第三回 鯉こく


 強い風が、夜須十二万石の城下を吹き抜けた。

 思わず、碧は風に靡く鬢毛を押さえた。例年より短い秋が過ぎ、何かと忙しい師走の昼下がりである。

 三本松町の長屋を出た碧は、強風にうんざりしながらも、その足を蔵前町へと向けた。

(ほんと、冬が来る度に嫌になるわ)

 からっ風が、せっかく整えた髪を乱していく。冬になるといつもこうなのだ。

 竜王山から吹き下ろす、冷たく乾いた風が原因なのだ。この風は、夜須では〔竜王颪〕などと言われている。この地に生まれ二十八年が経つが、この竜王颪に未だ慣れていない。

 その竜王颪が、今日は特に強い。道行く人も、風を受け流すように前屈みで、どこか足早だった。

(今日は、竜王様の縁日ね)

 と、碧は忌々しく思った。

 竜王颪でも、特に風が強い日を縁日と人々は呼んで恐れている。縁日のように賑やかに、竜王山の竜が降りてくるのだというのだ。それらは迷信であろうが、客の中には竜王山の暴風の中で竜を見たという者もいた。

 蔵前町の小売り酒屋〔鬼八〕は、相変わらず繁盛していた。安いが旨い酒と、去年の秋にやってきた六蔵の料理が評判になっているのだ。そのお陰か、父の熊吉は昼間の酒屋稼業だけに専念し、夜の居酒屋は自分と六蔵に任せ、そこに新たに雇った小女のお雪を加えた三人で切り盛りしている。

 一方の六蔵は相変わらずである。陰気で愛想の欠片も無い。店が始まると板場の奥に引っ込んで、料理を拵えるだけ。お喋りの男は嫌いだが、もう少し話をしてくれてもいいのでは? と思う。そんな六蔵であるが、ひとたびでも彼の料理を口にすれば、印象が一変する。彼の隠れた優しさや気遣いが、味覚を通して伝わって来るのだ。六蔵を連れて来た熊吉は、口の代わりに料理で語っているなどと、嘯いている。

 その六蔵に、碧は少しずつ心を惹かれ始めていた。六蔵の事は何も知らない。どこで育ち、どこで料理の腕を磨いたのか。過去について六蔵は何も語らないし、聞いても苦笑いで躱されてしまう。知っているのは、今年で三十三歳という事と、三間堀の貧乏長屋で一人暮らしをしているという事だけである。それは去年からと変わらず、つまり六蔵とは何の進展もない。

(進展? 何を小娘のように……馬鹿みたい)

 とは思う。しかし、あの六蔵に会えると思うと、毎日の働きに張り合いが出るのも確かだった。

 碧は、出戻りの女だった。一度だけ武家に嫁いだが、子宝に恵まれず、その事で義母にいじめられ遂には離縁させられたのである。思い出せば、その時に受けた胸の疵が疼くが、今では遠い記憶になってきている。

 また風が吹いた。今度は更に強く、家屋の戸板がガタガタと震えている。この風には、自分も慣れない。六蔵はどう思っているのだろうか。今更ながら、そんな世間話もしてはいないと、碧は気付いた。



 碧が人だかりに気付いたのは、鬼八が目と鼻の先に迫った、お不動橋の袂であった。

 不動尊が傍にあるので、その名が付いた橋の下に、大勢の野次馬が集まっていた。

(何かしら?)

 碧は、お不動橋の中頃まで進んで野次馬を見下ろすと、川の畔に男が寝かせられていた。

 死んでいる。碧は、それがわかった瞬間に目を背けたが、

「あっ」

 と、体勢を崩してしまった。

「おっとととと」

 その身体を受け止めたのは、頬かむりの上から編笠をした老爺だった。

「これは申し訳ございません」

 碧は咄嗟に身体を離し頭を下げたが、その老爺は軽い微笑みを返した。

「あなた様は」

 その老爺は、添田甲斐だった。夜須藩の首席家老でありながら、鬼八にちょくちょく顔を出す、大切な常連客である。

「死んではおらぬようだぞ。見てみよ、戸板に乗せられて運ばれていくわ。骸なら、筵を掛けられておるよ」

 碧は勇気を振り絞って、再び覗き見た。確かに、戸板の上で片手を動かす様子が見て取れた。

「何者かに襲われ、気を失ったのだろうよ。しかし、よう生きとったの」

「添田様……」

「シッ」

 添田は、すかさず口の前に人差し指を立てた。

「まぁ、お忍びというわけではないのだがの」

「それは申し訳ございません」

「いやいや。朝っぱらから浪瀬川なみせがわへ釣りに出た帰りでのう。それに、儂とてお城にばかりいるわけではないて」

 添田のやや後ろには、釣り竿を二本抱えた武士が立っている。この男も、最近よく店に来る、平山清記という男だ。内住郡代官であるそうだが、碧はよく知らない。

「へぇ、そうですか。それで肝心の釣果のほうは?」

「儂はさっぱりじゃ。平山は鯉を釣り損ねた」

 そう言って添田が笑い、平山は目を軽く伏せた。

「しかし、最近はどうも物騒でいかんな」

「ええ……」

 二日前、若い武士が吉原町で何者かに刺されたらしい。何とか一命を取りとめたものの、その下手人は未だ捕縛されていなかった。

「あの男は、尾藤勘七びとう かんしちという男でな」

「お知り合いなんですか?」

「まぁ。尾藤を襲ったのは、忠義党の連中じゃろうな。尾藤はお殿様の祐筆として、藩政改革に取り組んでいた一人だ」

 忠義党。お殿様である栄生利景が推し進める藩政改革に反対する一派だ。その名前が出て、碧はハッとした。元の夫である西山喜重郎が、その忠義党に入っていたからだ。今更心配もしていないし、どうなろうと関係は無いのだが。

「忠義党は追い込まれていてのう。まぁ、追い込んでいるのは儂ではあるのだが。それで、失脚した前の首席家老と」

 そこまで言い掛けた時、平山が何やら耳打ちをした。

「おう、すまんすまん。斯様な話を聞いても面白くあるまい」

 碧は何と答えていいかわからず、ただ苦笑いで応えた。

「よいよい。こんな物騒な世にしているのは、儂の責任。しかし、これをさっさと解決し、おぬしの店にまた行くからの。六蔵とやらにも、よろしくと伝えておくれ」

 そう言うと、添田と平山は去っていった。

 碧のような市井の人間に、お城でのすったもんだなど知る由もない。だが、その問題に自分と関わりがある人間が巻き込まれるのだけは嫌だと、碧は思った。



「あ、まだ仕込み中なん……」

 鬼八の暖簾を潜ったその男を見た時、掃除に追われていた碧は、自分の顔が凍り付くのをしたたかに感じた。

 西山喜重郎。徒士組の平士で、かつての夫である。色白で彫りは深いが、髭が濃く口の周りが青々としている。嫌な顔だ。かつてはあんなにも愛していたのに、今ではその薄ら笑みで見つめられると、寒気がするほどだ。

 お不動橋で、添田に会ってから四日後の事である。

「よう碧、元気かい?」

 そう言って笑む喜重郎。纏った酒気を感じた碧は、あからさまに眉を顰めた。

 喜重郎は典型的な酒乱の性質たちなのだ。普段は気が小さいからか、飲むとその反動が出る。所帯を持っていた時も飲んでは暴れ、時には殴られて大変な目に遭ったのは両手では足らないほどだった。

「お前が達者にしているかと思って来てやったよ」

「……」

「何だよ、その顔は」

「何だもへちまもあるものかい。此処はあんたが来る場所じゃないんですからね」

「へっ、俺は客だぜ」

「なら、まだ仕込み中。さっさと出直しな」

「おいおい、それが元旦那様に言う台詞かよ」

「大体、あんたは忠義党とかに入って江戸へ行ったんじゃなかったの?」

「へん。誰があんな奴らと」

 喜重郎は、吐き捨てるように言った。

「奴らのような夢想家とは付き合ってらんねぇよ」

「武富陣内先生や館林簡陽先生は立派な方だと聞いたわよ」

 ここ最近になって、武富や館林といった名が市井でも聞かれるようになってきた。それは、波瀬川の堤防工事の費用を捻出する為に、領内の有力商人から、支援金と称して臨時の徴税を行うと布告した事が関係している。

 臨時の徴税を受ける事になった商人は、諸色を値上げする事で支援金を捻出しようとしたのである。これが領民達の不満を煽り、巡り巡って忠義党の支持に繋がったのであろう。

 今や藩庁内の対立は、市井まで巻き込む勢いがある。居酒屋稼業をしていると、そうした話は否が応でも耳に入るのだ。

「お前は知らねぇからなぁ。あの二人にご政道を立て直す志は無ぇ。あるのは、自ら政事を為したいという野心だけさ」

「へぇ」

「そうだぜ。領民は『先生、先生』とありがたがっているがよ。自分達が家老になってみ。同じような事をするぜ。俺はそれを見抜いたからこそ、俺はな……」

「あんた、捨てられたのね」

 思わず、本音が口を突いていた。この男は、いつもこうなのだ。自分の過ちを、素直に認めない。すぐに、もっともらしい言い訳をする。失敗は誰でもする事なのに、それによって自分の評価が落ちるのを恐れているのだ。

「何だと?」

「捨てられたと言ったの。酒を飲んで、前の女房の店に押しかける。そんな恥ずかしい真似をする男が同志なんて、武富先生も館林先生も御免被るでしょうね」

 碧は感情のまま、怒りに身を任せて言い放ってしまった。

 喜重郎の顔が、赤黒くなって歪む。いけないと思った。今は誰もいない。熊吉は碧と入れ替わるように帰ったし、六蔵やお雪が来るまでにはまだ時間がある。

「言ったな、このアマ

 喜重郎の手が刀に手が伸びる。碧は余りの恐怖に、一歩後退るだけで精一杯だった。

「やめな」

 その時だった。喜重郎の背後から、低く地響きのような鋭い声が挙がった。

 喜重郎が弾かれたように振り向く。その先に、魚籠を手にした六蔵が立っていた。

「それ以上動いたら、お前さん怪我するぜ」

「何だ、てめえ」

「鬼八の板場を任されている、六蔵というもんでさ」

「板前かよ。お前が何の用だ」

「あっしも鬼八一家でございやしてね」

「知らねぇよ、そんな事。余所者は黙ってもらおう」

「仰る通り、あっしは余所者でございやすよ。だが、恩義ある碧さんが困っているのを黙って見ているわけにゃいかねぇ」

「こいつが新しい男か、碧」

 その瞬間、六蔵が怒髪天を突く勢いで、大きく踏み込んでいた。額が付き合いそうな近さで、睨みつける。一方の喜重郎には、明らかに怯えの色があった。

 それよりも、碧は六蔵の凄みに唖然とした。確かに、六蔵の深い翳りに只者ではない何かを感じていたが、思っていた以上に闇が深く、棲む世界が違うという事をまざまざと見せつけられた気分に襲われた。

「あんたは、碧さんを侮辱する事を言いやがった。今すぐ出て行ってくれ。でなきゃ、俺はお前さんを」

「ひぃぃっ」

 六蔵の啖呵に怯んだ喜重郎は、這う這うの体で鬼八を逃げ出して行った。

「六蔵さん……私」

 そう言って頭を下げようとした緑を、六蔵は止めた。そして、土間に置いた魚籠を拾い上げた。

「立派な鯉が手に入りやした。泥は十分に吐かせているので、料理しやしょうか。冬の鯉は絶品でございやすよ」



「まず鯉こくを作りやしょう。うま煮はその後で」

 六蔵は背後に立つ碧にそう言うと、魚籠から鯉を一匹取り出した。

 丸々とした野鯉である。活きもよく、まな板の上で跳びはねている。

「これぞ、まな板の鯉ね」

 そうした冗談に六蔵は何も応えず、ただ口許を緩めた。

「鯉はすぐに捌かないと、死んじまったら臭くなりやす」

 六蔵は野鯉の首を掴むと、出刃の背を打ち付けた。それだけで鯉は動かなくなった。

「目を隠したらいいとも言いますが、それでも動きますので、意味はございやせんね」

 そして鯉の首を落とし、鱗も取らずに輪切りにした。荒々しい捌き方だが、切り身から苦玉にがたまと呼ばれる胆嚢と内臓を取り出す時だけは慎重だった。

「苦玉は毒でして。潰れると身が緑になりやすし、洗っても苦みが残りやす」

「六蔵さん、詳しいのね」

「鯉はおふくろが好きでして。よく食わしてもらっておりやした」

「へぇ。どんなおっ母さんだったの?」

 その問いに六蔵は言葉を詰まらせ、

「優しいおふくろでした」

 とだけ、絞り出すように答えた。

 六蔵は輪切りの鯉に、湯をかけ回し霜降りにした。これで、臭みを取るのだそうだ。その一方で、鍋に水、日本酒、赤味噌、砂糖を入れて煮立った所に、鯉を入れた。

「あとは灰汁を取りながら半刻煮込めば出来上がりです」

「具は鯉だけ?」

「豆腐や牛蒡、葱、大根なんか合いますから入れやしょうか。その間に、うま煮の準備をしやす」

「今日は鯉三昧ね」

 碧が六蔵の顔を覗き込んで言うと、深い翳りのある顔が、一瞬だけ笑ったような気がした。




 それは、翌日の事だった。

 店を開ける前の掃除に追われていた碧の前に、帰ったばかりの熊吉が駆け込んで来たのだ。

「碧、大変だ。六蔵の奴が」

「え? お父ちゃん、どうしたの?」

「為吉とこの坊主に聞いたんだがよ。六蔵の奴が、そこの妙見神社みょうけんじんじゃの裏で喜重郎と」

「何だって」

 確かに、普段なら六蔵は店に出ていてもいい刻限だった。それなのに来ていないので、寝坊かしら? と、不思議がっていたのだ。

「ちょっと行ってくるっ」

 碧は一人、妙見神社まで駆けた。蔵前町からはそう離れてはいない。店へ来る途中で喜重郎に絡まれたのだろうか。

 神社の境内に駆け込むと、裏手にある杜へ向かった。鬱蒼とした木々の中でも、ひと際大きな幹の御神木に男がもたれかって座っていた。

「六蔵さん」

 悲鳴に近い声で碧は叫び、駆け寄った。

「どうしたの」

「へへ、申し訳ねぇです」

 六蔵は、全身に傷を受けていた。刀で斬られたような傷や殴られたような傷はあるが、どれも軽い。出血はあるが大事は無さそうである。

「前の旦那さんとはいえ、許しちゃおけなかったんでさ」

「だからって」

「これを見過ごしちゃ、俺は男じゃねぇんです。それで喜重郎さんと、ナシをつけたんで。誘って来たのは喜重郎さんでした。一人で来たんで、俺は受けやした」

 六蔵の視線の先に、喜重郎が倒れていた。刀も落ちている。喜重郎は町人相手の喧嘩に刀を抜いたのか。だとすれば、ただでは済まない。今のお殿様になって、無礼討ちは禁止され、犯せば死罪という事になっている。

「でも、刀を抜いているわ」

「ものの弾みで抜けたんですよ。町人相手の喧嘩で刀を抜き、それで負けたんじゃ腹を切らなきゃいけませんからねぇ」

「……」

「もう、碧さんの前には現れねえと思いますよ」

「まさか、六蔵さん」

「殺しちゃおりやせん。伸びてはおりやすがね」

 そう言って立ち上がろうとした六蔵がよろめき、碧はその腕を慌てて掴んだ。その拍子に、六蔵の袖がめくれる。そこには罪人の証したる、二本の入墨があった。

「これは」

「見られちゃいやしたか」

 碧は黙って頷いた。

「あっしは、全くのすっ堅気ってわけじゃないんでさ」

「そう」

「碧さんを騙すつもりはございやせんでしたが、言う機会が無くて」

 すると、碧は一つ溜息をついて六蔵を引き起こした。

「何よ、六蔵さん。言う機会も何も、六蔵さんは何もあたしに話してくれないじゃない」

「……」

「それにね、人間こうも長く生きてりゃ、言えない疵なんて一つや二つあるわよ。全く、入墨が何ですか。今の鬼八一家には、六蔵さんが欠かせないんですからね。そんなものがあったって、構やしないの」

「碧さん……」

 六蔵がハッとして顔を上げた。

「さ、帰りましょう。冬の鯉は絶品なんでしょう? 昨日の鯉こくが残っているから、一緒に食べましょうよ。ふわふわの鯉の白身に、味噌の味が染みて美味しいわよ」

「へぇ」

 六蔵が短く言うと、碧に僅かながら体重を預けた。六蔵がどこで生まれ、どこで育ち、どうして罪人になったのか知らない。だが、体重を預けた事が、少し心を開いたかのように感じ、それが碧には嬉しかった。


〔第三回 了〕

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