第五回 焼きおにぎり
「悪い話じゃないよ、碧ちゃん」
長兵衛がそう言うと、出された茶に手を伸ばした。
昨夜遅くから降り出した雨は、今朝になっても止む気配は見せず、昼を境に雨脚は強くなる一方だった。今も間断なく鬼八の薄い屋根を叩いている。いよいよ長雨の季節が訪れたようだ。
そんな日に、蔵前町の名主である長兵衛が店に現れ、碧へ縁談話を持ってきたのだった。
(わざわざ雨降りの中、急いで来なくてもいいんじゃないの)
と、有難迷惑に思いながらも、碧は店の掃除を小女のお雪に任せて、長兵衛の話を聞く事にしたのだ。
縁談の相手は三十三歳の面打師である。二年前に愛妻と死別し、遊び盛りの娘を抱えた男やもめであるが、近所の評判が良く後添いを貰うようご近所さんが動いた結果、碧の名前が挙がり、
「ああ、鬼八の碧さんなら安心だねぇ」
と、長兵衛に話が舞い込んだのだという。
「人物も悪くない。口下手だが、一本気でね。勿論、酒も博打もしやしない。おまけに腕っこきの面打師と来ている。男友達としてなら面白味は無いが、伴侶にするなら申し分のない男だよ」
長兵衛の推しを、碧はどこか他人事のように聞いていた。再婚に興味が無いわけではない。得られなかった幸せを、いつかはとは思う。しかし、その相手は長兵衛が薦める面打師ではないのだ。
碧は、知らず知らずのうちに視線を板場に向けていた。そこでは、六蔵が仕込みに追われている。ここ最近、鬼八の名は夜須藩城下に広まり、毎日が目の回るような忙しさだった。
「碧ちゃん、この話どうだろうね?」
そう問われ、碧は慌てて長兵衛に視線を戻した。
長兵衛は、父・熊吉の幼馴染でもあり、碧も付き合いが長い。なので、出戻りの経緯も知る碧を心配して、こうして縁談を持ち掛けてくるのだ。
「碧ちゃんは二十九。歳の釣り合いだって悪くない。新八というんだがね、その研ぎ師。小煩い姑もいないし、こんなに良い縁談は無いと思うんだがねぇ」
そうね。という意味を含んだ、言葉にならない嘆息を、碧は漏らした。六蔵は、今年で三十四だ。すると、自分と六蔵の釣り合いは悪くない。
「子どもは六歳の一人娘でお福と言うんだが、これが利発で可愛いのなんの」
「でも、長兵衛さん。私は」
すると、長兵衛は優しく微笑んで首を横にした。その辺りの事情も、十分に汲んでいてくれる。
「心配する事はない。新八は、もう子供はいらないと言っているからね。なんなら、私が伝えてもいい」
碧は明確な返事はせずに、ただ苦笑を返した。
石女と義母に蔑まれる日々があった。少しずつだが、確実に遠い記憶になっているのはわかるが、それでも思い出しては胸が痛くなる。
(信じられるもんか)
最初こそ気にしないと言っていても、いつ変わるかわかったものではない。前夫・西山喜重郎もそうだった。客として通っていた時、そして恋人となって肌を合わせるようになってからも優しかった。変わってしまったのは、嫁いでからだった。
その意味では、六蔵も変わるかもしれない。しかし、六蔵なら変わらないだろうという、信頼がある。要は信じられるかどうかなのだ。
「あ、男振りも悪くはないなぁ。それは心配しなくていい」
「わかっていますよ」
碧は、口を押えて小さく笑った。しかし、長兵衛の男振りは当てにならない。前回の縁談は、
「毘沙門天のように凛々しい男」
と、評していた男が、実はただ肥えているだけだったのだ。あの時の男は、今は嫁を迎えているらしい。
碧が袖にした男達は、それぞれで幸せになっているようだ。この面打師も長兵衛が薦めるぐらいだから、そのうちに善い
碧は、ふと窓の外に目を移した。低く重い灰色の雲が空を覆い、雨は一向に止みそうではない。
(あたしには、六蔵さんがいるんだから……)
碧は、自分の気持ちが六蔵に向いている事を、はっきりと自覚するようになっていた。好きなのだ。この人と、一緒にいたい。だがそう思っても、六蔵が自分をどう見ているのか、全くわからない。六蔵は何の素振りも見せないし、雇われ人以上の領分に踏み込もうとしない。
(もしかすると、六蔵さんには善い
そう考え、眠れない夜を過ごした事は、一度や二度ではなかった。六蔵が鬼八へ来て、二年目になる。その間、女の影を感じる事はないのだが、不安を拭い去れないでいる。
結局、碧は父親と相談して返事をする事にして、長兵衛の縁談話を終わらせた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「帰られましたか」
話が終わると、六蔵が板場から出てきた。雨はいつの間にか小降りになっているようだ。
「もう話が長いったらありゃしない」
「へぇ、長兵衛さんの長話は、此処らでは有名らしいですから」
「縁談の話よ。まったく、有難迷惑だわ」
そう言って六蔵の表情を窺ってみたが、何の変化も無い。相変わらず何を考えているかわからない顔で、長兵衛に出した茶を片付けている。
「六蔵さんはどう思うの?」
「どう? と、申されても」
六蔵のきょとんとした顔を見て、碧は自分がとんでもない質問をしたのだと気付いた。
「いや、もしもの話よ。六蔵さんがあたしの縁談をどう思うかじゃなくて。ほら、何と言うか」
「心のままにお決めになるべきじゃないでしょうか」
うろたえ、自分で何を言っているのかわからなくなった碧に、六蔵は穏やかな表情で答えた。
「長兵衛さんとの関係とか、熊吉の旦那の事とか考えず、碧さんは自分が幸せになる事だけを考えてお決めになれば……」
「そうよね。ありがとう」
碧は微笑んで言うと、六蔵に背を向けて裏口から外に出た。
まだ、雨は降っている。軒下にいても、頬に雨粒が飛んできた。
悲しかった。別に、好きだとか縁談を受けるなとか、六蔵に何か言ってもらえるかと、期待していたわけではない。それなのに、胸が締め付けられるほど悲しいのは、六蔵の表情に何の変化も無かったからだ。驚きも困りもしない。やはり、心のどこかに淡い期待があったのかもしれない。
(あたしったら、小娘じゃあるまいし……)
そう思っても、胸に迫る焦燥感は強くなるばかりだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「空いているかい?」
二日後、いつもと変わらない日の暮れ六つに、着流しに編笠をした二本差しに引き連れられた御一行が鬼八に現れた。
先代の夜須藩主の弟で、若宮様と呼ばれる栄生帯刀と、内住郡代官の平山清記である。二人は四十を越えた中年で、帯刀は陽気であるが平山は陰気な雰囲気を纏わせている。奇妙な組み合わせのように見えるが、この二人は添田甲斐と代わるように足繁く通うようになった常連である。
「あら」
この日は、珍しくもう一人連れがいた。透き通るような白い肌をした、若い武士だった。歳は二十歳に届かないぐらいだろうか。眉目秀麗とはこの若者の為にある言葉と言えるほどの美男子である。
碧は、三人を店内の奥に増設された、座敷の小上りに通した。若い武士の隣りが平山で、目の前に帯刀が座った。
「よう。今日はこの若いのに、六蔵の料理を食べさせたくてね」
帯刀はそう言うと、白い歯を見せた。
「まぁ、それはありがとうございます。帯刀様、平山様、そして……」
「
直衛と名乗った若い武士が、穏やかな口調で答えた。
「この直衛は名門の坊やでね。これから下々を統べて政事をしていくっていうのに、世間様というものをよく知らねぇ。だからこうして、まずは世間様の味を知れと連れて来たわけさ」
帯刀が、そう言うと直衛が照れくさそうに苦笑した。
「直衛様。うちの料理は、世間も世間。大層なものはお出ししていませんよ」
「構いません。いつも通りの料理でいいのですよ」
「あい。それじゃ、今日は焼きおにぎりと巻繊汁。それと、筍の煮物と菜の花の白和えです」
「あと、美味しいお酒も忘れないでくださいね」
「はいはい」
碧はお雪に上等な酒を出すように命じると、その足で板場に引っ込んだ。
そこでは、六蔵が冷ました握り飯を焼き場の網に乗せる所だった。
この握り飯は、塩をつけずに握ったもので、中には
「六蔵さん、若宮様達が来たわよ」
「そうでございやすか」
「相変わらず、気のない返事ね」
「こうもお偉方が来られるので、もう慣れちまいました。仮にお殿様が来たとしても、あっしは驚きやしやせん」
六蔵はそう話しながらも、手は忙しなく動かしているから本当に凄い。握り飯を網の上に置くと、今度は包丁で菜の花を切り出した。
「品書き通りでよろしいですか?」
「品書き以外のものを出すつもりないでしょ、六蔵さんは」
「へぇ。でも、碧さんが是非と言うなら」
「あのお武家様達は、別のものを出しても喜ばないわよ」
「あっしもそう思いやす」
それ以上、六蔵は口を開こうとしないので、碧は表に出る事にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
直衛が、夢中で焼きおにぎりを頬張っていた。
その姿を見て、帯刀と平山が顔を見合わせて目を丸くしている。
「握り飯を焼いているんですね。恥ずかしながら、こうした料理を始めて食べました」
一息で平げると、直衛が恥ずかし気に碧に告げた。
「焼きおにぎりというのですか」
「えっ、ええ。うちではそう呼んでいます」
「どうしたら、斯様にこんがりと焼けるのだろうか」
直衛が、焼きおにぎりを一つ手に取った。そして、こんがりときつね色に焼けた表面をまじまじと見ている。
(このお人は、本当に焼きおにぎりを知らないのね)
「じゃ、うちの板前に訊いてみますね」
碧が板場の六蔵を呼ぶと、六蔵が襷掛けを解きながら出て来た。そして土間席を囲む三人に、軽く頭を下げる。
「六蔵、この直衛が訊きたい事があるんだってよ」
帯刀が、隣りの直衛に目をやった。この三人の関係が、さっぱりわからない。帯刀と平山は同年代だが、直衛だけが若い。息子のようにも思えなくもないが、親子の雰囲気は無かった。
「六蔵さん、どうしてこうも絶妙に焼けているのでしょうか? 外側はカリッとしているのに、中はふっくら。特に外側の少し焦げたところが癖になる」
「別に特別な事はしておりやせん。握り飯を冷まして乾かしてから、じっくり焼くんです。その時、何度も返さない事がコツでございやす。両面とも焦げ目がついてからタレを塗り、そのタレが乾いたら焼き上がりで」
「なるほど」
直衛が、感心するように何度も頷く。
「私はタレも美味しいと思ったが、何か秘密があるのかな?」
「恥ずかしながら、何もございません。醤油と味醂、少しの酒ぐらいなものでして」
「ほう、特別な事をしなくても美味しいのか」
直衛がそう言うと、手に持っていた焼きおにぎりを頬張った。
「直衛、今日はよく食うじゃねぇか」
「帯刀殿。それは鬼八の料理が美味しいからですよ。それに何だか、あったかい気持ちになりますね」
碧は思わず頷いていた。六蔵の料理を食べると、心が温かくなる。そして、自然と笑顔になってしまうのだ。それは六蔵の腕だけではない。食べた人が幸せになって欲しいという六蔵の願いが、絶妙な調味料になっているのだ。
「六蔵さん、私は学びました。特別な事をしなくても、高価な素材を使わなくても、この世には美味しい物が溢れているのだと」
「そんな、あっしは」
慌てて六蔵が頭を下げたので、碧もその後に続いた。
「うん、鬼八の料理を私の家族にも食べさせてやりたい」
「直衛様。うち料理でよろしければ、いつでも。ねぇ、六蔵さん」
「へぇ」
碧の横で、六蔵が苦笑いしている。愛想の無い六蔵の精一杯の接客が何だかおかしかった。
「しかし、それでは鬼八の皆様にも、他の客にもご迷惑になりましょう」
と、口を挟んだのは、今まで黙っていた平山だった。直衛が眉間に皺を寄せる。本当に残念そうだ。
「なら、六蔵と碧さんに来てもらえばいいじゃねぇか」
平山も、それがいいと頷いた。
「そうですね。帯刀殿の言う通りです。どうでしょうか、六蔵さん。私の家族に料理を作ってくれませんか?」
「へぇ、あっしは雇われた身ですので」
と、六蔵が碧の顔を窺う。勿論と、碧は首を縦にした。何せ、相手は若宮様である。断われるはずもない。
「そうと決まれば、こいつは楽しみだ」
帯刀が一つ手を叩いた。にんまりと笑んでいる。
「最近、どうも城下が血生臭くていけねぇと思ってたのよ。これが上手く行きゃ……」
と、そこまで言った帯刀を、平山が制した。
「おっと、これはお前達にゃ関わりねぇこった。じゃ、日時と場所が決まれば報せに来るぜ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「六蔵」
その夜、熊吉が店仕舞いした鬼八に怒鳴り込んできた。現在、熊吉は日中の酒屋業だけに集中しているので、この時間に現れる事は滅多にない。
「お父ちゃん、どうしたのさ」
「六蔵はまだいるか? 六蔵に話があんだよ」
すると六蔵が、板場から顔だけを出した。
「てめぇ、どういう了見だ」
今にも掴みかかりそうな熊吉に、碧は咄嗟に抱きついて止めた。
「もう、お父ちゃん。何があったのよ」
「こいつ、
「秀松って、あの?」
秀松というと、夜須城下の
「六蔵はよ。秀松からうちに来ねぇかって誘われてたんだ。俺はこいつの為を思って行って来いと背中を押したんだ。六蔵の腕は本物だ。その腕をこんな場末で埋もらせられねぇ。埋もらせちゃいけねぇんだと思ってよ。それに、あっちの方が給金もいいし、何より江戸へ行かせてくれると約束もしていた」
「江戸って」
碧が思わず口に出すと、熊吉が一瞬だけバツが悪そうな表情を浮かべた。
「……六蔵は江戸で修業がしてぇんだ。色んな料理を覚えて、腕を磨きたいのさ。なぁ、六蔵。お前、言ってたよな?」
それまで黙っていた六蔵が、一つ頷いた。
「ええ、旦那が言うように、あっしは江戸で料理を学びてぇと思っています。しかし、それは秀松さんの為じゃございやせん。鬼八の為なんです」
「ふん、気持ちは嬉しいがよ。俺は義理なんぞにてめぇの将来を縛られて欲しくはねぇんだよ」
「そうよ」
碧は思わず言っていた。
「六蔵さんは、前に自分の夢を見付けたって言ってたわよね。その夢が、江戸へ行く事なら、鬼八にこだわる事はないわ」
「……」
「そりゃ、悲しいわよ。六蔵さんが鬼八に来てから、毎日が楽しくなったし、店も繁盛したし。あたしだって寂しい。ずっと一緒にいて、店をやっていきたいと思ってた。でも、六蔵さんには六蔵さんの人生があるの」
「碧さん」
「死んだ甚吉さんも、それを望んでいると思うの。そして、粂吉さんも。それに六蔵さんはあたしに自分の幸せだけを考えてって言ったけど、六蔵さんも自分の事だけを考えてよ」
堰き止めていた感情が溢れ出すように、碧は言葉を抑えられなかった。そして、頬も濡れていた。
六蔵が俯く。そして顔を上げた時、大きな右手を碧の頬にあてて、流れる涙を拭った。
温かい手だ。それでいて、頬だけでなく心をも包み込んでくれる。涙が、また溢れた。
「碧さん、あっしのような
「六蔵さん」
「あっしも、碧さんと熊吉の旦那と、ずっと一緒に鬼八でやっていきてぇです。そりゃ、江戸には行きてぇ。だが、全ては鬼八で旨い料理を出す為なんで。腕を磨いて、鬼八を繁盛させる。それが、あっしの夢なんでさ」
熊吉が、碧と六蔵の顔を交互に見て、にやりと笑った。
「わぁたぜ、この話はお流れでいい。お前の気持ちも、ようわかった。本当にいいんだな、六蔵」
六蔵が力強く頷く。その表情には、一点の迷いも無い。六蔵は傍にいてくれる。ずっと、あたしとお父ちゃんと、鬼八にいてくれる。それは義理ではなく、六蔵が決めた事として。
「よし。じゃ秀松にゃ、明日詫びに行くわ。それはそうと、大声を出したら腹が減っちまった。六蔵、何かあるかい?」
「焼きおにぎりを残しておりやした。今から焼き直しやす」
そう言って六蔵が板場に引っ込むと、熊吉が碧に頬を寄せた。
「あの男なら、心配ねぇ。今度こそ、お前は幸せになれるぜ」
また、涙が溢れそうになる。目頭を押さえた時、板場から香ばしい幸せの香りが漂ってきた。
〔第五回 了〕
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