エピローグ 就職

彼女は無事学校を卒業し、就職することができた。学校の友人と、今日は就職してからしばらくぶりに、二人で夕食を食べているときのことである。

「いやー、おめでとう。でもまさかあんたが精神科に就職するとはね」

 友人がカクテルを口に運びながら話す。

「結構楽しいよ? やっていると」

「でもすごいよねー、看護の学校辞めて作業療法士ってのも」

「別に、すごくないよ。たださ、作業療法士なら一緒にもとの生活に戻るのを目指すってのが、ちょっといいなって思ったから」

 友人はふんふんと興味深そうにうなずきながら、カクテルをぐいと飲み干す。顔はすっかり赤くなっていた。

「で、今どんな患者さん受け持ってるの?」

「あんまり言えないんだけどね。すごい若い子。二十代かな」

「ふんふん」

「絵が好きだったみたいで、絵を高校まで頑張ってたのはいいけど、いじめにあっちゃって学校辞めてね。そこから絵を描く旅をしてたみたい。私みたいに。そしたら海外の学校に留学の誘いがあったみたいだけど、そこでもうまくいかなくて」

「かわいそうに。いるよね。先天的に学校って環境が向いてない子」

「その子もそういうタイプなのかなって」

 次の日。その担当患者の女性と初めての顔合わせをした。カルテでの情報のみだったため、まだ顔が見れていなかったのだ。

 その患者は、布団の中にもぐりこんでいた。外界から遮断されている個室に、患者の荒い息づかいのみが響く。彼女は、あの日のことを思い出し、身構える。

 あの日、クレヨンのアートを教えてくれた女性にした失敗を、もう繰り返したくなかった。

「はじめまして」

 声掛けは無駄だと、わかっていた。カルテの情報にも、外界に一切の興味を示さず、入院してからもほとんど応答はなかったという。

 けれど、彼女の声掛けに、患者の息遣いが収まった。

 そして、そのまま布団からもぞもぞと顔を出す。小さな体に青いジャケットを見に纏っていた。

 まるであの日の自分のように。

「ごめん、はじめまして、じゃなかったね」

 仕事中は、自分の感情を表に出すべきではないことくらいわかっている。しかし、彼女は涙をこらえることができなかった。

 少女も、彼女が誰か理解していた。少女にとって、ずっと追いかけていた存在。それに、また会えた。

 両手にこびりついて消えないチョークの跡を、少女は見せる。彼女はその手を握った。

「今度、みっちり叩き込んであげる。でもその前に、今はゆっくり休んで」

 少女の粉まみれの手を、彼女は愛でるようにさする。この日のために、ここまでがんばってきてよかったと、彼女は思った。


                          おわり

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