第四回 だご汁

 如月の日差しが、燦燦さんさんと夜須藩の城下町に降り注いでいた。

 雪が例年より多く降った正月だったが、今は路傍の隅に追いやられて、あとは溶けて消えるその日を、ただ待っているだけのように思える。

 そんな昼日中と言えど、まだ肌を刺す寒さは残っている。雪は消えても、春の足音はまだ遠いように思える。

 この日、碧は五日に一度の休みで次郎坂町じろうざかちょうの友人を訪ねていた。

 その友人というのが、昔住んでいた長屋の幼馴染で、おみつという。お満が去年の暮れに二人目の子供を出産したというので、そのお祝いだったのだ。

 昼餉を共にしてお満の長屋を出た碧は、次郎坂を下ると一つ大きな溜息を吐いた。

 二人の子供に囲まれ、左官の亭主を待つお満の姿を見ていると、かつて自分が夢見たものと重なり、妬ましいと思ってしまう。


(なんて、嫌な女……)


 羨ましがってもどうしようもない事なのだ。

 碧は一度武家に嫁いだが、子に恵まれずに離縁させられていた。


「石女のお前に何の価値も無い」


 義母にそう詰られた言葉を、時折思い出してしまう。遠い昔に受けた怪我と思っていた。六蔵と出会ってからは、そのきずは瘡蓋になったと思っていたのに、どうしてこうも疼いてしまうのか。


(やっぱり来るんじゃなかった)


 そう思ってしまう自分が、ますます嫌になる。お満を祝いたいという気持ちに嘘はないというのに。

 碧は、とぼとぼと歩いていると、駕籠町かごのまちの掘割で見知った背中を見付けた。


「あっ」


 思わず声を挙げていた。目の前の男はゆっくりと振り向くと、碧の存在を認めて口許を緩めた。

 やはり六蔵だった。その顔を見た瞬間、重石が圧し掛かっていた碧の心が、ふっと軽くなるのを感じた。


(こんな事ってあるのかしら)


 店は休み。そして、駕籠町は六蔵が住む三間堀に近い。この辺で出会っても不思議ではないのだが、一瞬でも何かの縁だと感じてしまう自分が、何とも恥ずかしい。


「碧さんじゃございやせんか。お出掛けで?」

「ええ。次郎坂に住む幼馴染が二番目の子供を産んだので、そのお祝いに」

「そうですかい」


 六蔵がそう言うと、やや細い目を伏せた。このまま六蔵は、


「それじゃ、あっしはこれで」


 と、踵を返して去ってしまうだろう。それが嫌で、碧は次の言葉を続けた。


「六蔵さんもお出掛け?」

「えっ、ええ。天願寺門前町てんがんじもんぜんちょうの研ぎ師に預けた包丁を受け取りに行くだけで」

「そう。あたしも行っていいかしら? 勿論、六蔵さんがよければだけど」

「碧さんが? 楽しい事もございやせんよ」

「いいの、いいの。天願寺さんへも行きたいし」


 そう言うと、六蔵は仕方がないという風に首を縦にした。


「それじゃ、帰りにでも寄りましょうか」


 昨年の暮れ、六蔵は碧の元夫である西山喜重郎のつきまといを止める為、喜重郎との果し合いをして傷を受けていた。そのお陰で喜重郎は姿を現さなくなり、六蔵の隠された過去の一端も知る事になった。

 六蔵の生まれは、野州夜須藩の伊岐須郡。十三を過ぎた頃から無頼を気取るようになり、十六の時に、掏摸スリがばれて入牢。翌年に放免され、十八歳で〔六道りくどうの仙右衛門〕という盗賊の手下になったのだという。ただ、教えてくれたのはそれだけで、どうして盗っ人になったのかだけは、詳しく語ろうとはしなかった。

 心のどこかで、この人は堅気ではないと、ずっと思っていた。ある日酔客が店で暴れた際に、六蔵は眼光だけで追い出した事がある。言葉遣いこそは丁寧だったが、その客は震えあがっていた。

 だから、


(この人は、あたし達とは違う世界にいる)


 と、感じたものだが、実際に入墨がある事を知っても、六蔵に抱いた感情に揺らぎはしなかった。過去は過去。今がよければそれでいい。それは自分のこれからにも言える事だった。

 傷を負った六蔵は、暫く店を休んだ。その間、碧は熊吉に命じられて六蔵の世話を甲斐甲斐しく行った。

 六蔵は遠慮したが、熊吉が


「世話を受けねぇなら、鬼八の板場には立たせねぇ」


 などと言って、無理強いしたらしい。


(あの馬鹿親爺)


 と思いつつも、心のどこかで碧は感謝していた。父の一言がなければ、六蔵の傍らにはいられなかったはずだ。

 六蔵が回復する十日間、碧は夢見心地だった。男女の仲という意味では何の進展も無かったが、傍にいるだけで幸せだと思った。そして、六蔵はぽつりぽつりと身の上話を聞かせてくれた。盗賊だった時の話、足を洗う事になった切っ掛け、そして甚吉という板前に料理を仕込まれた日々。

 六蔵の事を、少しずつ知っていく。それもまた、碧の幸せだった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「前から思っていたんだけど、その包丁かなり古い物じゃない?」


 研ぎ師がおもむろに包丁一式を差し出すと、碧は覗き込んで言った。

 柳刃・出刃・小出刃・蛸引・むき包丁・鰻裂き・どじょう裂き。どれも使い込まれ、一回り以上は小さくなっているように見える。


「これ、師匠から譲られた物なんです」

「えっと、江戸で板前をしてたっていう。確か、名前は甚吉さんって言ったわね」

「左様で。あっしに料理のいろはを教えてくれたお人でございやす」


 そう言って、六蔵は革の包丁巻きに全てを仕舞い込み、研ぎ師にお代を渡して店を出た。

 それから碧は、六蔵と共に天願寺に参詣し、その帰りには甘味茶屋が店先に出した縁台に腰掛け、午後の小腹を満たした。

 六蔵は、師匠である甚吉とのあれこれを語ってくれた。ほろ苦いほうじ茶が、口を滑らかにしたのだろうか。しかし、語られる話もほろ苦い思い出だった。


「二度目の入牢で堅気に戻ろうと決めたんですがね。一味から足を洗おうと申し出た時に、『他に活計の宛てもねぇだろう。手に職がねぇと、またここに戻っちまうぜ』と、仙右衛門の頭領おかしらが、懇意にしている板前を紹介してくれたんでさ」

「それが甚吉さんね?」

「ええ。もう鬼のように厳しいお人でした。あっしは手先が器用でしたんで飲み込みは早い方ではあったんですが、毎日毎日が地獄でしてね。今じゃ笑い話ですが、何度柳葉で首を掻っ切って逃げてやろうかと思った事か」

「でも、逃げなかったんでしょう?」

「そりゃ、師匠が本気で俺に料理を仕込んでいたのがわかっていたからで。師匠は、俺にどこでも板前として生きていけるよう、色んな料理を教えてくださったんです。寿司や刺身、蕎麦、饂飩、天麩羅、煮物、焼き物から、山鯨の捌き方まで」

「今、甚吉さんは?」

「死にやした。胃の病でしてね。死の間際に、師匠から鬼八を紹介されたんでさ。師匠と熊吉の旦那は知り合いで、前々から板前を一人紹介してくれと頼んでいたそうで。それであっしは、師匠の店を息子さんが継ぐのを見届けてから、野州に来たんです。何の因果か、あっしの故郷に戻るって事になりやしたがね」


 碧は低い声で淡々と語られる話に耳を傾けながら、人の縁というものに想いを馳せた。

 碧も六蔵に出会うまで、そして鬼八が繁盛するに至るまでに色々あった。六蔵も鬼八に辿り着くまでに色々あったのだ。長い道のりの末に出会った。そう思うと、年甲斐もなく胸の奥が熱くなってしまう。


「つまんねぇ話をお聞かせしちゃいやした。行きやしょう。あっしが送りやす」


 六蔵はそう言って立ち上がり、お代を縁台に置いた。碧は咄嗟に財布を取り出したが、それを六蔵が押し止めた。


「おう、六蔵じゃねぇか。おいおい、探したんだぜ」


 不意に背後から声を掛けられた。

 振り返ると、そこに背の低い男が立っていた。


(なに、この人……)


 碧は反射的に顔を顰めていた。

 三度笠に道中合羽。笠は所々穴が空き、合羽は煮染めたように汚れて柄がわからない有様。見るからに渡世人の風体で、動く度に旅塵が舞いそうなほど不潔だった。

 野州は隣国の上州に比べて治安は安定し、渡世人の姿も少ない。が、時折上州から流れて来ては、方々で問題を起こしている。彼らは素浪人同様、疫病神以外の何者でもなかった。

 そんな男が、六蔵の名を呼んだ。碧は不安気に六蔵を一瞥した。


「お前」


 六蔵の顔が強張っていた。

 碧の脳裏に浮かんだのは、昔の盗人仲間では? という疑念だった。六蔵の前に現れ、また闇の中へと誘おうというのか。

 男が、三度笠の庇を上げた。陽に焼けた顔に笑みが浮かぶ。黄色い歯が、碧の嫌悪感を煽った。


「粂太か」


 六蔵が男の名を呟くと、


「久し振りじゃねぇか。達者だったかい?」


 と、近付いてきたので、碧は思わず六蔵の背に隠れるように後退りしてしまった。


「おっと、こいつはすまねぇ。俺は粂太という男で、六蔵とは腐れ縁よ。で、あんたは六蔵のご新造さんかい?」

「違う」


 六蔵は即答した。粂太のような男でなかったら、女房に間違えられるのは嬉しかったかもしれない。しかし、この男は別だった。


「世話になっているお方の娘さんだ」

「へぇ、そうか。それでお前、今板前をしてんだってなぁ?」

「そうだ」

「かつては〔野州の小天狗〕と渾名されたお前が、今は包丁片手に堅気の真似事かよ」

「真似事じゃねぇ」

「ああ、知っているぜ。お前、俺が奥羽で旅修行している間に足を洗って、みっちりと板前の修行を積んだってな。まぁ本題はそれじゃねぇんだ、お前だけに話がある。付き合え」

「断る」

「そう言うなよ。同じ釜の飯を食った仲じゃねぇか」

「悪いが、俺は足を洗った。堅気になり切れてねぇかもしれねぇが、それでも俺は堅気のつもりだ」

「堅い事を言うなよ。命を預けられる相棒はお前しかいないんだよ」


 やはり、この男が六蔵を元の世界に連れ戻そうとしている。


(駄目だ、止めなきゃ)


 碧はそう思っても、どうしたらいいかわからなかった。この二人の会話に入っていける隙は微塵も無い。でも、勇気を出して


「早く行きましょう」


 と、せめて言うべきではないのか。碧は意を決して口を開こうとした時、六蔵が一つ溜息を吐いた。


「粂太。俺はもう昔の俺じゃねぇんだ。諦めてくれ」


 それから六蔵が、碧に目配せをした。


「行きやしょう」

「でも……」

「いいんです」


 碧は粂太を見て、軽く黙礼をした。

 粂太は追いかけてくる素振りはなかったが、ただ黄色い歯を剥き出しにして、薄ら笑みを浮かべていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 粂太が鬼八に現れたのは、それから七日後の事だった。

 陽が中天を少し過ぎた頃で、店にはまだ熊吉がいる時分だった。


「六蔵はいるかい?」


 碧は、驚きで片付けの手を思わず止めた。


(どうして此処に……)


 粂太は先日とは打って変わって、縦縞の着流しをパリッと着こなし、月代も剃り上げられて青々としている。それでも、混み上がる不快感は変わらなかった。


「粂太さん」


 碧は、思わずその名を呼んでいた。粂太が満面の笑みを浮かべた。


「へぇ、俺の名前を覚えてくださったとはありがてぇ」

「そりゃ、だって」


 客がいないのが幸いだった。こんなヤクザ者が出入りしていると思われると、やっと評判になってきた鬼八の看板に泥を塗ってしまう。


「誰でぇおめぇ」


 熊吉が横から入って来た。空いた土間席で六蔵が拵えた賄いをかき込んでいたのだ。碧はこれで話がややこしくなると、思わず頭を抱えた。


「俺は粂太っていう、六蔵の友達だ。あいつ、いるんだろう」

「おう。六蔵はうちの板前よ」


 熊吉は、我が父親ながら昔は悪かった。破落戸ごろつきは破落戸の臭いがわかるのだろう。小綺麗にしていても、粂太が放つ危うい雰囲気を感じ取ったのだ。


「六蔵はお前ぇのようなヤクザもんと関わるような男じゃねぇ」

「お父ちゃん」


 碧は喧嘩っ早い熊吉を止めたが、粂太は相手にしない風に


「六蔵の野郎、中々いい人に面倒を見られているようだねぇ」


 と、あの薄ら笑みを浮かべた。


「へん、聞いてんのかい若造」

「おっと、こいつぁ怖ぇ。とんだ雷親父だ」


 粂太は、茶化すように肩を竦める。熊吉の顔にはいよいよ青筋が入る。若い頃ならいざしらず、今は老境の身。粂太に殴られでもしたら擦り傷じゃすまない。


「やめろ」


 その時、板場から六蔵が現れた。


「何だ、いるじゃねぇかよ」


 粂太は、碧と熊吉を無視して六蔵の目の前に立った。それが熊吉の怒りを煽ったが、


「もう、お父ちゃん。いい加減にしてよ」


 と、袖を引いた。こうなれば、もう見ている事しかできない。


「すまねぇな。仕事場に押しかけてよ」


 小さな粂太と、見下ろす六蔵。風格も男振りも随分と違う。この二人が、かつて同じ飯を食ったというのが嘘に思えるほどに違った。


「噂で聞いたぜ? 今や夜須でも一二を争う料理人だって話じゃねぇか。正直、驚いたぜ。すまなかったな、堅気の真似事だって言ってよ」

「帰れ。ここはお前のような破落戸が来るところじゃない」


 六蔵が、粂太の話も聞かずに言い放った。怒っているのだろう。声は低く荒げてもいないが、腹に響くような重みがある。


「つれねぇ事を言うなよ。六蔵、俺の話を聞いてくれりゃそれでいいんだ」

「不躾に現れて話を聞けだと」

「そうさ。話さえ聞いてくれりゃそれでいい。それで俺は諦められるんだよ」

「……」

「頼れる仲間は、みんな火盗に踏み込まれた時にお縄にされてよ。俺にゃ兄弟分のお前しかいねぇんだ」


 六蔵が碧と熊吉に目を向けた。熊吉が頷き、それに碧も続いた。


「粂太。この道を進んで右に折れると、庚申塔がある。その辺は人も来ねぇ。そこで待っててくれ」

「いいぜ。邪魔して悪かったな」


 粂太が碧と熊吉に片手を上げ、店を出ていった。


「ご迷惑をおかけし申し訳ございやせん、旦那。碧さんも」

「いいんだ。お前の過去を知った上で雇ってんだぜこっちは。それにお前が変わったという事も承知の上よ」


 熊吉がそう言ったので、碧も頷いた。


「すみません。あいつは、兄弟みたいなもんなんで。お時間は取りません、少し出て来やす」


 そう言って、六蔵は重い足取りで店を出て行った。残された碧は、痛みすら伴う不安を抑えきれなかった。

 兄弟と言った時の横顔。何人も近付けない、近付けさせない、深い翳りがあった。自分達とは住む世界が違うような。そして、また暗い闇の中に戻ってしまうような。


「碧よう」


 不意に声を掛けられ、碧はハッと我に返った。


「お前、ちったぁ六蔵を信じてやったらどうだ」

「信じるって、あたしが?」

「ああ、今のお前は不安でいっぱいって顔をしてやがる。十四や十五の娘じゃあるめぇし」

「なによそれ」

「疑わないって言ってもいいがよ。もう昔の六蔵じゃねぇんだよ。お前が心配しなくても六蔵はどこにも行きはしねぇよ。あいつの家は此処なんだ」


 碧は返す言葉が見付からず、ただ黙る事しか出来なかった。そして、恥ずかしかった。六蔵を信じていなかった自分に気付いた事と、それを熊吉に見抜かれてしまった事を。

 それから四半刻後、六蔵が戻って来た。表情はいつもと変わらず暗い。陰気な雰囲気はいつもの事なのだ。


「どうだったの?」


 碧が訊いた。熊吉はさっさと帰ってしまっている。


「一味を火盗に売った奴がわかったんで、一緒に仲間の意趣返しをしてくれと」

「それで……」

「断りやした。薄情かもしれねぇが、俺には俺の夢ってもんを見付けちゃいやしたし。儚い夢かもしれやせんが、今はそれが励みなんで。粂太もわかってくれたようで、『これで諦められる』と笑って帰っていきやした」


 それ以上、この件について六蔵が語る事はなかった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 暮れ六つの鐘が鳴り、鬼八の赤提灯に火を灯したばかりの刻限だった。

 相変わらず鬼八は繁盛し、先日増築したばかりの客席は満員に近かった。


(全く、嬉しい悲鳴だわ)


 増築を機に給仕の小女を二人に増やしたが、それでも足らないと思う事がある。板場はもっと人が足らないはずだ。見習いで誰かを雇うのもいいかもしれないが、果たして六蔵が承知するかどうかが心配である。

 そんな中、武士の二人組が入ってきた。


「えっ、えええ」


 と、間の抜けた声を挙げたのは、亀井惟之介かめい これのすけという常連客だった。


「亀井様、どうしたんですか?」


 やれやれという風に、碧が声を掛けた。

 亀井惟之介は、町方の同心で定町廻りをしている。鬼八には、町廻りの途中や、役目終わりに立ち寄ったりする。まだ若く男前の類だが気弱な所が玉に瑕だとからかわれている。


「いや、あれだよ、あれ」


 亀井が碧にそっと、部屋の隅の土間席に案内されている二人組を指さした。

 一人は羽織袴の武士。名は確か平山清記とかいう、内住郡の代官だ。もう一人は平山よりも年上そうに見えるが、着流しに落とし差しという気軽な服装だった。


「何よ。あれは平山様よ。ご家老様と来られた時に亀井様もいたじゃありませんか」

「それは存じておる。違う、もう一人の御仁。あれが誰だか知っているのか?」


 碧は首を横にした。人の顔と名前をすぐに覚える碧であるが、着流しの男は初めて見る気がする。


「あれは若宮様だ」

「若宮様?」

「冗談を言うものではないぞ。あのお方は、先代藩主の御舎弟であられる、栄生帯刀さこう たてわき様だ。若宮邑わかみやゆうの領主であられるので、若宮様と呼ばれておる」

「へっ」


 碧も思わず変な声を挙げていた。慌てて口を噤んで二人組に目をやった。二人は鯉の甘露煮を肴に、早速銚子を傾けている。


「到底そうは見えないわよ。素浪人にしては上品過ぎるとは思うけど」

「滅多な事を言うな。そういうお方なのだ。無頼を好まれるが、見ている所はしっかりと見ておられる藩の重鎮。普段は江戸におられるが、帰国していたのか。しかし何だって、この店は藩のお偉方ばかりがあつまるんだ。満足に酒が飲めぬではないか……」


 惟之介がそう嘆いていたが、碧は半分だけ聞いて板場に引っ込んだ。

 六蔵は、湯がいた里芋を笊に上げた所だった。


「ねぇ、六蔵さん。今日もお偉方が来ているわよ」

「へぇ、そりゃまた。去年のご家老様といい、熊吉の旦那がいりゃ、えらく騒いでいたでしょうね」


 熊吉は今、夜の居酒屋を碧と六蔵に任せて、昼の酒屋稼業に専念している。確かに六蔵が言うように、この場にいたら大騒ぎするだろう。


「馬鹿親爺の事なんてどうでもいいのよ。今日来ているのは、先代のお殿様の弟よ。若宮様? とか亀井様が言ってたけど」

「左様ですかい」


 六蔵は驚いた様子もなく、湯がいた里芋に串を通していく。これから焼いて、いも串を作るのだろう。その片手間で、小鍋の中身を木べらで撹拌している。


「ご家老様の時はいつも通りって言ったけど、今回もいつもの料理でいいのよね?」

「へぇ」


 六蔵は、いも串を炭火の焼き台へ乗せた。


「いつもの料理を食べに来たのに、いつも通りじゃねぇ料理を出す方が失礼になりやすし。品書き通りでいきやしょう」


 最近になって毎日の品書きは、六蔵が考えるようになっていた。時折、碧に意見を求める事もあるが、殆どを任せている。そして決まったものを、店先に張り出すのだ。それも今年になって始めた事だった。

 今日はいも串に鯉の甘露煮、そして小豆と南瓜のいとこ煮である。それに飯と味噌汁、香の物も言えば出した。


「六蔵さんらしいわ。あたしも、そうは思うけど、お殿様の叔父様と言われるとねぇ」

「お殿様だろうと百姓だろうと、あっしはお客さんに誠心誠意の料理を作るだけですから」


 六蔵は、料理人として一本筋が通っている。いくら不愛想で受け答えが暗くても、料理の中心には常に食べるお客があるのだ。

 こんな男だから、自分は板場を気持ちよく譲れたのだ。そして、こんな男にこそ祖父と父が築いた鬼八を継いで欲しいとも。

 六蔵が、焼き上がったいも串にみそダレをかけた。このタレは、味噌に砂糖と味醂を加え、とろみが出るまで煮詰めたものだ。六蔵がしきりに撹拌していたのは、焦げつかせない為だったのだろう。


「あの……」


 と、暫くして小女のお雪が板場に顔を出した。笑顔が似合うお雪の顔が幾分か曇っている。


「あら、お雪ちゃん。どうしたのさ?」

「いや、それがお客様が主人を呼んで来いって。あの土間席のお武家様が」

「何だって? 若宮様じゃないか。まさか、お雪ちゃん。何か粗相をしたのかい?」

「いや……何も。でも、そんなに悪い事では無さそうなんですけど」


 話の要領が掴めない。碧は六蔵と顔を見合わせ、二人で出て行く事にした。


「よう、あんたが主人かい?」


 着流しの武士が、六蔵に向かって手を上げた。栄生帯刀という武士である。些か険しい表情をしているのが気になった。


「いえ。板場を任されておりやす、六蔵と申しやす」

「そうかい」


 帯刀が言葉をそこで切ったので、碧は息を呑んだ。隣で立つ六蔵は、表情一つ変わらない。

 やはり、いつも通りの料理を出したのが気に入らなかったのか。なら、最初から鬼八に来るのが間違っている。


「ふふ。旨いねぇ、ここは。家老の添田が自慢していた事だけはあらぁ」


 帯刀が満面の笑みを浮かべたので、碧はホッと胸を撫で下ろした


「へぇ、ありがたい事で」

「だが、添田の野郎が店を教えねぇから、この男に訊いたんだ」


 向かいに座していた平山が軽く目を伏せる。


「六蔵と言ったな。お前さんの腕前なら、江戸の深川で店を構えても通用するぜ。いや、こんな山奥の田舎では惜しいくらいだ」

「江戸で」


 そこまで言うと、六蔵は口を噤んだ。

 しかし、一瞬だけ六蔵の眼に光が宿ったのを、碧は見逃さなかった。それは鋭さではなく、歓喜に近い光である。

 無理もない。江戸で通用すると言われたのだ。料理人ならば、当然の反応だろうと碧は思った。


「その様子じゃ、俺の事は知っているようだね。おっと、だからって跪けってわけじゃねぇぞ。俺は客で、それ以上でも以下でもねぇ」


 六蔵が碧に目をやり、二人して次の言葉を待った。


「今度から寄らせてもらうぜ? 添田は最近何やら忙しくて、店には来れぬようだしな。まぁ、俺もその〔何やら忙しい〕為に、江戸からわざわざ来たんだがね」


 添田は、忠義党との悶着で忙しいのだろう。窮地に立たされた忠義党が、利景と協力して失脚させた犬山梅岳と手を組もうとしているのだそうだ。そうなれば、添田の立場も危ういらしい。そうならない為に、江戸から帯刀を呼んだのかもしれない。政事など碧には全くわからないが、居酒屋という場所は、嫌でもそうした噂の類が耳に入ってくる。


「栄生のもんは入っちゃならねぇ決まりなんてねぇんだろ?」

「それは勿論。でも、うちは酒屋稼業から気紛れに始めた店ですよ」


 碧は遠慮がちに答えた。本当なら、直答を許されない身分の人だ。


「だが、出してる料理も酒も本物だ」


 それから、帯刀と平山は料理と酒をたらふく楽しんで帰った。特に帯刀はいも串が気に入ったらしく、土産に七本も焼かせて持ち帰っていった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 それは、店を閉めてすぐの事だった。

 戸を軽く叩かれたので碧は、


「看板ですよ」


 と、言いつつ戸を開けると、そこに道中合羽に三度笠の粂太が立っていた。


「申し訳ねぇ、六蔵はいるかい?」


 いつになく真剣な面持ちに気圧され、碧は六蔵の名を呼んでいた。

 前掛けで手を拭きながら現れた六蔵は、粂太を見て目を細めた。


「すまねぇ六蔵」

「いや、構わんよ」

「別れの……、いや最後の挨拶ぐれぇしたくてやってきた」

「そうか」


 六蔵が、何かを言い掛けたが、口を閉ざして飲み込んだように見えた。


「俺だけでやってやる。だから……、な」


 何をやるのか。どこへ行くのか。堅気の碧にはわからない。そして、触れてもならない事なのだとも思った。


「飯、食ってけ。俺に出来るのはそれぐらいだ」

「いいのかい?」


 六蔵が碧を見た。勿論、断るつもりはない。碧はありったけの笑みで頷いた。六蔵はもう闇の中には戻らない。そう信じているのだから。そう思えば、粂太への不快感も不思議と消えていた。


「申し訳ございやせん。粂太の分、俺から引いてくださいやすか」

「何を言うの。六蔵さんの兄弟みたいなものなんでしょ? ご馳走してもいいじゃない」

「すまねぇ、碧さん」


 粂太が頭を下げる。よく見れば愛嬌のある顔をしているではないか。なのに、何を心配していたのだろう。自分でも可笑しくなる。


「六蔵、板場でのお前を見せてくれよ」

「おう、いいぜ。板前の六蔵を目に焼き付けていけ」


 板場に行くと、団子のタネが用意されていた。これは小麦粉に水と塩を加えて捏ねたものだ。


「これに入れるのかい?」


 粂太が鍋を覗き込む。六蔵は小さく頷いた。

 だし汁に味醂を加えた中に、牛蒡・人参・大根・里芋、そして六蔵が今朝仕入れたという山鯨の肉も煮込まれている。


「仕上げだ」


 そう言うと、六蔵は手際よく団子のタネを手で薄く伸ばしちぎって入れ、最後は味噌を溶いた。


「おい、これって」

「だご汁だ」

「やっぱり。お前ってやつは」


 粂太が涙を堪えるような仕草をして板場を出て行ったので、碧は六蔵にそれとなく訊いた。だご汁という名前を始めて聞いたのだ。


「だご汁?」

「ええ。九州の料理でしてね。あっしや粂太が親とも慕った仙右衛門の頭領が、よく作ってくれたんですよ。頭領は筑前の出でございやしたから」

「なるほど。じゃ、六蔵さんは粂太さんが来るとわかって用意してたの?」

「へぇ」


 と、短い返事をして、六蔵はだご汁を椀によそった。


「あいつの話から、今夜あたりにゃ夜須を出るだろうと思っていたんで。恐らく今生では、もう二度と会う事はねぇでしょう。粂太もそのつもりだと思いやす」

「そう……」

「あいつは器用そうで、そうじゃねぇんです。それで碧さんにも旦那にもご迷惑をお掛けしやした。でも、あいつは客がいねぇのを見計らって来てくれたです。それがあいつなりの精一杯の気遣いだと知った時、これぐれぇはと思いやした」


 碧には何も言えなかったし、言うべきでもないと感じた。

 大切な六蔵が、大切な友達と別れるのだ。しかも涙ではなく、笑顔での別れ。なら、自分が出来る事は一つ。碧は腹の底から息を吸い込んで言った。


「粂太さん、お待ちどうさま」


〔第四回 了〕

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