反対する一派が忠義党と名乗り、頑強に反対するという政争の真っ只中にある。死にはしなかったものの、城下では暗闘から血も流れていた。
「おぬしらには関係ないだ話だろうが、窮地にある忠義党は、犬山家を頼る事で政局の挽回を計ろうとしている。しかし、お殿様と兵部様が手を握れば、忠義党は寄る辺を失い瓦解するであろう」
「おいおい、こりゃ六蔵。とんでもねぇぞ」
そう言った熊吉の声が震えていた。それもそのはず。藩の将来がかかった重要な場なのだ。そんな場で出す料理とは思いもしなかった。
「左様で」
六蔵が小さく言った。
「重要な席でございやすね」
流石に驚きの色が表情に感じられたが、声色はしっかりとしていた。
「大切な席だ。帯刀様はその事情を隠されていたようで、驚くのも当然だと思う。もし、辞退したいというのなら、私から殿に申し出るが。どうであろうか、熊吉殿」
「そりゃ、なぁ六蔵」
すると、六蔵が熊吉と碧の顔を交互に窺った。碧が頷いたのは、熊吉とほぼ同時だった。
確かに、身の丈に合わぬ役目である。失敗でもすれば、首だけでは済まないかもしれない。しかし、六蔵がここまでやりたいと言うのなら、何が何でも応援してあげたい。背中を押してあげたいのだ。
「お受けいたしやす」
六蔵は、やや間を置いて答えた。
「六蔵、いいのかな?」
「へい、平山様。どんな席だろうと、あっしはこのちんけな命を賭しているつもりでございやす。確かにこれ以上に大切な席はございやせんが、あっしはあっしの料理を出すだけで」
「そうか、よかった」
平山が、いつもの朴訥とした表情を緩ませた。
「殿が大変気にされておられたし、同時に楽しみにもされていた。いや、よかった」
それから、具体的な話が執り行われた。
まず料理は、いつも通りのもので構わない。気構えて高級なものにしなくてもいい事。そして、料理は鬼八の者だけで拵える事、毒見は清記が請け負う事が伝えられた。
「私も、鬼八の料理と酒が好きなのだ。楽しみにしている」
最後に清記がそう告げて店を出ると、熊吉がまるで金縛りが解けたかのように立ち上がった。
「こりゃ、店どころじゃねぇぞ」
「お父ちゃん、うるさいわね」
「店どころじゃねぇって言ってんだ。あと十九日しかねぇんだぜ。料理やら材料やら考えねぇと。ああ、こりゃ忙しくなるぜ」
そう喚く熊吉を見て、六蔵が珍しく噴き出した。
「おい、何がおかしいんで」
「いやぁ、旦那が思いの他に乗り気だと思いやして」
「何でぇ。元はお前ぇの我儘が切っ掛けだろうが。やるぜ、店も暫く閉めやがれ」
「もう、お父ちゃん。店を閉めたら、常連さんが困るわよ」
「うるせぇ、碧。こちとら、お殿様のお相手をしなきゃいけねぇんだ。しかも、袂を分かった兄上様との仲を取り持つ席なんだぜ」
そうやる気を出した熊吉を見て、碧と六蔵は苦笑するしかなかった。だが、碧は店を開くつもりだ。勿論、六蔵も同じ考えだろう。幾らお殿様の為とは言え、毎日来てくれるお客を無下には出来ない。お客があっての、鬼八なのだから。
饗応の当日。この日は、どうにも晴れきれない曇り模様になった。
栄生帯刀の屋敷は、城下の郊外にある。地名で言えば、
下屋敷の台所で、六蔵は忙しそうに立ち回っていた。当初は手伝おうかと言っていた碧も熊吉も、六蔵の気迫に圧されて眺めるしか出来なかった。
一千坪の広大な屋敷に入った時はどうなるかと思ったが、六蔵は何も変わらない。いつも通りに包丁を奮っている。
「これは旨そうだ」
出汁のよい香りが漂ってくると、清記が傍に来て言った。
「ええ。いつもの匂いです」
「そうか。いつもの匂いか。それこそが、殿の望むものだ」
六蔵がこの日の為に考えた献立は、本当に特別なものではなかった。
大葉と椎茸の天麩羅。薇と油揚げの煮物。焼き空豆に、蜆汁である。そして、最後には鮎飯。鮎はこの日の為に、六蔵が自ら釣ってきたものらしい。
六蔵が、その鮎に取り掛かった。
まず鮎に串を打つ。串を口から入れ、鰓から一度串先を出し、それから縫うようにして、尻尾の後ろから先が抜けるように刺す。踊り串という方法であると、六蔵が言っていた。
「碧さん、塩をしてくれやすか」
台所に入って初めて、六蔵が碧に声を掛けた。
「塩?」
「へぇ。前に教えた通りで」
「ええ」
碧は六蔵の横に並ぶと、串を一つ手に取った。
(これが重要だわ)
碧は、塩を一尺ほどの高さから振りかけた。塩は、一度焼いたものだ。身に振りかける塩は、焼いて水分を飛ばした方が具合はいいらしい。量は、塩辛く感じない程度。この量を誤ると、鮎の風味や香りが失われてしまうという。満遍なく振り終えると、鰭と尻尾に化粧塩を施した。これで焦げを防ぐのだ。
その間に、六蔵は土鍋に、米と出汁・塩・酒・醤油を加えたものを用意していた。
「ありがとうございやす。あとはあっしが」
六蔵が、鮎を焼き出した。強火だが遠火。さっと焼ける頃には、土鍋が煮立ってくる。そこに焼けた鮎の串を抜いて並べ入れ、再び蓋をして火にかけた。
「炊き上がったら、蒸らして終わりでさ」
料理は、全て準備が出来た。炊き上がった鮎飯は、利景と兵部の前で身をほぐされる事になっている。その役は六蔵ではなく、平山だった。当然、ほぐし方は既に教えている。
盛り付けを追えた六蔵は、前掛けを外すと上を向いて大きく息を吐いた。その横顔は、やり切った充実感に満ちているようだった。
「皆の者、殿がお呼びだ」
と、再び清記が台所に現れたのは、料理を終えて四半刻後だった。
「料理は如何でございましたでしょうか」
熊吉が恐る恐る訊いたが、清記は何も答えなかった。
台所の勝手口から出て、庭に通された。昼下がりの初夏の日差しは、蒸し暑さを増していた。やはり晴れきれない、分厚い雲のせいだろう。
「これへ」
地面に敷かれた茣蓙の上に三人は並んで座ると、深々と平伏した。これではまるで、お白州の罪人のようだ。
「面を上げよ」
声が、頭上から降り注ぐようだった。碧は伏したまま横目で六蔵を見ると、小さく頷き返された。
碧は顔を上げると、四人の武士が並んで座していた。
正面には、栄生利景。直衛と名乗っていた美青年が、こちらを見て微笑んでいた。
その隣りには、見た事が無い顔の男。二十代半ばだろうか。彫りの深い顔立ちである。他には、普段とは打って変わって羽織袴の正装をした栄生帯刀。そして、総白髪の添田甲斐。
「まずは、先日の事を詫びねばならないな」
「い、いえ。そのような事は」
清記に直答を促され、熊吉が答えた。
「直衛というのは、私の幼名でな。直衛丸という名であったのだ。安直な名前だと思ったが、他に思い付かなんだ」
利景が笑い、それに残りの三人が続いた。
「此度の料理、大変美味であった。特に最後の鮎飯は絶品だった」
見た事が無い男が言った。恐らく、この男が犬山兵部であろうか。
「鮎は喧嘩魚とも呼ばれている。それを殿と私が和解をするこの場に出すとは、と最初は眉を潜めたが、食べてみると中々どうして」
兵部が苦笑し、茶碗に手を伸ばして鼻に近付けた。
「この香りがとてもいい。土鍋の蓋を開けた時、美味しそうな香りに眩暈がしたぞ。しかも、鮎の身をほぐすと香りがより一層強くなり、これが出汁で炊いた飯によく合っていた」
鮎は香魚と呼ばれている。その香りの良さが上手く活かされたのだろう。
「贅沢なものを使わずとも、美味しいものが作れるのだな。しかし、斯様な店が城下にあったとは。殿も中々の目利きですな」
と、兵部は横に並ぶ利景に目をやった。
「いえ、兄上。この店は叔父上が教えてくれたのですよ。その叔父上も平山に、平山は添田に教えられたに過ぎませぬ」
「という事は、儂が一番の目利きですな」
添田がそう言うと、再び一同が笑いに包まれた。
(よかった……)
その様子を眺めながら、碧は安堵感に包まれた。六蔵の料理が認められたのだ。この温和な雰囲気が何よりの証拠である。この場に居並ぶお偉方が皆、旨い料理を食べ満たされた表情をしている。少なくとも、首を斬られるような事は無い。
「しかし、料理とは不思議なものだな。添田が見付けた店が、平山・叔父上・私へと伝わり、兄上との長年のわだかまりを解消する一助となってくれた。料理が、縁を結んでくれたのだ」
「まさしく。殿、この者らに褒美を取らせましょう」
帯刀が言うと、利景が頷いた。それを見た清記がすかさず合図を出す。すると、前髪が残る小姓が、三方を三人の前に差し出した。
五両。料理のお代としては、余りにも多過ぎる。
「当家も中々厳しい懐事情でな。些少だが受け取ってくれ」
「しかし」
六蔵が拒もうとしたが、脇に控える清記が首を横にした。
「そして、もう一つ。これは俺から六蔵への褒美だ」
と、帯刀が立ち上がって、縁側まで進み出た。
「六蔵、江戸へ行け。旅費や諸費用の一切は俺が受け持つ」
「そんな。あっしには鬼八が」
「だけど、夢なんだろう?」
帯刀の口調が、鬼八に来ている時のような、べらんめえ調に変わっていた。
「江戸で料理を学ぶのが、てめぇの夢なんだろ? それを聞いた殿様がよ、骨折りをして受け入れてくれる料亭を用意してくれたんだぜ」
六蔵が珍しく狼狽し、顔を碧に向けた。
嫌。六蔵さんと、離れたくない。でも、碧の顔は横に動いていた。
碧は大きく息を吸った。今からの一声で、六蔵は江戸行きに従うだろう。それが何故だかわかる。悲しいが、言うしかない。だから……。
「行きやがれ、六蔵」
碧の声を遮るように、熊吉が一喝した。
「うだうだ言ってんじゃねぇ。江戸へ行きやがれ」
「もう、お父ちゃん」
あたしが言おうと思ったのに。と、そこまでは言わなかった。
「ついでに、お前もだ碧。二人で江戸でも大坂でも行っちまえ。ただし、
「えっ」
碧は言葉を失った。夫婦? そして、自分も江戸へ? 考えてもいなかった事だ。
「旦那、それは碧さんに失礼じゃありやせんか」
「何言ってんだ、六蔵。碧は早くに母親を亡くしたが、俺が男手一つで精一杯育てた子よ。そりゃ出戻りだが、こんな出来た女はいねぇ。その碧がお前を選んだんだ。ありがたいと思って、黙って連れて行けってんだ。ねぇ、ようございましょ、若宮様」
すると、帯刀が満足そうに頷いた。
「構わねぇ。碧がいれば、六蔵も安心だろうし、それにこいつは似合いの夫婦だ。ねぇ、殿」
奥で利景と兵部が、嬉々として眺めている。
「ですが、碧さん。あっしは」
六蔵と目が合った。不意に目頭が熱くなり、そして堪えきれずに流れ落ちた。
六蔵が俯く。そして、何かを決心したように顔を上げた。
「碧さん。あっしと江戸へ行ってくださいやせんか?」
その言葉を、ずっと待っていた。そして、この日を迎える為に、自分は生きてきたのだ。辛い事もあった。悲しい事もあった。でも、全ては過去だ。消し去る事は出来ない。でも忘れる事は出来る。そして、人は意思さえあれば、新しく生き直す事が出来るのだ。
「はい……」
碧は、溢れる涙もそのままに、力強く頷いていた。
この年の秋、夫婦になった碧と六蔵は、共に江戸へと旅立った。
それから暫く江戸で料理を学んだ二人が、夜須に戻ったのは安永三年の事だった。夫婦になった二人が切り盛りする鬼八は大変繁盛し、利景も度々お忍びで通っていたという。
そして、碧は忙しくも笑顔に満ちた日々を、六蔵と背負った小さな赤子と共に過ごしていた。
〔完〕
小売り酒屋鬼八 人情お品書き帖 筑前助広 @chikuzen
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